学生の時のあれは、元々は彼女の魔法を発散させることが目的であった。制御を離れた魔法が暴発しないよう、言ってしまえばそう、ガス抜きをさせるためのものだったのである。
そして方法はどうであれ、そのおかげか在学中に彼女がそういったトラブルに巻き込まれることはなかったし、ペストクライブすら引き起こされることはなかった。
細かいことを気にしなければ、彼女は比較的平穏な学生生活を送れていたのではないかと思われる。
……まぁ確かに、あまりにムキになって挑んでくる彼女に引き摺られて、当初の目的以上にやり合ってしまった自覚はあるけれど。
それでも彼女は懲りることなく自分に向かってきて、ぶつかってきた。こちらが疑いようもないほどに全力でひたむきで、眩しいほどに純粋だった。
「昔のことだからね。今はお互いに多少落ち着いている」
「多少なのか」
「なかなか手を抜けないんだよ。そうすると怒られるから……ん?」
そこでふと違和感を感じたアルウェスが、ちらりと腕の中に視線を向けた。
先程まで往生際悪く酒を求めて暴れていた彼女が、今はピタリと動きを止めて大人しくしていたからだ。
「ナナリー」
「……ぅ」
「もしかして眠たいの?」
「うぅ……」
否定を表すように突き出された唇。けれど半分以上閉じかかっている瞳や、こっくりこっくりと上体が船を漕いでいる様を見れば眠気なんて一目瞭然である。
「まぁ、そりゃあれだけ飲めばなぁ」
「だからどれだけ飲んだの……」
ははは、と陽気でいるボリズリーと、漏れ出るため息が止まらないアルウェスである。
先程まであれだけ騒いでいたくせにこうも変わるとは。地獄酒の時も後から眠ってしまったし、やはり飲みやすいといっても酒は酒である。
アルウェスが見下ろすと、ナナリーはどうやら必死に眠気と戦っている最中であるらしかった。もぞもぞと頭を動かして、何やらむぐむぐと唸っている。
「んん……」
「ナナリー、眠いんでしょ?」
「うう……眠く……にゃぃ……」
「うん。眠いんだね。分かった今日は帰ろう?」
「いや」
「いやじゃない。ほら帰るよ」
しょぼしょぼさせている目元を指で撫でると、力が抜けたのかぺたりと頬を寄せられた。そんな彼女の水色の頭をぽんぽんと軽く叩きながら、アルウェスはテーブルにざっと目を走らせる。
「こういう状態だから、そろそろお暇するよ。彼女の分の代金はこれで足りる?」
「そうか……って待て待て、足りてるどころか多いぞ」
「ナナリーの保護代も兼ねてるから気にしないで。それに君も、彼女のことがあったからあまり飲めてないでしょ」
だからこれで皆と好きなの飲んでよ、と。
アルウェスは遠慮するボリズリーに紙幣を握らせると、半分意識のないナナリーの腕を引きながら席を立った。
本当はこのまま抱えたいところではあるが、店内は混雑し始めて店員がせわしなく動いている。抱えるにしろ運ぶにしろ、一度外に出てからの方が良いだろう。
「まだ飲める……おのれぇ」
「いいからちゃっちゃと足動かして」
しかし彼女ときたら、この期に及んでまだ勝負のことに頭がいっぱいなようで、その勝利への執心には本当に呆れてしまう。
無意識でこれなのだ。酔っておらず意識がはっきりしていたらどうなっていたことか。
行き交う客や店員、そしてテーブルや椅子などを器用に避けながら、アルウェスとナナリーは静かに店の外へと出た。
ちょうど食事時だからなのだろうか。皆それぞれの店で楽しんでいるのか、繁華街内は思ったより人通りが少なかった。
店から漏れる灯りと賑やかな声。何かがこんがりと焼けたような、香ばしい匂いと芳香な果実の香り。
それらをぼんやりと感じながら佇んでいると、夜風がふわりと二人の髪を撫でるように触っていった。
「ユーリを召喚したいけれど……ここじゃ少し狭いから移動しよう」
建物が密接しているこの場所は、二人を乗せたユーリが飛び上がるのには少し広さが足りないのだ。だから一度繁華街の入り口まで出ようと、アルウェスはナナリーを抱き上げようとする。
腕を背中に回し、もう片方の腕で彼女の膝裏を掬い上げようとして……ぐいぐいと隊服を引っ張られた。
「ナナリー?」
見ればそこには、それは不満ですと言わんばかりに唇をへの字に曲げて、じっとこちらを睨む彼女の姿があった。
「むぅ、アルウェス」
「何?」
「おんぶ」
そのままアルウェスの腕から身を翻したナナリーは、よたよたと覚束ない足取りで彼の背後に回る。
そして両腕を伸ばして、屈めと言わんばかりに彼の背を叩き始めた。
「おんぶがいい」
「珍しいね、君からそんなこと言うの」
「上に乗りたい……アルウェスより上……うえ……私の勝ち!」
「…………分かったよ、ほら」
本当に“勝利”とか“上”とか“一位”いう言葉には、呆れるほどの貪欲さを見せてくれる。
眠気にも勝るらしいそれは、これまで彼女に“敗北”やら“下”やら“二位”という気分を味わせてきた代償なのだろうか。
アルウェスが膝を付いて背を差し出すと、ナナリーはぽすんと素直に身を預けてきた。
首に回された白い腕と、風に流れた水色の髪が視界に入る。ぺたりと密着した背中に確かな重みを感じて、青いスカートから覗く両膝に手を差し入れた。
「ふふふ……アルウェスの背中を掴んでやったわ」
「何言ってるの」
そのままゆっくりと立ち上がって、少しだけ身体を揺らしてバランスを取る。背中で何やらむにゃむにゃ言っている彼女をしっかり支えると、アルウェスは店の入り口に目を向けた。
「わざわざここまで見送りに来てくれてありがとう。うちの馬鹿氷が申し訳ない」
「気にするな。俺も楽しかったよ。ナナリーさんのことも知れたし、アルウェスの新しい一面も見れた。この数時間で多くの発見があって、逆にこちらが勉強になったくらいだ」
「なんとも複雑な気分にさせられる感想だね」
微妙だといわんばかりに眉を寄せて、明後日の方向へ視線を向けているアルウェス。
色々と思うところがあるようだが、そもそもこういった感情をそのまま態度に示すのは、本当に珍しいことなのだ。それは恐らく、側にいる相手が相手だからなのであろう。
普段なかなか見せることのない彼のその態度に、ボリズリーもさすがに笑いを堪えきれない。
「ふっ、本当にアルウェス・ロックマンらしからぬ表情と態度だな。これが本来の姿だとしたら、普段どれだけ分厚い仮面を被っているのやら」
「君の前でもわりとこんな感じだけどね。もともと君には偽りも誤魔化しも通用しないって分かっているから」
「へぇ? つまり俺とは本音で関わってくれているってことか? それは光栄だよ」
「言外に厄介だって言ってるんだけど、気付いてるよね?」
ぽんぽんと互いの口から言葉が飛び交う。なまじ同等の能力を有するからこそ、言葉に含ませた意図や感情を正確に読み取ることができるのだ。
それでなくても、今日のアルウェスはいつも以上に感情表現が豊かに見える。表情も言葉も、まるで一切を飾り立てる気がないと言わんばかりである。
その証拠に。
「このまま眠ってしまえば、次にナナリーさんが目覚めた時にあらかた酒は抜けていると思う。だが彼女けっこうな量飲んでいたからなぁ。いくらアメジスト酒の酒気が翌日には冷めるといっても、正直どうなるか心配だよ」
「気にしないで。どちらにしても説教案件であることに変わりはないから」
「まぁ元はといえば俺が誘ったんだしほどほどに、な? そうだ、なんなら責任持って俺が彼女を介抱するっていうのは──……」
ボリズリーがゆらゆらと揺れる水色の髪に指を伸ばそうとした、その瞬間。
「あのさ」
射殺されんばかりの冷徹な視線が突き刺さった。
「ヴェスタヌでは、未婚の女性に軽々しく触れるのは良い顔されないんじゃなかったかな?」
「ははっ冗談だよ」
これである。実に恐ろしい。
こちらが本気でないことくらい分かっていただろうに、単なる冗談でもこの有り様なのだ。
もちろん他の女性に触れようとしても同じことを言われるのだろうけれど、きっと彼女とその他では違うのだ。言葉の温度も、含まれる意味も、彼が内に抱く感情すらも。
もぞもぞと身動きしているナナリーを支えながら、暴れると落とすよ(“落ちるよ”ではない)などと声を掛けているアルウェスを見ながら、ボリズリーは小さく息を溢した。
「次に会うのは明後日の会議の時だな。ヴェスタヌからの出席者は前回と変わらないが、どうぞお手柔らかに」
「こちらこそ。君がいてくれると話がまとまりやすくて助かるよ。それじゃあ僕らはこれで……って痛い痛い」
「うぅー……勝負はまだこれからなのにぃ……」
「だから暴れないでって……いっそ混沌の魔法でもかけようかな」
足をバタバタ、手をバンバンと上下させている彼女を、それでもしっかりと背負いながら。アルウェスはボリズリーに向けて軽く手を上げると踵を返した。
確か繁華街の入り口まで行けば開けた場所があったはずだ。そこでさっさとユーリを召喚して、一旦公爵邸に戻ろう。彼女は明日仕事が休みだから、必要な荷物は朝にでも取りに行けばいい……その前に話し合いが必要だけれど。
頭の中でさっさと結論を出したアルウェスは、繁華街の入り口の方面へ歩き出そうと踏み出した。
「──なぁ、アルウェス」
不意に背へと向けられたのは、普段の態度からは想像もつかないほどに淡く儚く、そしてどこまでも透き通すように深く響いた──彼の声だった。
その瞬間、繁華街の賑やかな雑踏が、まるでひっそりと静まり返ったかのように気配を無くした。人の話し声も、扉の開閉音も、グラスの交わる音も、どれもこれも先程まで賑やかなほど耳に届いていたはずの音が、さほど大きくない彼の言葉にかき消されて。
アルウェスの足がぴたりと動きを止めた。まだ何か用があったのかと、頭の中で該当しそうな案件を整理しながらゆっくりと振り返る。
「何?」
問うても沈黙を返されて、アルウェスは僅かに眉を寄せた。
……もしかして最後にまた、からかわれたりするのではないか。彼のことだ。“いや、女性を背負うアルウェスだなんていいものを見せてもらったから、ありがとう”などと言われるかもしれない。
一番ありえそうな展開に、想像とはいえ思わずげっそりとしてしまう。この短い時間ですら相当色んなことを言われたのだ。しかも本人はいたって楽しそうであるのだから余計にタチが悪い。
アルウェスはもう何を言われてもいいようにと軽く身構える。その瞬間、見計らったかのようにボリズリーがゆっくりと口を開いた。
「よかったな」
穏やかな言葉だった。裏のない、繕いのない、本心の、思ったことをそのまま表したかのような言葉。ひどく単純で、どこまでも優しくて、安堵と喜びを溶かしこんだような。
「────っ」
驚いて、息を飲む。身体から力が抜けそうになって、ほんの少しだけ重心が傾いた。
動揺が、明らかな形となって浮き彫りになる。
アルウェスが珍しくもそんな醜態を晒したにもかかわらず、目の前のボリズリーはからかうわけでもなく、食い付くわけでもなく、ただただずっと、滲むような笑みを浮かべていて。
「……彼女がいてくれて、本当によかったな」
染み入るように、ぽつりとそう告げた。そして眩しそうに目を細めると、アルウェスが背負っている彼女の水色の髪に、そっと視線を移したのだった。