「はいっアメジスト酒お待たせしましたー」
ちょうどその瞬間、陽気な声と共にテーブルからコンッと僅かな振動が伝わった。
店員が注文した品を運んできたのだろうと、反射的にそちらへ目をやったボリズリーは、テーブルの上の光景を見て、驚きのあまり目を見開いた。
「あ、えっ……は!? ジョッキ!?」
「はい。さっき聞いたらジョッキでも出せるって聞いたので」
「待て待て待てっ!」
想定外の事態に、さすがのボリズリーも驚愕した。酒豪だと思ってはいたが、まさかここまでやるとは。しかも。
「ふふふ……これを飲んでアルウェスとの距離を一気に広げてみせるわ……あいつが追い付けないほど飲んでやるんだからっ」
ふはははは、と怪しい笑みすら浮かべている彼女は、なんとまだまだやる気らしい。
言っておくがここに至るまでに、彼女は相当量を飲んでいたはずである。にもかかわらず、ここにきてさらなる挑戦をするとは。そんなにも彼に勝ちたいと思うのか。なんとも恐ろしい執念である。
ボリズリーが盛大に顔を引きつらせていると、ジョッキを手にしたナナリーがこてんと首を倒した。
「あ、ごめんなさい。今何か言いかけていましたよね?」
「え? あ、あぁ……」
ジョッキ提供のインパクトのせいで、一瞬にして別方向へと意識が持っていかれてしまったのだ。
はっと気付いて、ボリズリーはもう一度ナナリーの方へと向き直る。
「いや、すまなかった。あまりにもナナリーさんがナナリーさんらしくて。これはあのアルウェスでも苦労しそうだなと……」
「ボリズリーさん?」
「失礼、何でもない。それで続きなんだ、が……」
そうして気を取り直して口を動かした瞬間、ふと喉の奥がひゅっと音を立てた。
──ぱちん。
何かが、弾けた。
「……っ」
身体が不自然に軋み、ボリズリーは咄嗟に開きかけた口を閉じる。しばし呆然と硬直し、そして視線を落とすと、考え込むようにじっと一点を見つめ出した。
「ボ、ボリズリーさん!? どうかしましたか!?」
「いや……?」
突如、空っぽになってしまった思考。凝縮されていたものが一瞬のうちに、まるで爆ぜてしまったかのように跡形もなく姿を消して。
──今、俺は何を言おうとしていたんだった?
目の前でジョッキを抱えながら困惑しているナナリーの隣で、彼はぐっと眉間に皺を寄せていた。
とても、大切なことを考えていたような気がするのだ。珍しくそれなりに緊張していて、それを彼女に確かめようとして……“何”を?
「……っ?」
どういうわけか、自身が直前に何を考えていたのかが綺麗さっぱり思い出せないようになっていた。
その部分だけがぽっかり穴を開けたかのように空洞で、まるで抜け落ちてしまったかのような虚無の感覚。
何だ? 酒のせいか?
思わず手にしていたグラスに視線を走らせるも、ボリズリーが酒のせいで記憶を飛ばしてしまったことなんてこれまで一度もない。
そもそも彼だって酒類にはめっぽう強いのだ。どんなに飲んだとしても潰れたことなどなかった。
そして今日だって、ここで飲んでいたものは度数が控えめなものばかりであった。
ヴェスタヌの代表として仕事で来国している以上、勤務外だとしても羽目を外しすぎないよう注意していたためである。
だというのに、ほんの数秒前の出来事が欠片も思い出せなくなっている。
知らないうちに飲み過ぎてしまったのだろうか。量は調整していたはずだが……まさか、彼女の勢いにつられてしまったのか。
「誰かの魔法に妨害されたせい……ってことはないよな。俺にそんなことができるのはアルウェスくらいだし」
「ええ!? アルウェスがボリズリーさんに妨害を!? 分かりましたここは私がっ」
「いや違うんだ。どうやらちょっと記憶が飛んでしまったみたいでね。恥ずかしながら酒のせいかもしれなくて。あまり飲まないようにしていたつもりなんだが……すまない。気にしないでくれ。あとアルウェスのせいではないから」
さっと目の色を変えて臨戦態勢に入りそうな彼女を、なんとか落ち着かせる。
相変わらず“アルウェス”という単語には逐一反応するなぁと思いながらも、ボリズリーは気もそぞろに水を口に入れた。
……それにしても今のはいったい、何なのだろう。
ひとまずもう一度頭を働かせてみたものの、不思議なことに相変わらずその部分だけ何もなくて、空中を闇雲に手で掻いているような感覚に近い。
つまり、到底思い出せる気がしないのである。
「記憶に干渉する類の魔法と似ているような気も……でもなぁ」
おそらくだが、無くなってしまった記憶は国や仕事関係のそれではないだろう。
ざっと頭の中をさらってみて、今のところ自国や騎士団関連の内容は全てを思い起こすことができるので、これらの重要情報が失われているというわけではなさそうである。
一旦安堵するものの、それでもやはりどこか腑に落ちない。
そもそもこのタイミングで忘れてしまうというのも気になるのだ。
「まぁ、そのうち何かの拍子に思い出すかもしれないしな」
「もし本当にアルウェスのせいとかだったら言ってくださいね?」
「違う違う、大丈夫だから」
ボリズリーはナナリーの不穏な空気を敏感に感じ取って、慌てて訂正を入れる。
だめだ。今深く考えすぎると彼女を余計に心配させてしまう(というよりアルウェスがいらぬ誤解を受けかねない)。とりあえず一旦この話題から離れた方が賢明か。
「本当にすまなかった。ちょっと呆けていたようで、多分そこまで大したことではないから。ええと、そうそう。ナナリーさんに聞きたいことがあって」
心配そうにボリズリーの様子を伺っていたナナリーであったが、ふと彼を見つめる。
「……」
どこか探るように、まるで何かを思慮するように。
しかしそれもほんの一瞬のことで、すぐに何事もなかったかのように話題を戻してくれた。ボリズリーもそれに乗るように表情を作ると、やや首を傾げながら楽しそうに彼女に微笑みかける。
「ナナリーさんとアルウェスの出会いについて聞きたいと思ってたんだ」
「へ?」
ジョッキを両手で抱えながら、ぱちぱちと瞬いている彼女。予想外の内容だったのだろうか、一瞬ぽけっと気の抜けたような表情を見せた。
「え、あ……出会い、ですか?」
「聞いた話では、何でもほぼ初対面の時から今のように競っていたそうじゃないか。あのアルウェスに立ち向かっていくとはなんと勇敢な、と思って」
「ちょ、待ってください! そもそも最初はアルウェスの方から勝負を吹っ掛けてきたんですよ! 私は普通でした!」
「へぇ、そうなのか……」
熱く訴えるナナリーを眺めながら、ボリズリーは目を細める。
あのアルウェス・ロックマンが女性に勝負を仕掛ける、ねぇ。
なんとも興味深い話である。学生時代とはいえ当時から社交術は完璧であったはずの男が、女性にいきなり勝負を挑むということがあるのだろうか。
「アルウェスの方からの提案だったと?」
「はい。登校したら隣の席のあいつにいきなり言われたんです。自己紹介もなしに」
「……ちなみにその時は何を?」
「手遊びです」
「ん?」
ちょっと予想外の返答がきた。
これにはさすがのボリズリーも頭に疑問符を浮かべながら首を傾げてしまう。
手遊び? アルウェスが女性相手に、手遊び……?
確かに手遊びなら短時間で勝敗が決まりお手頃な勝負といえるだろう。ただ問題はそこではなくて。
「何でまた手遊びを……」
根本的に、女性に手遊びを提案するアルウェスの姿を想像することができないのだ。
そもそも手遊びとは平民向けの遊びで、彼のような貴族の子供が嗜むものではない。むしろ公爵家子息が手遊びを知っていたことの方が驚きである。
そして仮に勝負をするにしろ、大した交流もしていない相手にいきなり仕掛けるなんて。
いくら自分が公爵子息で、大概の相手に話しかけることができる立場であっても(社交界では、下位身分の者が上位身分の者に先に話しかけるのが失礼にあたる場合がある)、まさか初対面の相手に自分と勝負をさせるとは、いったい何を考えていたのか。
一つ考えられるとすれば、アルウェスが何かしらの狙いを持って彼女に近付いた場合である。聡い彼のことだから、本当の目的は手遊びなどではなかった可能性が高い。
ならばその目的は……無難に考えて、彼女が見せる何かしらの反応を探ろうとしていた、とかだろうか。
当時の彼は研究所育ちということもあって魔法への感知能力も高かっただろう。もしかしたら彼女の魔法の素養に、何か思うところがあったのかもしれない。
はたまた彼女が覚えていないだけで、実は既に二人が出会っていた可能性もあるか。
例えば彼女が何気なく接していた相手が、実は彼であったとか。それならば彼女の方に心当たりがないのも頷けるが。