ジョッキを握りしめている指先が細かく震えている。ゆらゆらと揺れる碧色の瞳が、まるで彼女の心情そのものを表しているのか、ひどく脆く不安定に見えてしまって。
今の今まで、あんなに威勢が良かったのに。真っ直ぐに彼へとぶつかっていける彼女が、とても弱々しく感じられる。揺れ動く心の不安に、途方に暮れているように見えてしまった。
彼が大怪我をしたことを、普通は知らされることのない一般人である彼女が知っていた。
恐らくはあの戦いが終わってから、怪我を負った状態の彼と相対する機会があったのだろう。もちろん騎士団側から持ちかける案件ではないから、恐らくは彼女が望んだはずで。
そしてその時、聡い彼女は全てを理解してしまったのだ。
彼が囮になったこと。自分の身代わりとなった彼がひどく痛め付けられたこと。自分に半分もの魔力を預けていってくれたこと。彼がずっと、自分のことを密かに守ってくれていたこと……全てを。
当然のことながら、彼が怪我をしたのは決して彼女のせいなどではない。周りの制止を振り切ってでも囮役に立候補したのは彼自身だ。他にも候補がいた中で、彼はどうしてもそれを譲ろうとしなかった。
彼女に自身の魔力の半分を預けていくことを決めたのだってそうである。
もちろん周りは反対した。囮として女王の前に立つ時、彼は一人きりで城内の敵に相対しなければならないのだ。
その相手をしながら内部を崩して、外で待機していた騎士団を城内へと導くだなんて、さすがに一人で行う任務の範疇を超えている。
いくらアルウェス・ロックマンという男が始祖級の魔法使いだとしても、やはり限度はある。
確かに彼ほどの力があれば最初から城を吹き飛ばすことも可能だった。
けれどそうしてしまえば、城内にいる無関係の者達や、捕らわれているかもしれない氷の魔女達も巻き添えを食ってしまう恐れがあった。
オルキニスという国の崩壊を望んでいるわけではない以上、被害は極力最小限に抑える必要があった。闇雲に魔法を放てば良いというわけにはいかなかったのである。
しかも、ただでさえ変身の魔法を維持しながら別の魔法を使うのは難しいというのに、それを戦闘の場で行うというのだ。大勢の敵を前にして。
そんな圧倒的不利な状況だからこそ、魔法を行使するための魔力はなによりも貴重になってくる。魔力がなければ当然魔法は使えない。
つまり魔力が相手より下回った時点で、確実に負けてしまうということだ。魔法戦においてどれだけ魔法力と魔力が温存できるかは、今後の戦況を左右させる非常に重要な要素である。
そんなことは、誰に言われなくても彼自身が一番理解しているはずだった。
それでも彼は戦闘に不可欠である魔力を、あろうことか半分も預けていってしまったのだ。
直接敵と戦う自分の身を守ることより、遠いドーラン王国で過ごす彼女の身を守ることを優先するため……彼女に何一つ伝えることなく、自身だけを戦場に投じた。
彼だって無事で済まされないことはある程度予想していただろう。その上で周りの反対を押しきり、囮となり、魔力を彼女のネックレスに託した。
そして確かに大怪我を負ったものの、自身の任務を見事全うしてみせたのだ。しかもその日の夜にはすぐさま海の国へ向けて出立している。
そこまでやり遂げた彼のことだから、きっと最初から最後まで彼女には全てを隠し通すつもりだったに違いない。
少なくとも自分から彼女に告げるようなことは絶対になかっただろう。
だからきっと彼は、彼女のせいだなんて微塵も考えていないはずなのだ。何も伝えようとしなかったのも、全て隠そうとしたのも、彼女にほんの僅かでも憂いを残さないため。彼の言うところの“何の制限もなく健やかにいる”ためなのだから。
けれど。
『アルウェスが私に魔力の半分を預けていたからですか? そのせいでアルウェスは上手く戦えなかったのでは?』
『私は……アルウェスが私の身代わりになんかならなければ、あんな大怪我しなくてすんだんじゃないかって思うんです』
彼女のその言葉はまるで、自分を守った“せい”で彼が怪我を負ってしまったのだと言わんばかりであった。掠れた声色には確かな痛みが混じっていた。
彼女がそう思ってしまったのは、きっとアルウェスが彼女に何も知らせずにいたことが大きいのだと思う。
そのせいで彼女は、最後の最後に突然、結果だけを知ることになってしまったのだから。心の準備もできていないまま、唐突に現実を突きつけられてしまった。
全身血だらけで、腕をもがれて、意識すら朦朧として、生きていることが不思議なくらいに傷だらけの状態で。
あんな大怪我をいきなり見せられて、何も思わないわけがないのだ。しかもそれが自分を守った結果なのだと知らされて、あんなにも彼を意識していた彼女が何も感じないわけがない。
ボリズリーはナナリーへ視線を向けて告げた。
「ナナリーさん」
揺らぐ碧色の瞳に訴える。
「あれは貴女を巻き込まないため、貴女に被害が及ばないようにするため、アルウェスが自分で決めたことだ。それに誰のせいかと言われたら、元凶であるオルキニス女王だろう。貴女が気に病む必要なんてこれっぽっちもない」
「でも」
「それだけ彼にとって、貴女は譲れない存在だってことなんだよ」
例え自身がどんな目に遇おうとも、どんな危険に晒されようとも、それ以上に守りたい存在。直接的だろうが間接的だろうが、自身の最大限の力を振るって、それでも護りたい人。
彼女は、彼がそう思い願う相手なのだ。
「あぁほら、やっぱり……思った通りじゃないか」
──これが、アルウェスの思いの形なんだよな。
結論付けた言葉が、改めて胸にすとんと落ちついた。
普段はそんな素振りを一切見せないから、ひどく分かり辛い。けれど一度その欠片を見つけてしまえば、これほど分かりやすいものはないというくらいで。
複雑難解に見えて、実はいたって単純明快な。これが、アルウェス・ロックマンという男がナナリー・ヘルに向ける気持ちなのだ。
「ナナリーさんから見て厄介なところは、アルウェスが終始裏方に徹しているというところかな。貴女に対する彼の隠し方がとにかく巧妙だったから、貴女が自力で気付くことなんてほぼ不可能だろう」
「そうですね。だって私、あの囮事件の直前に混沌の魔法をかけられて、意識を失ってましたし。それに学生の時にあれだけ私に喧嘩を吹っ掛けてきたのも、結局は私の魔法のためだったと分かって……でも正直それまで全然そんなこと知らなくて」
「シュテーダルとの戦いの時だったか。魔法を発散させるためだったって分かったんだよな。あの時アルウェスは否定していたが、なんてったってドーラン王国第三王子が認めていたんだから、さすがに誤魔化せるわけがないだろう」
険悪な仲という大義名分の下、アルウェスがナナリーとありとあらゆる場面で衝突していたのは、彼女の魔法の暴走を防ぐためであった。
髪や瞳の色が変わって溢れ出てしまうほどに強い魔力。そのせいで幼い彼女が苦しい思いをしなくてすむように、頃合いを見計らって適度に魔力を発散させていたのだ。
それを彼女が知ったのは学校を卒業してからだいぶ経った、よりにもよってあのシュテーダルとの戦いの最中であった。
「きっとあの場でゼノン殿下が言ってくださらなかったら、私は今でもそんなこと知らないままだったと思います」
おそらく彼は自分から晒す気なんてさらさらなかったに違いない。
話そうと思えばいくらでもタイミングがあったはずなのに、これまで彼は一言も口にしなかったのが良い証拠だ。
彼からしてみれば何のメリットもない、むしろ手間ですらあったことのはず。ならばそれを貸しにして、いくらでも自分に恩を着せることができたというのに、彼はそんなことを一切しなかった。
「私は、私が思っている以上に彼に助けてもらってばっかりだった」