学生の時やオルキニスの事件の時、セレイナ王国でナンニョクに連れていかれる寸前の時も、シュテーダルとの戦いの時だって。
いつも彼は当たり前のように守ろうとしてくれた。細かい部分まで遡ればそういうことはきっともっとあったはずだ。
『一つだけ僕の言うことを聞いて』
『その様子じゃ……粗方知ってるのかな』
『君の言うことは聞かない』
あんなにたくさん機会はあったのに。それを彼はいちいち口にしたりしない。何の見返りも求めない。ただただ無条件に、そつなく、知らないうちに成し遂げてしまう。
『黙れ。老いぼれが』
『まぁまぁ、いざって時は守ってあげるから安心しなよ』
『なわけないでしょ。誰が好き好んでそんなことをするんだ』
『っ大丈夫?』
昔から、頼んでもいないのにずっと自分を助けてくれていて。言葉でも魔法でも、あんなにたくさん衝突して態度が悪かったのに、それでも何も言わずに守ってくれていた。
『ただ健やかに、制限もなく、僕のようにならなければいいと思った』
理由は告げられなくても、思いはちゃんと込められていた。とても分かり辛くててまどろっこしくて、こちらは全然分からなかったけれど。
それでもちゃんと、ずっと気にかけてくれていた。
だから今、自分がこうして平穏に過ごすことができるのは他でもない彼のおかげなのだ。憧れだったハーレの受付嬢の仕事を続けられるのも、皆とこのドーラン王国で平穏に過ごせるのも、全部ぜんぶ。
アルウェスがずっと、守ってくれていたからなのだ。
『僕は世界に嘘をつく。どう恨んでくれてもかまわないよ』
その瞬間のことを思い出して、ナナリーはぎゅっと唇を噛み締めた。
空に舞う赤い花びら。歓喜の声を上げて踊る人々。そして金色の髪を靡かせて頬に触れてきた彼。滲む視界から見つめたそれらは、ひどく目に鮮やかに映って、泣きたくなるほどに眩しかった。
あの時だってそうだ。変わらない毎日を望んだ自分のために、世界中の人々の記憶を書き換えてしまうだなんて。そんな強力な上書きの魔法を、たった一人でやってのけてしまうだなんて。
いったいどれだけ大変なことをしでかしたか、彼は本当に理解しているのだろうか。
あんなもの即座に用意できる魔法の規模ではない。だからきっと、随分前から準備をしてくれていたのだろう。
それはつまり、自分が報奨に何を望むのかを彼に推測されていたということだ。
何故分かったのか。目が覚めてから一度も言葉を交わしていなかったのに。こちらは彼の望みなんて全然分からないのに。どうして。どうして彼は。
ぐるぐると混沌する思い。言葉で形容し難い色んな感情が溢れて、けれどその奥から一際強い気持ちが沸き上がってくる。
「……“悔しい”」
どんなに思いに翻弄されても、いつも最初と最後に現れるのはこれだった。
一番単純で、一番馴染みがあって、一番明確な気持ち。
彼には何でもかんでもお見通しで、けれど自分はそうではないから、彼のそういうところを示される度に本当に悔しかった。勉強でも魔法でも、彼が自分の一歩先を歩いていると嫌でも自覚させられて、悔しくてたまらなかった。
けれど。
『それは、海王の血縁者がこの王国にいるからだ』
『血縁者?』
マイティア王子とのやりとりも含めて、海の国の出自のことがあんな大っぴらに皆に知られてしまって。
それでも普通のままでいたかった。ただの平民として、大好きなハーレの受付嬢のままでいたかった……もう普通でなんていられないと理解していても願ってしまうくらい、変わることが恐かったのだ。
『皆の記憶から、ヘルに関しての記憶を一部除いて消去した』
だからそんな無理な願いが叶えられるなんて、本当に思ってもいなかったのだ。しかもそれが、よりによってアルウェスに叶えられるとか、いったい誰が想像できただろうか。
『世界の誰もが、君が海の王族であるということを忘れるように。誰の記憶にも残らないように』
瞼を閉じれば今でも鮮明に思い出せる。しばらく見ない間にまた伸びたらしい長い髪を纏めて、いくつもの指輪を両手に嵌めて、金色の長い杖を振って空に光の粒子を散りばめる。
そうして彼は、まるで何でもないことのように、とんでもないことをしてくれたのだ。
世界中の人を偽ってでも、願いを叶えてくれた。世界中への嘘を背負ってでも、たった一人の願いのために、無謀だったはずの未来をこの手に掴ませてくれた。
『だけど君の世界は君の中にちゃんとある。それだけは覚えていて』
「忘れるわけがないじゃない……」
忘れるわけない。忘れられるわけがない。
あの時のあの瞬間を忘れるだなんて、そんなのできるわけがない。
無意識に言葉がぽつりと漏れて、それを自覚したナナリーは小さく呻いた。
あぁもう本当に、なんて奴だ。ずるいというかめちゃくちゃというか。世界中に魔法をかけるとか、そんなのもう反則じゃないか。どこまで完璧なんだあの男は。
あんなことをしてもらって、あんなことを言われて、あれでなんとも思わない人間がいるのなら見てみたい。
なのに肝心の向こうはといえば、こちらがいったいどんな思いでいるかなんてお構い無しみたいに平然として。
常人に成せることだとはとても思っていない。これらは全て、完璧超人アルウェス・ロックマンだからこそ成し遂げることができたのだと、十分すぎるほどに理解している。
きっと、簡単なことばかりではなかったはずなのだ。いくら彼が始祖級の魔法使いと言われようとも、決して万能ではないのだから。
新しい魔法の開発だって、既存の魔法を使いこなすことよりも圧倒的に難しい。
世界中に魔法を及ばせることだって、どんなに魔力と魔道具があろうともそう簡単に成せることではない。
けれど彼はやり遂げてしまうから。何てことのない顔をして、まるで何でもないことのようにこなしてしまうから。
そしてその裏で、きっと想像もつかないほどに己を割いてくれている。決して見せてはくれないだろうけれど、途方もないほどの努力をしているから。
そういう彼のずるいところを、本当は誰よりも尊敬している。なによりも感謝している。そして今はそれだけじゃなくて、もっと別の思いも抱いている……だけど。
「……っ」
胸の中心が熱で炙られたかのように苦しくなって、ナナリーはぐっと奥歯を噛んだ。
急速に熱された思いが、ぐつぐつと胸の中で沸騰してくるようだ。
だけど、だけど……だから。
「私だって、知らないままなのは嫌なのにっ」
語尾がみっともなく震える。隣のボリズリーから驚いたような視線を向けられても、気にする余裕はなかった。
頬まで熱くなって、眉間に皺が寄るのが分かる。きっと今、顔は盛大に歪んで悲惨なことになっているに違いない。
けれど今はそんなことなんてどうでもよかった。
そうだ。そうなのだ。彼は知らないうちに自分を守ってくれることが多くて、それはその必要性があったりもするからだろうけれど。
肝心の自分がその真意に気付くのは、いつだって守られたその瞬間が過ぎてからだった。その瞬間が過ぎた後で。
「“貴女に迫っていた危機は見事回避されました。はいおしまいです”……そんなので、私の気が済むわけない。そんな簡単な話なんかじゃない」
ジョッキの中のアメジスト酒が細かく揺れる。波紋が広がって、映っていた自分の顔が怒ったり悲しそうにと忙しなく変化する。まるで今の心境をそのまま表しているかのようだった。
物語のように助けられたら終わりだなんて、そんな単純に片付けられる話ではないのだ。
だってそれでは、自分は無力も同然じゃないか。ただ守られるだけ、ただ助けてもらうだけだなんて、そんなの冗談じゃない。
普通の女性なら喜ぶのかもしれない。あんなに完璧な男が自分を危機から守ってくれるのだ。それこそ物語に出てくる王子様のようにでも見えるのだろう。
彼も見返りを求めているわけではないのだ。だから言ってしまえば、向こうが勝手にやっているだけのことなのだ。
感謝を込めて女性らしく、さらには可愛らしく“ありがとう”とでも伝えれば、双方が穏便に済む話なのかもしれない。きっと多くの女性はそうするのだろう。
分かってはいる。でもそれでは嫌なのだ。
誰かが自分の代わりに傷つけられるのは、自分がそうされることよりも辛い。
誰かが自分のために無茶をするのは、自分がその恩恵を受けたとしても、我慢できないほど切ない。それを後から知らされるのは、もっとずっと胸が苦しい。
自分を守るために危ない目に遭うことも、厄介だと分かっているのに手間も惜しまない彼のことだから。
それを知らないまま、知らされないままでいることが、なによりも痛くて悲しくて仕方がなかった。