あのウォールヘルヌス以降、各国は以前にも増して魔物に関する情報共有に積極的になった。
ドーランでも、近隣国であるヴェスタヌやセレイナ、シーラとのやり取りが増え、定期的に互いの騎士団が国を訪れて会議をすることもある。
そして今回、来月の王流議論会に向けての調整ということで、ヴェスタヌの騎士団がドーランに滞在していたのだ。一昨日、昨日と話し合いの場を設け、次は明後日にもう一度集まる予定だった。
「彼ら、夜になると繁華街に降りているようですから、街でも人気みたいですよ。とくにボリズリー殿は有名ですし、あの店に来てただとか、この通りを歩いていただとかの情報が、色んなところから入ってきます」
「まぁ、現代の崇高なる魔法使い百選に選ばれるくらいだからね。端正な顔立ちで女性からの支持も高いみたいだし、皆の視線を集めるのは当然かもしれないけど」
「隊長がそれ言います?」
「それこそ特定の人と噂にでもなったりしたら、色んな意味で問題が発生しそうだよね」
「特定の人かぁ……そういえば最近、ボリズリー殿がハーレの受付嬢さんをよく食事に誘ってるって噂を聞きましたよ! 何でも珍しい水色髪の女性だそうで……」
ピタリ、と。
その瞬間、それまで会話を続けながらも、淀みなく動かされていたはずのアルウェスの手が……突然停止した。
「────」
そして一転して張りつめる空気。ピリピリと肌を細かく刺すようなそれは、とても形容しがたい緊張感を孕んでいて。周囲の温度が一気に下がったような、独特の冷覚を部屋にもたらした。
「ん? あれ、そういえばアルウェス隊長の婚約者さんも、確か珍しい水色の髪だって言ってましたよね? えぇっとハーレの……?」
突然変容した部屋内の様子にいぶかしみ、さらに自身の発言に、何か思い当たることを感じた彼は。
ふと確認するようにアルウェスの方へと視線を向けて。
「ひっ」
その肩を、ビクリと盛大に震え上がらせたのだった。
目線の先にいたアルウェスは、いつものように優雅な笑みを浮かべている。中性的で美しいそれは、女性だけでなく男性でも、目にするだけで心を持っていかれるような魅了性があるのだ。近くで目にすることの多い自分でも、毎回綺麗だなと思ってしまうくらいに。
そんな微笑みを、彼は静かにこちらに向けている……向けているのだが。
「へぇ。そんな噂があるんだね」
声が重い。空気が痛い。そして視線が氷のように冷たい。
任務中でも滅多にみられないような、とんでもないプレッシャーだ。それを真正面から向けられて、思わず恐怖からヒクリと喉の奥が鳴ったのが、彼自身分かってしまった。
え、ちょっ、隊長何どうして......って、ボリズリー殿が誘っていたハーレの受付嬢って、まさかっ!
「……っ!!!!」
さすがは第一小隊副隊長を務める彼である。その推測は実に正しい。瞬間的に事態を察し、己の上司の機嫌を察し、これはマズイ何とかしなければと思ったまではよかった。
だがその頃には、もう辺りの空気も完全に冷えに冷えきった後である。残念ながら、もはや状況的には手遅れなのである。
「あ、あの~......」
「それ、ちょっと詳しく聞かせてもらいたいんだけど」
「あ、アルウェス隊ちょ......」
「誰が、誰に、何、してるって?」
「ひいっ‼」
薄く開かれた形よい唇から、一音ずつ、まるで確認をとるように紡ぎ出される質問......いや、査問。
この絶対圧を前にして、従わないという選択肢は存在しない。この事実確認(という名の取り調べ)に対して、下手なことを言ってしまえば、己の身がどうなるか分かったものじゃない。どう考えても目の前の上司が恐ろしすぎる。
うわぁぁあーっ! (多分)地雷踏んでしまったぁぁあーっ!
「い、いえっ! その、た、単なる噂でして!」
「火のない所に煙は立たないと思わない?」
「も、もしかしたら! アルウェス隊長の思っていらっしゃる方とは別人かも!」
「ハーレに在籍している受付嬢で水色髪なのは、僕の知るところ一人しか該当しないんだ」
「......」
「僕の、婚約者なんだけどね」
やや首を傾げて、とろりと溶けるように微笑むその様が。かつてこれほどまでに恐ろしいと感じたのは、もはやこれが初めてかもしれない。だって目が、その赤い目が、こんなにも心底冷えきっているのだ。
アルウェス・ロックマンとナナリー・ヘルの婚約は、まだ国内でも公にはされていなかった。いくら彼が婚姻の自由を手に入れていたとしても、そしていくら彼女がシュテーダルを討った功労者だとしても、そもそも貴族と平民の婚姻というのは、前代未聞である。そのため政治的にどうしても、さまざまな準備が必要になってくるのだ。
もちろん、相応の準備が整えば公表されるのだが、今はまだ調整中。主に彼を慕う女性達にとって繊細な問題でもあるので、軽い情報規制すらされているくらいだ。そのため現在二人の関係を知る者の数は、国内でもそう多くはない。
つまり国外の者であるサレンジャ・ボリズリーが、どこまでこの二人のことを把握しているのか、二人の関係性を知った上で彼女を誘っているのかどうかは、実に不明であるのだ。仮に二人の婚約関係を知らずに誘っていたのならば、多少は情状酌量の余地があるかもしれない(いや、ないかもしれないが)。
けれどもし、知っていたのなら......その時はまさしく、始祖級魔法使い同士の戦いが勃発してしまう。脳筋な騎士団の面々は喜ぶかもしれない。この二人の戦いは、騎士として純粋に学べるものも多いはずだから。
しかし、その後の処理や被害規模のことを考えると、間違いなく面倒なことになるだろうと容易に予想できる。少し想像しかけただけで、頭痛や眩暈を起こしそうになるのだ。厄介なことになるという己の勘は、何も間違いない。
そして何よりも恐ろしいのが、間に挟まれているナナリー・ヘルも、この二人と同等の魔法力を有しているということだ。
男同士の戦いだけで終わるならまだしも、万が一にも彼女が参戦して(彼女は己の婚約者に対する勝利欲が相当強いらしい)、三つ巴の戦いなんぞになろうものなら。その時の被害規模は、それこそ尋常ではなくなってきてしまう。
なにせ婚約しても、未だに“妥当アルウェス・ロックマン”を掲げている彼女のことだ。その性格を鑑みるに、何かしら理由をつけて戦いに加わってくる可能性が捨てきれないのだ......非常に悲しいことに。
「あ、アルウェス隊長......その、落ち着いてください」
「僕は冷静だよ。でもちょっと事実確認したいことができたから、ちょうどキリがいいし今日はここまでにしようかな」
「......っへ?」
今の今まであれだけペンをひっきりなしに動かしていたのに、まるで優雅に流れるような動作で、机の上に広げていたペンや書類を全て片付けてしまったアルウェス。
あっという間に整頓し、そのまま椅子にかけていたローブを羽織って、席を立ち上がった。
「どのみち今日はこの後、彼女と食事の約束があったから。その時にでも詳細を聞いてみることにするよ」
「あ、はい......」
壁に掛かっている時計に鋭い視線を投げる赤い瞳は、本気だった。
彼女の説明が楽しみだよね、と低く呟きながら退室の準備を整えている上司に対して、部下である彼は何も言えずに、呆然と立ち尽くしていた。
いったいこの後、事態がどう転んでいくのかが全く分からない。あんな状態の上司を行かせて、果たして彼女が無事でいられるかも謎である。
一瞬、そんな上司を止めるべきかとも思ったけれど……秒で不可能を悟った。
隊長である彼と、副隊長である自分とでは、あらゆる面で雲泥の差があるのだ。もう結果なんて、最初から分かりきっているではないか。
それに複数の人間から聞かされたことを考えれば、噂の内容は非常に信憑性が高いだろう……なんてことを、うっかり伝えでもすればどうなるか。
もはや余計火に油を注ぐ結果になることが、目に見えているではないか。彼は火型の始祖級魔法使いなのだ。この時点でもう、色んな意味で炎上案件となることは明白である。
だめだ。無闇に口を挟もうものなら、その瞬間自分がどんな目に合わされるか、分かったものじゃない。我が身が可愛いなら、自分の身は全力で守るべし。
しいて言えば、この三人が良くも悪くも話題性が高いというところは幸いだ。何か起ころうものなら、きっとまたあらゆる方面から噂が耳に入ってくるだろう。情報を収集するだけなら大層楽なはずである。
けれどとりあえずは、何の問題も修羅場も起きることなく、どうか穏便に解決してくれと願うばかりである。自分は本当に二人の婚約を喜ばしいものだと思っているのだから、余計な波風は立たないでほしいと、切に、切に願う。
「……よし」
彼が全てを黙秘することに決めた瞬間立った。ごくりと息を飲み込み、部屋の主に倣って退室しようとした、その時だった。
「あ、あ、アルウェス隊長ーっ!」
ノックもなしに、いきなり部屋に飛び込んできたのは、彼らと同じ第一小隊所属の隊員だった。
貴族家の出身で、普段から礼儀作法が完璧であるはずの彼が、今はひどく慌てた様子でアルウェスの元に駆け寄ってきた。常でないその様子から、部屋にいた二人も一気に表情を引き締める。
「どうしたの? 何かあった?」
「おい、大丈夫か」
「あの、その......げほげほっ」
急いで来たのだろう。彼は胸を押さえて苦しそうに荒い呼吸を繰り返していた。
アルウェスはその背を撫でながら、“ゆっくりでいいよ”と落ち着かせるように声をかける。
「っ、いきなりっ、すみません......どうしても、隊長の耳にっ、入れないとって思って」
「うん。大丈夫。急かさないから、落ち着いて」
やっと呼吸が落ち着いてきた彼は、ようやく己が無断入室したという事実に気がついて、顔を青ざめさせた。けれどアルウェスの方はそれを咎めることはせず、話の先を促す。
「あの、あのっ......」
神妙な空気に包まれる中、上司二人に見守られて汗だくになりながら、それでも彼は一生懸命に口を動かした。
「ま、街の飲み場で。アルウェス隊長の婚約者であらせられるナナリー・ヘル嬢と、ヴェスタヌ騎士団のサレンジャ・ボリズリー殿が、楽しそうに談笑しているとの情報が入りましてっ!」
「「......」」
──ブチッ。
どこからともなく、何かが引き千切られたような音がした。それは例えば、堪忍袋の緒が切れた時のような、何かが決壊した時の音にも似ていて。
──ゾクッ。
一瞬にして身体にのしかかった絶対圧と、絶対零度の空気。指一本すら、ろくに動かすことがままならない。
「「…………」」
部下二人は、どうしても己の上司の顔を見ることができなかった。背中にだらだらと冷や汗を伝わせようが、それを拭うことすら許されない。なんなら呼吸すら止めている。
ただひたすらその場に立ち竦む彼らにとって、これほどまでに精神的緊張を孕んだ時間など、おそらく人生初であろう。
この刺すような空気も、圧も……魔物と対峙する時以上に凄まじいなんて。
──今動いたら、俺は確実に死ぬっ!
心の中で盛大に絶叫をかましながら、それでも二人はなんとか視線だけで上司を追う。
そして。
「……報告、ありがとう」
笑みを浮かべた隊長を前に、盛大に顔をひきつらせるのだった。
後に彼らはこう語る──“ナナリー・ヘルとは、アルウェス・ロックマンにとっての逆鱗である”、と。