上書きの魔法。それは、普通を望んだ彼女のために彼が彼女に示した決意であり。
不可能を可能にして未来を叶えてくれた、彼女の世界を守るための壮大な嘘でもある。
「あの魔法で、皆の記憶から君が海の国の王族であることは消した。けれど、戦い最中のマイティア王子とのやり取りまではさすがに消せなかった。僕も記憶探知の魔法で確認したけれど、あれはあの戦い終結の要ともいえる。だから会話した事実を迂闊に改変すると、今度は記憶の辻褄が合わなくなってくるから」
マイティア王子が到着した時、アルウェスは既に氷漬けになっていたのだ。
だから実際王子とナナリーの間でどういった会話がなされていたかは、ゼノンやサタナース、その場に残っていた騎士からの情報と、あとは記憶探知の魔法で確認していたのである。
消してしまう記憶と残すべき記憶、そして曖昧にした上で改変する記憶。
それらを違和感のないよう繋ぎ合わせて、アルウェスは上書きの魔法を展開した。祝福の魔法に紛れて、誰にも気付かれないよう細心の注意を払って、世界中の人々に。
そして魔法成功の結果、極一部の関係者を除けば、ナナリー・ヘルが海の国と深い関わりがあるという事実が、皆の記憶から消え去ったのだ。
「その中で、残された記憶と持ち前の頭脳だけで真実に迫りかけたのが彼。とはいえ、それだけではさすがに君が海の国のお姫様であるところまで辿り着けるとは思わないけれど……まぁそれなりの身分を持つ関係者だとは悟られたかもしれないね」
「それなりの身分……」
「海の国の代表としてやってきたマイティア王子が、ドーラン国王を差し置いて平民である君と親しげに会話するって、普通に考えておかしいから」
「……ソウデスネ」
これにはアルウェスの言葉を聞いていたナナリーも同意するしかない。なにせ、同じことを考えていたのだから。
別に特別親しいわけではない。むしろ番になれと、傍迷惑に迫られて面倒だなと思っていたくらいである。
それでもあの場でスムーズに事を進めることができたのは、ナナリー達がマイティア王子と海の国で既に会っていたというのが大きいのだろう。
けれどそれを知る者はごく僅かだ。だから知らない者から見れば、海の国の王子と人間の平民のやり取りというあの光景は、やはり異様に映るのだろう。
本来、ボリズリーが髪や瞳が海の色に似ている云々と口にしたのは、きっと単なる偶然で。彼も海の国を探って航海していたようだから、海自体を知っていてもおかしくはない。照らし合わせたら純粋に似て見えたという可能性も十分にありえる。
ただ、そこからの思考の展開が流石と言うべきなのか。
「まさかその髪や瞳の色だけで、マイティア王子とのやり取りを引っ張り出してきて、真実に辿り着こうとしてくるとは思わなかった」
これは少し想定外だった、とアルウェスは珍しくぼやくように呟いた。
「僕が用意した上書きの魔法は、君が海の国の王族であることを忘れる魔法。そしてその効果は一度切りではない。だからもし誰かが君のことを“そう”認識したら、その瞬間魔法が再発動して忘れるようになっている」
「そういえばボリズリーさん、新しいお酒が来た時に突然、考えていたことを忘れたって言ってたけど……」
ナナリーが思い出したのは、アメジスト酒が届いた時に見せたボリズリーの反応である。
『ボ、ボリズリーさん!? どうかしましたか!?』
『いや……?』
一瞬呆けたように固まって、何かに戸惑っているようにも見えた。まるで直前までの記憶がパチンと散ってしまったかのように、唐突に思考が放り出されていたような、あれは。
「なるほどアルウェスの魔法の効果によるものだったのね」
やはりボリズリーは、ナナリーのことを海の国の、それも王族に近しい関係者であると気付いたのだ。
だからあの時、アルウェスの魔法が効いて再度記憶を失ったということで。
ということはつまり。
『誰かの魔法に妨害されたせい……ってことはないよな。俺にそんなことができるのはアルウェスくらいだし』
あの時ボリズリーが呟いていた、あれは。
「大正解……恐るべしボリズリーさん」
ナナリーはアルウェスの背の上で身体を縮こませた。
これが始祖級の魔法使いの実力なのか。色々な勘が冴え渡りすぎていて恐い。読みも完璧で、推測がほぼ真実だなんてあんまりではないか。
この分ではもし今後同じようなことがあったら、さすがに彼には上書きの魔法のことがバレてしまうだろう。
今回だっていきなり記憶がなくなったことをかなり怪しんでいたようだし、それが二度目ともなれば、今度こそ魔法の干渉を疑いそうである。
そして、あのサレンジャ・ボリズリーに悟られずに魔法を使える者なんて、そうそういるわけがないので……必然的にアルウェスの介入も疑われることになるだろう。
「アルウェスの魔法だってバレちゃうかもしれないってことよね。そうしたら、いつか魔法が破られたり……」
「だから大丈夫だって」
無意識の独り言に返事が来た。まるで輪郭の掴めない靄を切り裂くような勢いで、けっこう強引に。
こちらの不安を見透かすように言葉を被せてきて、思わずアルウェスには何か考えがあるのかと、ナナリーは瞬いた。
「何でそう言い切れるの?」
「僕が優秀だから」
「あのねぇ……」
眉を寄せながらアルウェスの金髪を睨みつける。
何を言っているのか、どうしてそんな悠長に構えていられるのか、というかその自信は何なのだと。
確かに彼は(悔しいけれど)とても優秀だ。現に上書きの魔法だってあんなに広範囲に行使したのに、誰一人として気が付いていないのだから。よほど精度が高いのだろう。
けれど知らずに魔法を掛けられて、しかも記憶に関する操作をされていただなんて。
それが発覚した時、いくらドーラン国王が許していたとしても、人々は良い気分にはならないだろう。とくに無関係な他国の者からすれば余計に。
本来であれば、人の過去や記憶を変えてしまう魔法は非常に厳重に扱われるのだ。そう無闇に使えるものでもないし、国を越えて行使するならば立派な国際問題にもなり得る。
知られてしまえば、感付かれてしまえば、色々な意味で大問題になることはまず間違いない。そうすればきっと、互いにこれまでのようにはいかなくなってしまうのは明らかであった。
立場が変わる。扱いが変わる。認識が変わる。環境が変わる……それほどにこの問題は繊細で、だからこそ極一部の者以外には徹底的に秘匿されているというのに。
『大丈夫』
彼は全く動じない。三度の“大丈夫”に全く迷いが見られない。
いったいどうしてなのか。どうしてそんなにも心配していないのか。冷静でいられるのは何故なのか。
今手にしている普通を失ってしまうかもしれないと思うと、こちらは心がざわついて落ち着かなくなるというのに、彼はどうして……。
「……」
悶々としているナナリーとは正反対に、アルウェスは相変わらず淡々と歩き続けていた。
周りの景色を視界に流して、ふと漆黒の闇に浮かぶ丸い月を見上げる。滲むような光に僅かに目を細めて、そして唐突に、何の躊躇いもなく彼女のために口を開いた。
「僕のついた嘘が、破られることなんてない」
その瞬間、ゆっくりとこちらを振り返った赤い瞳と、揺れる碧色の瞳が静かに交わる。
その奥で燃える赤色が、真っ直ぐに自分だけを見つめていることに気が付いて、ナナリーは思わず息を詰めた。
「たとえ相手が誰であろうとも、失われた記憶に手を伸ばしてこようとも……触れさせたりなんてしない」
透き通すような力強い眼差しが、どこまでも深くて熱い。
鮮烈さすら持ち合わせたそれは、まるで触れればあっという間に溶かされてしまいそうなほどに獰猛で。
「君の中にある世界は、間違いなく君だけのものだから」
そしてどうしようもないくらい、揺らぐことのない思いで溢れかえっている。
「僕が君に捧げた祝福は、君の望みを叶えるものだから……誰にも奪わせたりなんかしない」
そう言って笑みすら浮かべる彼の姿が、ちょうどあの時王の島の壇上で目にした彼のそれと重なった。
大勢の人々に囲まれて、海の国のお姫様として扱われて、それでも普通のままでいたいと願った自分に。
『はい、君にも祝福を』
たった一人で、世界から自分を守ってくれた彼の姿と──……。
「っ」
途端胸が熱くなった。鼻の奥がツンとする。込み上げる何かに負けないように、ナナリーは堪えるようにぎゅうっと唇を強く噛み締めた。
だってそうでもしなければ、叫びだしてしまいそうだったのだ。
熱いような苦しいような、でも決して手放したくないような、そんな言葉にならないような思いがぐるぐると渦巻いて。自分の気持ちなのに上手く纏められないそれらが、ひどくもどかしい。