数時間前。
終業後ハーレの裏口から出たナナリーは、思わずヒクリと頬をひきつらせてしまった。
「やぁ、ナナリーさん」
扉を開いた目の前にいたのは、微笑んでこちらに声を掛けるボリズリーである。
「......お疲れさまです。ボリズリーさん」
なんとか受付嬢スマイルを顔に張り付けるも、ナナリーの表情は誰が見ても動揺の色を浮かべていた。
こんな対応が失礼なのは分かっているけれど、こればかりはしょうがないのだ。向こうだって理由を察しているだろうに、大して気にした様子もなくて。もうこのまま続行するしかない。
黄土色の髪をした端整な顔立ちの青年、ヴェスタヌ王国の騎士団に所属しているサレンジャ・ボリズリー。
彼が率いるヴェスタヌ騎士団が次の王流議論会のため、このドーランに滞在しているという話は、どうやら街でも話題になっているようだった。
昼間は比較的ドーランの王城にいたり、調査で近郊に出ているようだが、夜は繁華街に降りてきて、それぞれ飲食や娯楽を楽しんでいるのだとか。
特徴的な緑色の隊服を着た彼らは親切で礼儀正しく、お酒の飲み方も非常に綺麗だと評判で、街の人達も好意的のようである。
だから、それら自体は別に問題ないのだ。彼らが仕事でハーレにやってきた時も、空いてる時間にヴェスタヌの魔導所について話してくれたり、魔物に関する情報交換(もちろん互いに開示できる程度の内容ではあるが)もできた。他国の人間と関わることが少ないナナリー達にとっては、良い刺激になってとても満足していた......のだが。
その日。皆がうっとり見惚れる素敵な笑みを浮かべた彼は、何故か受付に座るナナリーに向かって、さらりと言い放ったのだ。
『美しい水色髪のナナリー・ヘルさん。この後食事でもどうですか?』
『……』
お誘い。お誘いである。しかも聞き間違いでなければ、食事のお誘い。
ぱち、ぱち、ぱちと。
軽い瞬きを三回して。
ぎゅ、ぎゅ、ぎゅっと。
今度は力を入れて瞬いた。
深呼吸して辺りを見回して、そうして停止していた思考が働きだすと、ナナリーはようやく事態の不可解さに気が付いたのである。
え、食事? 食事のお誘い?
『......私ですか?』
『えぇ、貴女です』
『えっと......そ、それはヴェスタヌの隊員さん達とハーレの職員の合同飲み会、ということで......?』
『いいえ、私は貴女と食事を共にしたいと思い、お誘いしています』
『え』
『できれば二人でね』
『えぇっ!?』
ナナリーは焦った。聞き間違いかと思っていれば、まさかの聞き間違いではなかったからだ。
『きゃぁぁあーっ!』
『やったじゃないナナリー!』
『行ってきなさいよ!』
『いやいやいやっ……』
周りのハーレの女性職員達がきゃあきゃあと盛り上がる。その勢いに圧されつつも、ナナリーは瞬時に否の声を上げた。
『さすがに無理ですって!』
『え、断るつもりなの!?』
『やだどうして!?』
『だって相手はあのボリズリーさんなんですよ!?』
ナナリーはハーレの先輩方と額を寄せ合いながら負けじと主張する。
ちなみにこの間、ボリズリーが微笑ましげな笑みを浮かべて待っていてくれたわけだが、彼女にそちらを気にする余裕はなかった。
そう、サレンジャ・ボリズリーといえば、ヴェスタヌが誇る始祖級の魔法使いである。
国民の憧れとも言える騎士団に所属し、当然魔法の腕も見目もよく、前回のウォールヘルヌスでも優勝を果たし、“現代の崇高なる魔法使い百選”に選ばれ、国内外問わず老若男女から羨望の眼差しを受ける超有名人だ。
『そんな凄い人と一緒に食事、しかも二人だなんて......いったいどれほどのやっかみを受けることになるか!』
『まぁ確かに』
『それは否定できないわね』
こちらにその気がなかろうと関係なしに向けられる嫉妬は、正直とても面倒くさいのだ。
ナナリーにとってそれらは既にアルウェスのせいで経験済み、既に悲しいほどよく身に染みている。
学生時代だって、アルウェスと隣の席だというだけで散々な目に合ってきた。お互いあんなに対立姿勢を見せていたのに、周りからはあらぬ誤解を受けたのは一度や二度や三度では治まらない。
ならば今回なんて、考えるまでもないじゃないか。だって相手はあのサレンジャ・ボリズリーなのだから。
『絶対に大変なことになるのは目に見えてます! せっかく手に入れた平穏をみすみす手放すような真似、私はしたくないんですよっ』
『でもナナリー、貴女ウォールヘルヌスの時だって誘われてたじゃない。一回くらい行けばいいのに』
『そんなこともありましたけど......』
ええ、確かにそんなこともありました。でもその時は、アルウェスとの年齢差が発覚して、正直それどころではなかったんです。
当時のことを思い出したナナリーは、思わず遠い目をして閉口した。口が避けても言えないが、あの時違う受付列に並んでいたアルウェスと鉢合わせする羽目になったのは、絶対目の前にいるボリズリーのせいだと思っている。
もうあの時の悔しさといったら。年齢という、絶対的に埋められない差を突き付けられて、不本意にもアルウェスに慰められるという醜態まで晒してしまった。
できることなら、関係者全員に上書きの魔法を掛けて抹消したいくらいの、いわば黒歴史に近いものである。
そういうわけで、ナナリーにとってあの一連の出来事は、あまり思い出したくない部類の記憶なのだ。つまりボリズリーに誘われたことも含めて、記憶の奥底に封じ込めていた。
『それにしても……』
ウォールヘルヌスの時も思ったけれど、彼はいったいどうして自分を誘うのだろう。
アルウェスとも知り合いのようだけれど、まさか彼に何かを吹き込まれたのか……もしそうならちょっと苦情申したいところである。
しかし油断はしない。この不可解なお誘いの意図が気にならないわけでもないが、だからといって己の身を犠牲にしてまで知りたいとも思わない。
よって、答えは既に決まっているも同然であった。
ナナリーはほんの少しだけ思考を巡らると、すぐに彼へと向き直った。
『えっと、ごめんなさい。私は遠慮させていただきます』
ボリズリーの誘いを丁重にお断りしたその瞬間、ハーレの皆からはブーイングの嵐を受けた。
『ナナリー!』
『なんてもったいない!』
『いやいや、これでいいんです!』
自陣からの不満に驚くも、ナナリーにはちゃんと、彼女なりの考えがあるのだ。
確かにありがたいことだとは思うけれど、自分の身は自分で守らなければならない。いらぬ嫉妬など受けたくないのである。
それに何より今はもう、アルウェスという婚約者がいるのだ。いくら相手があのサレンジャ・ボリズリーであっても、婚約者がいながら他の男性とほいほい二人で食事に行くのは、やはり良くないと思ったのだ。
アルウェスとの婚約は、まだ公にはされていない。けれどだからといって、何でも自由に振る舞っていいとは思っていない。
少なくとも異性関連のことでは、彼に対して自分がされて嫌なことをしたくないのだ。
『断っちゃって本当によかったの?』
『いいんです。それにこれでお断りするのも二回目ですし、さすがにもう誘われることはないでしょうから。そもそもボリズリーさんなら、食事を共にする相手に困ることなんてないと思います』
通算二度も連続で断ってしまえば、さすがに次からのお誘いはないと踏んでいる。
そんな思いで丁重にお断りしたところ 、意外にもボリズリーはすぐに引いてくれて。
『そうですか。ではまた次の機会に』
するりと納得すると、綺麗な女性破魔士達の集団に囲まれながらハーレを出ていったのである。
あまりにもあっさりとした対応に、逆にナナリーの方が拍子抜けしてしまったくらいだった。
『あぁーいっちゃった……次の機会に期待するしかないか』
『きっと社交辞令でしょう。私に声をかけたのも、単なる気まぐれだったかもしれないですし』
『ええーそう?』
『そうですよ。そもそも有名な彼と私じゃ、一緒にいてもバランスが悪いですからね』
未だにアルウェスやゼノン殿下と並んでいても、色々と言われることがあるのだ。アルウェス並みに大人気の有名人と一緒にいたりなんてしたら、もっと散々な目に合うのは目に見えている。
それに、他にも素敵な女性はたくさんいるわけで。
彼が新たな女性と噂になれば、今自分に好奇の視線を向けてくる周りも、ただの受付嬢がお誘いを受けたことなんて、すっかり忘れてくれるだろう。
『そういうわけでゾゾさん、資料の続き整理しましょうよ』
『ナナリー貴女、切り替え早すぎない?』
隣の席で一部始終を見守っていたゾゾが、半ば呆れたように肩を竦める。けれどその頃にはもう、一瞬で仕事モードに切り替えたナナリーが、資料に手を伸ばしているところであった。
『ふぅ……』
驚きはしたけれど、まぁ大丈夫だ。ヴェスタヌ騎士団がドーランにいるのは、あくまで仕事のためなのだ。たかが一介の受付嬢なんぞに構っている暇なんてないはずである。
『何はともあれ、もう関わることはないだろうし。それにあのボリズリーさんに話しかけてもらえただけでも、普通に考えたら良い思い出ですよね』
笑いながら資料を捲ったナナリーの頭の中で、先程のやり取りは既に終わったこととして片付けていた。
『もしかしたら三度目があるかもよ?』
『大丈夫ですって』
探るようにこちらを覗き見る先輩に、ナナリーは軽く笑って返した。そんなことあるわけがないだろうと。
そう油断していたのが、いけなかったのだろうか……。