スズカの可愛さを引き出したい!
風がターフの芝を揺らします。
カサカサと芝同士が擦れる音が鼓膜を揺らし、目を閉じて胸に手を当てれば、心音が一定の速さで打ち続けています。
ちろちろとゆっくり降りてくる雪が肌に当たることも厭わず大きく駆け出せば、音を置き去りにしたような心地の良い感覚に襲われます。
走って、走って、他の子の気配も感じなくなった時、ゴールで待っているのはトレーナーさんです。
トレーナーさんは私の駆けた後。蹄跡をじっと見つめ、満足そうな顔をします。
「よくやったなスズカ。蹄跡を見る限り、パワーもついたみたいだし、フォームもいい。何より、キチンと柔軟性が付いている。」
トレーナーさんは私の景色を再び私に見せてくれた人です。
そして、今の私に走る理由を下さりました。
今となっては、既にその走る理由そのものとなっているトレーナーさん。
トレーナーさんは私に大逃げを教えた時に、
「君に怪我は絶対にさせない。だから信じてくれないか?」
と、私に向き合ってくださいました。
それから、私のスピードと、『逃げて差す』というスタイルの確立に尽力されていました。毎日のように部室で徹夜で調べている様子を見て、これ以上はお願いだから休んでくださいと頼んだことがあります。すると、
「俺は君を勝たせると誓った。怪我もさせないと誓った。君が頑張っているんだ。俺も頑張らないと。」
と、言われ、何も言えなくなったことを覚えています。
その後トレーナーさんは倒れられました。
病院で、
「君に迷惑をかけてしまい申し訳ない。」
と謝られた時は、初めてトレーナーさんに張り手して、
「貴方を大切だと思う人もいるんです!そのことを…よく考えて下さいよ…」
と、泣いて怒ってしまいました。
トレーナーさんは退院した後、吹っ切れたように周りを頼る、ということをするようになりました。
時には私を頼ってくださることもあり、その度に喜びを感じました。
その時からでしょう。いや実は大逃げを教えてくださった時からかもしれませんが、
少なくともこの時には、私にとって既にトレーナーさんは家族や自分、ターフを超えて、一番の存在となっていました。
そう。よく言われる、"恋心"が芽生えていたのです。
私はそれから、彼が悲しむようなことがあってはならないと、自分自身を見つめ直しました。
おそらく、彼が一番悲しむのは、私の怪我だ。という考えに辿り着き、怪我をしないための柔軟をいつも以上にこなすようになりました。
そうしないと、何故だか、近いうちに彼をとても悲しませてしまう。という予感がありました。
それから、数ヶ月たち、未だに負けなしだった私のシニア級最大のレース、天皇賞・秋で、それは正しかったのだと、実感しました。
大ケヤキに差し掛かった瞬間、足に衝撃が走るような感覚がしました。突如脳内に溢れ出す、サイレンススズカ予後不良、安楽死、沈黙の日曜日という言葉。思わず足を止めてしまいそうになりました。そこに、
「スズカー!」
この大勢の中で聞こえるはずのないトレーナーさんの声が聞こえました。観客席を見れば、ゴール前最前列で、身を乗り出して声を上げるトレーナーさん。
それを見た瞬間、次の足は既に私だけの景色に踏み入れていました。私だけの景色で、トレーナーさんの待つゴール板を駆け抜けた時、運命を振り払ったのだ。という、抽象的ながら、確信的な思いが頭を埋めました。
トレーナーさんの元へゆき、その大きな胸に顔を埋め、今までで一番という位、泣き続けました。
この時の芝2000メートルワールドレコードは、未だに破られていません。
トレーナーさんがカメラで撮っていた私のフォームを真剣な表情で見つめます。
私は、よくないこととは理解しつつ、視線は画面ではなく、トレーナーさんの横顔に集中させました。私をいつも見守ってくれる目。この目を見るだけで、どこか安心できるんです。
私はちょっとした悪戯心で、その横顔にキスを落としました。
トレーナーさんは一瞬何が何だかという顔をした後、
明らかに、焦った様子を見せ、
「ど、どうしたんだスズカ!?」
と、私を見ました。
私はその安心できるその目をじっと見つめ、
「私は今、高等部のシニア級ですね。」
と話し始めました。
「お、おう。」
話の意図がわからない。と言った表情でそう返すトレーナーさん。
「今は何月ですか?」
もう天皇賞・秋は2ヶ月以上前です。
「12月、もっというなら年末だな。」
と、そう回答が帰ってきました。
「有馬が終わればすぐ年が明けますね?」
そう。私は今、有馬記念に向けて調節中なんです。
「そこで、有馬を勝ったら、ご褒美が欲しいんです。」
この学園では、シニア級を走った後、結婚は自由です。
「ああ。いいぞ!三年間無敗、なんだからな。」
この鈍いトレーナーさんはまだ私のお願いについて見当もついていないのでしょう。それでも…
数秒置いて、深く息を吸い、意を決し、口を開きます。
「ところで、トレーナーさん。私が貴方を好きって言ったらどうしますか?」