瀬戸内海。
西日本を語る上で外す事ができない内海であり、それゆえに深く海と生活が繋がっている場所である。
今回お邪魔する事になったのは広島県呉市。
今でも知る人ぞ知る軍港の街である。
という訳で、最初に来てみたかったのが音戸の瀬戸。
この100メートルもない狭い海峡に歴史が詰まっているからである。
この音戸の瀬戸に関わった人物の名前を平清盛という。
彼によって切り開かれたと伝えられているが、その真偽は今の所は疑わしいとされている。
だが、地元はこの伝説を真実のように語ってくれたのは、この安芸国が平家にとって特別な地という事もあったのだろう。
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす
奢れる人も久からず
ただ春の夜の夢のごとし
猛き者も遂にはほろびぬ
偏ひとへに風の前の塵におなじ
あまりにも有名過ぎる『平家物語』の冒頭部。
平家という一族は海上交易で富を成した武士であり、壇ノ浦の戦いという海戦にて滅んだ事に何とも因果性を感じてしまうのは私だけだろうか。
この平家繁栄を支えた瀬戸内海の要所こそがここ音戸なのである。
そういう意味を見て見ると、この呉という町がいかに海軍の街であるかという事を私は感じてしまうのだ。
そして、私みたいな感じを思った文豪の碑が目の前にあったりする。
吉川英治。彼の代表作の一つである『新・平家物語』の取材の為に訪れた際に残された記念碑がここには残されており、『君よ今昔の感如何』と問いかけたとか。
『新・平家物語』は1950年から1957年まで「週刊朝日」に連載されたのだが、それは敗戦後に書かれた訳で。
彼の眼には、平家もかくやの繁栄を誇った日本海軍の母港である呉の栄枯盛衰を肌で感じた事だろう。
あの物語は、敗戦から立ち上がろうとするこの国の大衆文学の地位を確立したのだが、それは大日本帝国への哀悼だったのかもしれないと私は思う。
それほどまでに平家物語のこの冒頭は美しく、もの悲しく、忘れられない。
改めて音戸の瀬戸を眺める。
この海峡は幅が狭いから泳いで渡れるのではと思ったりするが、強い潮流があるため泳いで渡ることが難しい。
古くは渡船によって人の往来が行われ、その為『音戸の舟歌』なんてのが作られるほどに栄えた。
更に大日本帝国によって呉に鎮守府が設置されるに及んで、呉の玄関口として大いにさかえたが海が荒れると行き来ができず海難事故もしばしば起こった為に、音戸大橋がかけられ純粋な移動手段としての渡船の役割は終わる事になった。
そういう意味合いでも栄枯盛衰を感じるのは私だけだろうか?
太平洋戦争敗戦によってこの国は戦争を放棄したという事になっているが、戦争の方はこの国を忘れた訳ではなく、その後に待っていたのは米ソ冷戦。朝鮮戦争という戦争によってこの国は再軍備の道を歩みだす。
その時に設立された海上警備隊、今の海上自衛隊の母港の一つにこの呉が選ばれたのは歴史の必然でもあるのだろう。
呉の港を眺めると、今もこの海には軍艦が浮かんでいる。
その為か、この街は自衛隊と共にあるのだろう。
今回の目的の一つである『大和ミュージアム』こと呉市海事歴史科学館、その隣にある『てつのくじら館』こと海上自衛隊呉史料館はお勧めである。
『大和ミュージアム』内にある戦艦大和の模型もそうだが、『てつのくじら館』に飾られているゆうしお型潜水艦『あきしお』の大きさを体感してほしい。
呉市が海軍の街であるというのは書いたと思うが、海軍関係者で出て来る言葉に『江田島』というのがある。
これは呉市の対岸にある江田島市江田島にある海軍兵学校の事であり、かつてはブリタニア王立海軍兵学校の『ダートマス』、アメリカ合衆国海軍兵学校の『アナポリス』と並ぶ世界三大兵学校の一つに数えられた。
今では橋がかかり車での移動も可能なのだが、呉から江田島に向けては船もあるので今回はその船に乗る事に。
船が呉港の桟橋を出発すると、改めて思うのが、この街の本体は海なのだという事。
沿岸にずらりとそそり立つ重化学工業郡はこの船たちの母であり、私が今いる海が彼女たちの家なのだ。
内航海運の主要航路でもあるここは、その為に多くの船が往来しており、海を眺めているだけでも楽しい。
そして、そんな船に見とれているとあっという間に目的地に到着するのだ。
ちなみに、海軍兵学校は今でも海上自衛隊第1術科学校として使われており、事前予約が必要だが見学が可能である。
ん?
何か風景や船に気を取られていたが、筏みたいなのがたくさんあるな。
下船時に何となしに尋ねてみた。
「ああ。あれは牡蠣の養殖筏ですよ。
広島県は牡蠣の養殖が盛んですからね」
その時、お腹の虫が鳴ってしまった私をどうして責められようか。
かくして、観光後の夕食時にカキフライにするか生牡蠣にするかを悩む私の姿がそこにあったという。