前に一つ、後ろに一つ。薄く銅版で覆われた、一抱えもない箱が二つ。魔物が貯め込んでいたものだった。
「う~ん……」
アレシアは腕組みしていた。そろそろ帰りを考えていた頃、魔力を節約していた頃。一度に二つもの収穫があったのだった。
「やめとく?」
そうウォレスは言ったのだった――多分だ。そう言うべきだっただけで、そう思いたいだけかもしれない――。
首を傾げ、長い間眉間にしわを寄せていたアレシアはようやく口を開いた。
「どっちか、どっちか一つにしよう。どっち?」
急に言われて何とはなしに、ウォレスは片方を指差す。
アレシアはうなずくと呪文を唱えた。
「
指先に溢れた光をまぶたに塗りつけ、にらむように宝箱を見つめる。
「よし……よし、ないね、仕掛けないよ、よし! こっちは……」
アレシアが振り向き、もう一つの箱を見ようとしたが。程なく、目の上に溜まっていた光が流れて消えた。
「あああっ! あ~、どうかな多分、多分ないなぁ、けど……分かんない」
六人が目を見合わせた後。
「開ける? こっちも」
誰かがそう言った――ウォレスではなかった、はずだ――。
アレシアはしばらく首を傾げた後、横に振る。金色の髪を振り回すように。
「やめとこ。正直ちゃんと見れてないし、もしもが……ってちょっと!」
声を上げたのも無理はなかった、誰かがそちらの箱にまで手を伸ばしていた――ウォレスではない。間違いない、別の方を開けようとしていたのだから――。
「やめて、止めて! みんな下がっ――」
箱に手をかけたままの者を除いた四人が散らばって下がり、アレシアも言いながら下がっていた。ウォレスの方に。アレシアが透視した方の箱を開けていた、ウォレスの方に。
ウォレスの手が箱を開けた、そのとき。景色が歪んだ、ウォレスとウォレスに背中からぶつかってきたアレシア以外の、全てが歪んだ。
それが収まったとき、誰もいなかった。二人以外の誰も。箱もなかった。確かに二つあったはずの箱も。どころか、辺りの地形が、通路の形が変わっていた。
要は。
「だいじょうぶ? だいじょうぶ?」
何度目だろうか、その言葉を聞くのは。アレシアの口から。気づかわれながら療術をかけられているのではなく、震える手で後ろから袖を握られて。
どうやら
ウォレスは剣を握り直し、アレシアを見た。笑って。
「大丈夫だよ。俺が、守る」
怖くなかったと言えば嘘になる。だが興奮しなかったと言えば大嘘だ。嬉しかった。自分だけが彼女を守れることが。二人だけで冒険できることが。
目元をひくひくと震わせてアレシアは言う。
「だいじょうぶかって聞いてんの回りに何もいないかって! ああそれとも誰か、別の人たちがいたらいいのに、いないかな、いない?」
アレシアに分からないように、小さく息をついてからウォレスは言った。
「でも、来たことある階なんでしょ? 道は分かるんでしょ」
変わらない顔でアレシアは言った。
「そりゃ来たことはあるよちゃんとした人たちとね! そこそこ強い戦士もそれなりにできる
アレシアによれば、何階か上がれば――ここが何階なのかは教えてくれなかった――昇降機がある階らしかった。そこまでくれば一気に地上へ近づけるし、昇降機を使いに来る他の者と会えるかも知れない。
だが、何階上がればそこへ着くのかは教えてくれなかった。転移魔法でも使えれば話は早かったが、もちろんアレシアにはできなかった。
アレシアの記憶を頼りに、曲がり角のたびに立ち止まり、壁に背をつけて通路の先をうかがいながら進む。足音はひそめていたし、魔法の灯りなんかとっくに消していた。
自分たちの息づかいだけが聞こえる。特に、真後ろにいるアレシアの息づかい。苦しげに吸っては吐くその音。そして袖を握ってくる手の震え。
その全てが温かくて、熱くさえあって。剣を握る手に力がこもった。
その階は幸い、上への階段が近くにあった。魔物と出会うこともなく、気配すら感じられなかった。
しかし上階へ上がって程なく、足音が聞こえた。
複数の足音――何人、あるいは何体? ――が、壁に天井に反響し――どの通路から聞こえた、どこから来る? ――こちらに向かってくる――人間が? 魔物が?
いよいよ強く剣を握り、片手でアレシアを後ろへ押しやる。身構えた。
やがて足音は近づき、ここ以外のどこにも向かっていないのが分かるほど近づき。
見えた。通路の奥から、光が差すのが。日のような白い光、アレシアが使っていた魔法と同じ灯り。
アレシアの震える手から力が抜け、ゆっくりと息が吐き出される。そして彼女は声を上げた。
「助けて、助けて!」
足音が一度立ち止まり、それからこちらへ駆けてきた。
「どうした、誰だ!」
魔法の光の中、逆光になった一団の姿が影のように見えた。それでも輪郭で見てとれる、しっかりと鎧兜に身を包んだ戦士二人と軽装の剣士が一人。後ろには解錠師や魔導師らしい者たち三人。
ウォレスも胸の奥から息をついた。その後で、もう少し後で出てきてくれれば、とも思う。
アレシアは目の端に涙さえ浮かべていた。
「良かった、良かったぁ! 助けて、早く
何があったのかと聞く冒険者らにウォレスが説明した。罠にかかって上の階層から転移させられたこと、仲間は上の階層で、二人だけがはぐれたこと。
冒険者らは顔を見合わせる。
「どうする?」
「戻るってのか、来たばっかりで?」
「しかしなあ……」
そうしたやり取りを打ち切るように、鎧兜の戦士が前に出た。
「分かった、地上まで送ろう。ついてきてくれ」
「リーダー!?」
不満げな声が上がり、別の者がウォレスの格好を見ながら言う。
「いいのかよ、礼は期待できそうにないぜ」
リーダーと呼ばれた戦士は手を挙げ、仲間を制止する。
「ほっとくのも寝覚めが悪そうだろ。礼はまあ、出世払いででも返してもらうさ」
礼を言うアレシアとウォレスに、戦士は首を横へ振ってみせた。
「それより行こう、仲間ってのはどの辺にいるんだ? それと――」
逆光の中、白い歯を見せて笑った。おそらくアレシアの方に。
「この顔を覚えといてくれ。いつか俺たちが困ってたら、今度は君が助けてくれよ?」
アレシアが笑ってうなずき、その目から涙をこぼしたとき。戦士は大きく首を傾げた。
そう見えただけだった。実際はその首が、ちぎり取られたように分かたれていた。兜ごと転がった頭が、床で大きな音を立てて。遅れて体の方、首の切り口から血が噴き出る。
アレシアの顔を体を、服を赤く血が濡らす。声はなかった。目を見開くこともなかった――かは分からない。魔法の灯り、小さな太陽のような球体は血を浴びてしょぼくれた音を立て、くすぶり消えていた。
冒険者たちの怒号、ウォレスは首をめぐらす、暗闇の中、目の前に灯りの残像が赤や緑のもやみたいにちらつくだけ、何も見えないまま剣を構える――実際にはただ自分の身へ寄せただけ――。誰かが何かを振り上げて何かを叩き――幼児ほどの背丈もない獣のような、何かは分からない――、誰かがでたらめに刃物を振り回す。アレシアではない声が聞こえて、呪文を唱えていると分かったが、くぐもった音と共にそれが止む。
ようやく目が慣れた、素早く動き回る獣に向かってウォレスは剣を振り回す。外れ、かすって毛をまき散らし、地面を叩いて折れ曲がる。石畳の継ぎ目につまずいて転び、そのすぐ上を獣が跳んでいた、刃物のような爪を閃かせて。剣を捨て、転がっていた曲刀――その横で転がっている剣士のものか――を引っつかみ、着地した獣の背を目がけて斬りつける。ちぎるように毛と皮を切り、柔らかく締めつけるような肉に食い込み、引っかくような手応えを感じながら堅く骨を断った。
息を切らしながら構え直し、後ずさりながら四方へ刀を向ける。何も跳んではこなかったし何も聞こえなかった。立っている者は誰もいなかった。
裂かれ、あるいは潰された獣と、首や腕を落とされた冒険者たち。甘くさい血のにおいの中、それでもそこに血はなかった。わずかに残った血溜まりも、吸い込まれるように床に消えていった。獣たちの死骸も、やがて冒険者たちの手も首も、だいぶ時間をおいて体も。鎧や剣を残し、身につけていた服も。
そうして、体中を濡らした汗が温度を失ってようやく、アレシアがいることに気づいた。
彼女は震えて座り込んでいた。ウォレスが近づくと床の上を後ずさった。
「大丈夫」
ウォレスが言って手を差し出しても、それを取りはしなかった。さらに近づくと血ではないものが塩辛く香った――それでウォレスも、自分のズボンが同じく濡れていることに気づいた――。どちらにせよその液自体は、もう喪失されている。
「大丈夫」
無理やりに手をつかみ、立たせる。
それからウォレスは辺りを見回す。散らばる――冒険者たちのものだった――武具に目をやった。魔法薬と思われる瓶や魔法を封じてあるらしい巻物――厚いガラスの筒に入っている――を拾ってはポケットにねじ込む。武器は手にした曲刀でいいと思えた、他の斧などは手に余る。鎧も手早く身につけられそうなものはない。兜だけは合いそうなものが目につき、拾い上げてかぶった。幸い中身は喪失されていた、一番初めに。
「大丈夫」
手を引かれるアレシアは、狂人を見るような目をしていた。