【第32話】
――物語は終わってしまって、それはウォレスも知っているが。これはウォレスは知りもしない。
王女はただ抱きついていた、その胸に顔を預けていた。全てが震える迷宮の中で、彼女はじっとそのままでいた。魔王の首の斬り口から、時折垂れる血に濡れたまま。
首のない魔王もまた、そのままでいた。王女を抱くでもなでるでもなく、ただじっとそこにいた。やがてその細腕が、王女の肩を取り、顔を胸から引き離す。
「先生……?」
その薄い手が。叩いた、彼女の頬を。
叩いた、再び。
震える指で拳を作り、殴った、一度。
「先、生」
頬に手をやり、つぶやく王女の。その首に魔王は手をかけた。震える両手を、絞るように絞めかけて――不意にその力が緩む。ため息をつくように肩を落とした。
そうして、片手の指を自らの首の斬り口へやり、血に浸す。それで彼女の胸に書いた、呪文の文字列を。
「先生!」
気づいた王女はその手を振り払おうとしたが。そのときにはもう、魔王の指は終止符を打っていた。転移の呪文の文字列の。
水面のように揺れ始める、王女の視界の中を。魔王の背中が遠ざかっていく。ないはずの首を、彼がゆっくりと横へ振る――それを王女は、見た気がした。
その物語も終わってしまって、ウォレスは何も知りはしない。――
【第33話】
「やめときゃよかった」
本当にそう思う、本当に。こんなことはしたくなかった――ウォレスは一人、胸の中でそうつぶやく。
ひどく静かだと思ったし、あまりにも騒々しいと感じた。何より焼けつくようだった、ぞくりとくる冷気は欠片もない。責め立てるような日差しだった。あるいは逆に、まるで体温の全てを持っていかれるようだった。優しい温もりなどどこにもない。風に、空へ、果てまで、ここは。
歩いても――辺りを何度も何度も、上も下も見回しながら、小さな歩幅で――歩いても、足音が壁に響かなかった。足元が、石ではない地面が柔らかかった。草の上などはもう、沈み込むようで。倒れてしまいそうな気がして、すぐに他へ移った。
風の音が絶え間なく鼓膜を揺らし、髪をなぶる。どこからか――どこからか分からないほど遠く、壁にも天井にも阻まれない遠く高くから――鳥の声が聞こえる。それだけでもう、足元がふらつく。そこへきて太陽は、暴き立てるように絶え間なく照る。
真っ白な光だった、顔を上げただけで目が
刀を杖にして立ち、深く呼吸をする。それでようやく気づいた。空は渦を巻いてはいないが、地が揺れていることに。
地面は揺れていた。ころころころ、と音を立て、小石が跳ねて転がった。
目の上へ片手を掲げて日差しをさえぎり、振り回すように頭をめぐらす。白くぼやけた視界の中、揺れる景色が見えた。頭の奥に残る風景と目の前の光景とが――それぞれ光と時間とに、ぼやけてはいるが――重なり始める。
辺りは荒野、岩と土とわずかばかりの草木。先に見える、大岩の積み重なった小山、その先で角のように二本突き出た石柱と辺りを囲う太い柵、地面の石畳。その先、見慣れた――見慣れていた――迷宮の入口。少し離れて番兵の詰所――もう冒険者相手の物売りは来ていないようだ――。
ずっと向こう、緩やかに森を下った先には、石壁の家が建ち並ぶ街が見える。なだらかに広がる街の中、大聖堂の三尖塔と堀の向こう、高台の上で城壁に囲まれた王城だけが、空をつつこうとしているみたいに高くそびえていた。遥か先にはそれを鼻で笑うように、あるいは微笑んで見守るように、頭に雪を被った岩山が裾野を広げていた。
その全てが揺れていた。少なくともウォレスにはそう見えた。足元から激しく、揺さぶられるウォレスには。
ころろ、ころろと小石が転がる。そこら中で小石が転がる。地が震え、跳ねるように小石が転がる。見れば小石は皆、一つの方向へ転がっていた。迷宮の出入口、そちらの方向から。ウォレスのいる方へと向けて。
やがてさらに地は震え、張り裂ける音を上げてひび割れた。地面が盛り上がる。膨れ上がる。膨れ上がる。まるで大地の腹を裂いて、何かが生まれ出るかのように。
薄布のように地面を引き裂き、辺りの岩を転がし、柵をへし折り、番兵の詰所を焼き菓子のように砕いて。噴き上がった、それは。
それは駆け上がった。地面の膜を引き裂いて、木であれ岩の群れであれ、そこに載ったちっぽけなもの全てを跳ね飛ばして。瀧のように流れ落ちる砂の中、見えた。地の底が天へと立ち昇るのが。積まれ積まれた石の塊、蛇の鱗にも似て一つながりの石の重なり。それがどこまでも噴き上がるのが。
振り落とされる岩を避け、波打つように揺れる大地の上を、ウォレスは後ろへと跳んだ。そのまま後も見ずに駆けた。霧雨のように砂の降りしきる中を駆けた。激しく音を立てて落ちる石を背中で受けながら駆けた。
駆けながら振り返れば、砂と瓦礫に煙る空の中、影だけが黒く見えた。長く長く、どこまでも長く、影が天に躍るのが。おそらくは、いや間違いなく、地からその身を全て抜け出させた、地下七百二十四階。喪失迷宮が嬉しげに、身をくねらせて天を舞うのが。
降りしきる砂に咳き込み、ウォレスはやがて足を止めた。砂の入った目を拭い、口を開けたまま天を仰ぐ。
ころころころ、と笑う声。
振り返ればアレシアがいた。何も言わずに天を見上げる。
ウォレスもまた天を見上げた。降り続ける砂に目を細め、片手をひさしに掲げて。
長かった、それは。一面を砂埃の色に染められた空の中、鈍く銀色に光る太陽の横。じゃれつくように喪失迷宮は、石造りの体をくねらせて舞った。
長い、という言葉がこれほどまでにちっぽけだと、ウォレスは初めて気がついた。その言葉では足りなかった。天高くに遊ぶ灰色の紐のようなものは、手繰っても手繰っても終わらないようにすら見えた。そもそもどこが終わりなのか、先を行く頭はともかく、後ろの端はどこなのか分からなかった。それが躍るごとに空が黒く黒く、塗り潰されていくようにさえ見えた。
思えば一つの階ですら槍を振るってまだ届かない高さがあるのだ、そして地下七百二十四階。おそらくそうだ、王城の遥か先、雪を頂いた山より、まだ高い。
「あれが――」
ウォレスがつぶやくとアレシアは言った。
「龍よ」
ウォレスは目を瞬かせる。
「あれは――」
違う。あれの中での冒険譚、それに憧れたものがあれなら。あれは、龍とは違う。あの中へ息せき切らして駆けていったものなら、龍とは違う。あの中でアレシアが、幾多の冒険者が喪失されたものなら、違う。ウォレスや仲間たちが戦い、探り、旅したものなら。全てが終わっても、ウォレスがまだしがみついたものなら。その一部になりそうなほど手放さなかったものなら。龍とは違う。
あれは、あの日だ。
重く唸るような声が天高くで聞こえた、と思ったが。どうやらそれは風を切る音で、あの日が頭を上げたようだった。その体から落ちた石くれが、ウォレスの目の前へ音を立てて突き刺さり、砂を巻き上げる。
ウォレスは微笑む。
「ごあいさつだな。知らない仲じゃないだろうに」