万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
その言葉が、天使が口にした警告であるのか、悪魔が口にした誘惑であるのか、その時のアイネスフウジンには区別がついていなかった。
一般市民の家庭に生まれたアイネスフウジンは、おおよそ裕福とは言えない環境で育った。母親と、自身と、2人の妹。父を除いて全員がウマ娘であるため、食費にかかる負担は大きかった。
特にいくら食べても減る自身の腹が憎かった。かつて稼いで貯めてあったレースの賞金を切り崩し、減っていく数字を子に見せないよう「ウマ娘の親子っていうのはこういうもの」と笑う母と、その減りを少しでも遅くしようと日夜働く父の優しさが痛かった。
アイネスフウジンも、少しでも両親の負担を減らそうと進んで家事や妹の世話を務めた。安くて腹が膨れるスタミナバーで腹を満たした。
地方トレセンでもいいと言った自分を中央に送ってくれた家族のために、少しでも多くのレースに勝ってその賞金を家族に返さなければならない。
そう思い挑んだこの選抜レースでその男に投げかけられた言葉はあまりにも残酷なものだった。
「そのままでは近しい未来、その脚は壊れて使い物にならなくなりますよ」
あるレースに勝つためなら走れなくなってもいいと言ったウマ娘がいたらしいが、アイネスフウジンにとっては逆だった。
勝てなくてもいい、恩を返すために走り続けられる脚が欲しい。
12月の、まだ麗らかな
悪魔のような男だった。クセがついてややウェーブのかかったアッシュグレーの髪は七三にセットされ、顔には薄ら笑いが浮かんでいる。アンダーリムの黒縁メガネの奥には、細められた
高い上背を包む細身のスーツと革靴と手袋は黒で統一され、ジャケットの下には灰色のワイシャツ。ネクタイだけがワインレッドに色づいている。ともすれば大企業の営業マンか敏腕弁護士かエリート刑事ではないか、などと思える男の胸元には、確かにトレーナーバッジが光っていた。
しかし、何かこう、そこはかとなく、胡散臭い男だった。
男の異様な存在感に、それまでアイネスフウジンをスカウトしようと息巻いていたトレーナーたちは一斉に押し黙り、男の歩く道を空ける。
「え、えっと……?」
「左足、痛むんでしょう? 私には原因も、対処法も、解決法もわかっています。生憎なことに貴女は私の担当ではない。この先、私が担当することになる娘の前に立ちはだかるかもしれない貴女のために、懇切丁寧奉仕する利も義理もない」
突き放すような言葉に反し、男はコツコツと革靴の
反射的に身を引いて、それまで庇っていた左足に体重が乗ってしまい、ズキと今は我慢できないほどではない痛みが走る。
最近この痛みが現れやすくなったのは、確かだ。
「しかし、とても運がいいことに私もフリーなのですよ。だから、私と契約する、というのであれば、トレーナーとして貴女の脚部不安を解消し、末永くターフを走れるようにして差し上げましょう。
私と一緒に来なさい。
男の言葉に信頼できる要素はどこにもない。ただアイネスフウジンの足の不調を見抜いた。言ってしまえばそれだけ。
しかし、アイネスフウジンにはまるで、男の誘いを断ることが、自らの脚をへし折るのと同義であるかのようにさえ感じた。まるで今、男には目の前に脚の折れたアイネスフウジンが視えているかのように!
「わ、わかったの……よろしくお願いするなの……」
アイネスフウジンは震える声でなんとかそう絞り出した。脚は震えていないだろうか、血の気は引いていないだろうか、そんな些細なことでも、目の前の男に見咎められればそこにつけいってくるのではないかとさえ感じた。
所詮、人間。たとえ体格差があったとしても、まともにやれば身体能力ではウマ娘が負けることはない。その筈なのに。
「わかりました。駐車場、A-13番に黒のヤールフンダート*1……若者には伝わりにくいでしょうか。車の外で待ってるので、帰宅準備が終わったら来てください。書類を書いてもらうのと、来てもらいたい場所がありますから」
そう言うと、男は今気づいたかのように「失礼しました、こちら名刺です。お控えください」と名刺をアイネスフウジンに手渡して、さっさとその場をあとにした。回らない頭で眺める特徴のない簡素な名刺の表面には『中央トレセン学園所属トレーナー 網馬 怜-Toki Amiba-』と書かれている。
黒のヤールフンダートについてはよくわからなかったものの、周囲のトレーナーがビクリと反応していたこともあり、特徴がある車なのだろうと現実逃避じみた思考回路でぼんやり考えていた。
真っ先にスカウトをもぎ取ったはずなのに、その場にいた他のウマ娘たちから気の毒そうな顔で見送られたアイネスフウジンは、シャワーを浴び私服に着替え、荷物を持って駐車場へ向かった。
トレーナーやウマ娘たちの反応の意味はなんなのだろうか。もしかして自分が知らないだけで有名な危険人物なのだろうか。ぐるぐるとそんな考えが回るアイネスフウジンは、無意識に様々な行動を普段より大幅に急いでとっていた。
実際は網馬と名乗ったあの男、能力はともかくキャリアに関しては中央のトレーナー試験に合格したばかりの紛れもない新人なので、当然あの場にいた誰ひとりとしてその存在を知りもしてないし、全員雰囲気で「ヤバそう」と感じていただけである。
伝えられていた番号、A-13番の駐車場所が見えてきたアイネスフウジンは、網馬がそばに立っている車を見て荷物を取り落としそうになった。
父が持っていたファミリータイプのワンボックスカーとは一線を画す、重厚感のある真っ黒な車体。知識が一切ないアイネスフウジンの目から見ても相当の高級車であることが見て取れる。
そんな存在が厄ネタとさえ感じるセダン*2の周りには不自然なほどの空白ができている。当たり前だ。何らかの事故で万が一傷1つでもつけたら飛ぶのは財布の中身か首だ。
そんなマイカーのボンネットに腰掛けた網馬がアイネスフウジンに気づいたことを察して、アイネスフウジンは慌てて近づく。
「お、お待たせしましたの……」
「いえ、それほど待っていませんよ。むしろ急いで来て足の負担になってはいけませんから」
実際は無自覚のままに急いで来たのだがそれには触れずに網馬は後部座席のドアを開く。
わざわざドアを開いて待っている相手を待たせるのはそれこそ失礼の極みであると思い、アイネスフウジンは自分の生活圏内と2桁ほど値段の違う世界へ踏み込むことに抵抗を感じつつも、車へと乗り込んだ。
本当に車かも疑わしかった。
ワンボックスカーの合成革でできたシートとはまるで違うクッション製のシート。アームレストなどまるで建物のそれだ。
呆然としている間に網馬に預ける形となった荷物はトランクへと運び込まれる。
この時点でアイネスフウジンは完全に逃げ場を失った。
「ライティングテーブルがあるので、そこでこの書類に記入をお願いします」
「は、はい……」
「それと、シートベルトを……」
言われてようやくシートベルトの存在を思い出したアイネスフウジンは、急いでカチリと音がなるまで金具を押し込む。
それが自分の動きを封じるものでもあることは完全に頭から抜け落ちている。勿論、網馬はただ胡散臭いだけであり、性格は悪くとも悪人ではないのでなんの他意もないのだが。
アイネスフウジンは自分の知識をフル動員し、書類におかしいところがないか探した。レースに負けたら激しい体罰が待っていたり、はたまた身体で支払えとあられもないことになったり、賞金の分配がおかしなことになっていないかなど、書類の隅に小さな文字が書いていないかまで確認した。
結論として、そのようなところは見当たらなかった。失礼かとも思ったが、運転席から見えないようにウマホを使って正式な契約書の内容と比べたが、理不尽に改変されている部分はない。
ちなみに、ヤールフンダートの運転席には後部座席を確認できるモニターが付いているため、アイネスフウジンの行動は逐一把握されており、網馬は「しっかりした娘さんだなぁ」などと呑気なことを考えていた。
結局おかしなところは見つからず、最後の抵抗としてアイネスフウジンの『ス』と『ン』を少し崩して『ヌ』と『ソ』に見えなくもないように書いてから網馬に声をかける。
「か、書けましたなノォッ!!?」
「どうかしましたか?」
素っ頓狂な声をあげたアイネスフウジンに対し網馬は声にも顔にも出さずに驚いていたが、それに気づくはずもないアイネスフウジンも驚いていた。
窓の外の景色が動いている。それはつまり車が動いているということだ。
「え? い、いつから……? 動……えぇ……?」
「書類を渡してすぐに発進したので、もうじき到着しますよ」
停車していると勘違いするほどの静粛性に驚愕した。エンジン音も振動も驚くほどになかった。
中央の人はみんなこんなすごいのだろうか。
庶民の中の庶民であるアイネスフウジンが貧富のカルチャーショックを受けている間に、車は目的地へ到着した。
☆★☆
「屈腱に軽い炎症がみられますね」
白衣に身を包んだ中年男性が告げる。
連れてこられた先は百貨店ほどの大きさがある大学病院だった。いつ予約をしたのか、到着してから程なくしてアイネスフウジンの診察となった。
基本、一般市民は権威に弱い。アイネスフウジンも例外ではなく、普段かかっていたような開業医の病院とはあまりにも規模が違う人手と患者の数に慄いたアイネスフウジンに、目の前の中年医師の言葉を疑う思考の余地は残されていなかった。
正直最初は、痛みに関する説明から対処法まで網馬が行うものだと思っていたのだ。すべて内々で済ませるつもりではないかと。
しかし網馬はあっさりと、あの自信満々にアイネスフウジンへ選択を迫っていた時からは考えられないほどにあっさりと、診察を他者の手へ委ねた。
「いえ、初対面の、トレーナーであることしか保証されていない人間よりも、れっきとした医師の方が遥かに信用できるでしょう?」
何を当たり前なことを言っているんだこの田舎娘は? とでも言いたげ*3な網馬の様子に、アイネスフウジンは顔が熱くなるのを感じた。
診察代はそれほど高い額ではなかったとはいえ、あっという間に網馬が支払ってしまった。自分で払うとも言ったのだが「経費で落ちますから」「支払い能力が違います。大人に任せなさい」と完全に拒否されてしまった。
その後は再び揺られることもない高級車に乗せられて、中央トレセン学園の寮まで送られることとなった。
寮に入った途端、友人たちに群がられて身の心配をされ、ようやく地に足がついたように感じたアイネスフウジンだったが、翌日には既に「借金を返すためにアルバイトを掛け持ちしていたアイネスフウジンが遂に借金取りに捕まった」と噂が立っており、必死に噂を否定して回るのであった。