万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
時は飛んで、4月。
トレーニングへ移行したアイネスフウジンは、すっかり常連になった温水プールで100m息継ぎなしで泳ぎながら、脳に酸素を回すことに慣れるためにぼーっと思考を回す。
一緒にいてもう1年以上。アイネスフウジンはバレンタインの昼、メジロライアンにそんなことを言った。正直、メイクデビューでの勝利よりも実感が湧かない。
理由はなんとなく分かっている。網馬の
網馬は確かにアイネスフウジンの生活を様々な面で変えていった。しかしながら、変わり方があまりにも自然すぎてまるで変わったように思えない。
網馬が行ったのはあくまでアイネスフウジンのトレーニングやレースに関わる部分だけで、私的な部分はほとんど関わっていない。実際、アイネスフウジンの生活は去年と何ら変動していない。精々、金銭的な余裕ができたくらいだ。
それほど、網馬は
網馬は知っている。アイネスフウジンが何故走り、何を目指しているのか。
アイネスフウジンが他のウマ娘たちよりも名誉にこだわらず、言っては悪いが金稼ぎとしてのレースを求めていることも網馬は知っている。GⅠを選んで走らせているのだって、アイネスフウジンなら十分な賞金が出る順位に入れるという確信があってのものだ。
たくさん走れるのであれば、GⅢやGⅡのレースを数走ったほうが賞金は出るかもしれない。しかし、ウマ娘の脚の耐久は有限だ。
GⅠレースなら一度に稼げる金額は申し分ないし、ある程度は間が空くから脚を休める期間も作れる。もちろん、網馬もアイネスフウジンもどうせ走るならGⅠ、しかも勝利という気持ちはあったが。
対して、アイネスフウジンは網馬がなぜトレーナーになったか知らない。網馬のプライベートは、いつか聞いたあの電話以外まったく表に出さない。
もちろん、知らなくたっていいものだ。トレーナーはウマ娘のために最善を尽くす。そのためにウマ娘の心の内を、その熱量を知るべきだ。
しかし、ウマ娘は結局のところ、自分のために走る。トレーナーの想いまで背負う必要はない。
(でも、なんか、モヤるの)
でもそれは、まるで
きっとそれでは、ダービーウマ娘を目指す娘には勝てない。
きっとそれでは、三冠ウマ娘を目指す娘には勝てない。
きっとそれでは、絶対に譲れない夢を持つ娘には、決して勝てない。
何より、アイネスフウジンは知りたいと思った。なぜあの日、網馬が自分をスカウトしたのか。
網馬が自分に何を求めるのか、自分を通して何を夢見ているのかが。
プールからあがる。インターバルをおくためだ。レーンではまだツインターボが必死に泳いでいる。ウマ娘は人間よりも泳ぐのが苦手な者が多いが、意外なことにツインターボは普通に泳げる。非常に意外だが。
それを監視する網馬の隣に座ったアイネスフウジン。網馬はプールサイドでもスーツだが、上からレインコートを着ている。
そこまでしてなぜスーツなのか。スーツしか持ってないのか。寝てるときもスーツなのか。アイネスフウジンとしては色々気になっているけど、なんとなく聞けてない。
それよりも、聞くことがある。
「トレーナー、聞きたいことがあるの」
「なんだ」
「トレーナーって、なんでトレーナーになったの?」
はぐらかされるかと思ったアイネスフウジンだったが、網馬は意外なことに少し考えてから「別に隠すことでもないか」と呟いて話しだした。
「俺は五人兄弟でな。上ふたり下ふたりの真ん中だった。一番上は優秀だったが事故で死んだ。二番目は優秀だったが性格が悪くて早々に摘まれた。俺は稼業の才能がなかった。四番目は才能がない上に性格も悪くて表に出せなかった。そんで、一番下が天才だったしまだマシな性格をしてた」
「それなら性格は遺伝を疑うところなの」
「言うねぇ」
でも、環境的なとこも大きいんだよ。そう呟く網馬の声色には嫌悪がこもっている。憎しみとか怒りとかではない。不快害虫を見たときのような生理的嫌悪感。
「俺が親から与えられたのは無関心だった。まぁ放り出されないだけマシだったな。欲しいもんは与えられたし……気障な言い方になるが、愛以外は、な。欲しいと思ったことはないが」
その声色にも、眼差しにも、さして感情は宿っていない。ただ記録を読み返しているだけ、そんな雰囲気。
「んで、トレーナーになった理由? たまたまだよ。テレビでやってたレースが、ミスターシービーの菊花賞。痺れたね。翌年ルドルフがなんかやったが、シービーには及ばないと思った。確かにルドルフは強いんだろうが、あいつは淀の坂でまくりに行かなかったからな」
非常識なる才能、ターフ上の演出家、ミスターシービー。
より人に讃えられたのは? シンボリルドルフだろう。だが、より人を驚かせたのはミスターシービーだ。
「きっかけはそれだな。ルドルフを目指すやつは多いが、シービーに憧れてシービーを目指すやつはそう聞かない。ルドルフは完成形だが、シービーは異端だからだ。俺は俺の手で
「……だから、ハイペースな逃げと破滅逃げ、なの?」
アイネスフウジンの問。その意味はわかるだろう。
奇を衒って、それができるウマ娘だからスカウトしたのか。そういう質問。
「まぁ、半分はな」
それを、網馬はあっさり肯定した。
「正確にはお前らにそれをやらせてる理由の半分か。もう半分はお前らはそれが一番勝てるからだ」
「じゃあ、なんであたしをスカウトしたの?」
「勘。こいついいなと思ったから誘った」
「そ、そんなふわふわしてていいの?」
「いいんだよ。大事なのは今俺が担当してるのがお前だってことだ。譲れない想いとか、叶えたい夢とか、そういう御大層なもん持たなくても、そういうのは見る側が勝手に見とけばいいんだ。俺たちはさ、負けたくないって思ってりゃいいんじゃねえの?」
きっかけはあのレースだったけど、別にトレーナーでなくてもよかった。天才である弟に負けたくなかったから、なにかの才を欲した。網馬はそう話す。
「お前、日本ダービー出るんだろ? 正直、距離適性外だと思う。延ばそうと思えばギリ延ばせるけど、本当にギリギリだ。あれってなんでだ? レースにこだわりないんだろ?」
「……友達が出るから」
友達。メジロライアンと、ハクタイセイ。クラシック路線で三冠を目指すふたりの友人。そのふたりに、日本ダービーという大舞台で勝ちたい。
本気で三冠を目指してるウマ娘たちにとってははた迷惑な話で、別のレースでやれと思うかもしれないが。それでも、このレースで、本気でぶつかって、勝ちたいと思ったから。
「それだけありゃ十分だろ。夢なんて叶えるか破れた時点でおしまいのもんより、出るレース出るレースただ絶対に負けたくないって思ってりゃ、それで」
それで、
「ねぇ、トレーナー。NHKマイルのあと日本ダービーに出るって、公表しないんだよね?」
「ああ。その方が意表を突けるだろ? 盤外戦術の一種ってやつだ……まぁ、言いたい奴がいるなら言ってもいいが。そういう質問だろ?」
「うん。ありがとうなの、トレーナー」
「何言われても気にすんな。俺が絶対壊させねぇし、
「はい!」
アイネスフウジンを見送って、網馬はひとつアクビをした。随分と信頼してもらったものだなどと考えながら、泳ぐツインターボを眺める。
なぜ自分がここまで慕われているのかと考えると不思議になってくるが、どうやら今のところ自分のやり方は間違っていないらしい。仮初の関係しか築いてこなかった網馬にとって、ともすればこれが本当の意味で人と関わる初めての経験だ。
期待されたのならば、それに応えねばならない。それが今の自分の負けられないことなのだから。
今朝はデータが消えたと勘違いしてアホ焦りました。単に消えてなかっただけです。