万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
この記録はあくまでウマ娘レースに関する諸事を纏めたものであるため、本筋から逸れたものは多く語ることはない。とはいえ、気になる者もいるだろうから結果だけ記しておく。
元月刊ターフ記者、蒲江曳舟は駆けつけた警察官によって逮捕された。後の裁判では心神喪失と見做され罪には問われなかったが、僻地の精神病院へと入院する運びとなり、ろくな娯楽もない一人用の病室で三十余年生活した後、くも膜下出血を発症。激痛で失神したため安静状態となり結果的に止血されたが、3時間後に再出血、さらに2時間後に再々出血、それから3時間後の4度目の出血を以て死亡した。
蒲江が
更に、蒲江の銀行口座からは彼の妻によってすべての預金が引き出されており、犯行当時は行方をくらませた状態だった――現在は彼女の実家で確認されている。
つまるところ、人生が完全に行き詰まったことを理解しての犯行だった。
これについて世間の声はおおよそ冷ややかなものだった。一部、網馬が追い詰めすぎた結果ではないかという意見も見られたが、それも大きくは広がらなかった。
出版社は取材や取り調べに対して無関係を貫いたが、クレームの電話とスポンサー撤退、売上の低迷の末に倒産を余儀なくされた。一部の社員からは逮捕者も出たという。
以上が、月刊ターフに関する諸々の顛末である。
◇◆◇
ピピピピッという無機質な高い電子音が響き、文字盤に数字が表示される。
「38.9℃。咳に疝痛……。
「あ゛〜……」
「ついでに喉荒れな」
11月8日、気温は10℃前後の中で川へと落下したナイスネイチャ。幸いなことに橋がそれほど高くなかったことと水深が2m程度はあったこと、尻の脂肪部からの着水だったことなどが理由で、外傷らしい外傷は尻尾を痛めた程度で済んだ。
その後、中央トレセン水泳部と呼ばれるほどのチーム《ミラ》のトレーニングの成果によって着衣での水泳も練習していたことが功を奏し、岸へと無事に辿り着くことができた。
とはいえ、風邪はひく。さらに川の水を飲んでしまったことが原因で、腹を下してしまっていた。
ちなみに、ライスシャワーのほうは事件直後こそ自分のせいでとヘコんでいたが、アイネスフウジンによる説得で「自分の
「……あの〜……トレー……」
「却下」
「まだ何も言ってませんが!? ッゴホッ!」
「ジャパンカップは出走させない。そんな状況で出走させられるわけないし、出たとしても勝てねぇよ」
一度素を出してしまっているため敬語なしの繕わない口調でそう断言する網馬に、ナイスネイチャはなおも言い募ろうとする。しかし、網馬はそれを遮って続けた。
「無理にお前を出走させたら、場合によってはチーム《ミラ》全体に罰則が及ぶ。確かに今年大きなレースがあるのはお前だけだが、ライスシャワーはまだステイヤーズステークスが残ってるんだぞ?」
そう言われてしまえば――さらっとGⅡレースを大きなレースから外している点を除けば――ぐうの音も出なくなるナイスネイチャ。ジャパンカップへの出走に拘る理由はSSとの対戦、つまりは私情である。いや、出走レースの選考基準は基本的に私情なのだが、それでもチーム全体より優先させることは、小市民なナイスネイチャには難しかった。
しかも今、チーム《ミラ》にはクラシック期を来年に控えるナリタタイシンがいる。彼女本人の要望によって、デビューは人があまり来ない夏に終わらせているし、ツインターボと同じく若葉ステークスを経由して皐月賞に乗り込むことになっているため半年近くは猶予があるのだが、それでもなにもないに越したことはない。
しかし、種族的に負けず嫌いなウマ娘にとって、不戦敗ほど悔しいものはない。しかも、ナイスネイチャ本人ではなくトウカイテイオーの名誉を懸けた戦いである。ナイスネイチャの目には涙が浮かんでいた。
そんなナイスネイチャを見て、網馬は深く溜息をつく。彼自身、保護者としての監督責任を感じており、ナイスネイチャの両親の元へ直接謝罪に行っている。が、事の原因であるとは全く思っていない。
網馬の落ち度は監督責任がある子供から目を離したことであり、蒲江を追い詰めすぎたことに関しては、そもそも追い詰めすぎたとさえ思っていなかった。
「……そのジャパンカップだが、お前の代わりに出たいと言ってるやつがいてな。賞金額も足りてるし、恐らくそいつが出走することになる」
その言葉を聞いたナイスネイチャは、ザッと知り合いの顔が頭に浮かぶ。
まずチーム《ミラ》のメンバーは違う。アイネスフウジンは引退しているし、ツインターボは天皇賞で消耗しており、ジャパンカップへのローテーションは少しキツい。ジュニア期で参加資格がないナリタタイシンや、ステイヤーズステークスに出走するライスシャワーもあり得ない。
イブキマイカグラはまだリハビリ中であるし、レオダーバンは海外遠征中、シャコーグレイドに至っては、恐らく賞金額が足りていない。 候補が浮かんでは消えていく。
その答えが出たのは、ジャパンカップの出バ表が出た3日前のことだった。
ナイスネイチャの熱は発症の4日後には下がり、1週間のうちに快癒したものの、結局ジャパンカップに登録することはできなかった。一体誰が。そうモヤモヤする十数日を過ごし、ウマホで出バ表を見たナイスネイチャは、ウマホを落とした。
廊下をカツカツと心なし速く歩いてきたナイスネイチャが、勢いよく教室の扉を開ける。そして、目的の人物に向かって真っ直ぐ近づいた。
「あっ、おはよーネイチャ」
「ッ!! なんで!!」
ジャパンカップの8枠14番、恐らくナイスネイチャが入るはずだったその番号に書かれていた名前は、トウカイテイオーだった。
事前に聞かされていたトウカイテイオーの復帰時期は、ジャパンカップには間に合わないが有馬記念には間に合う、といった時期だったはずだ。1ヶ月の前倒しは流石に早すぎる。
「そんなの望んでないよ! 脚は完治してるのかもしれないけど、仕上がってもいないのに勝とうと無理してまた骨折なんかしたら……こんなんで代わってもらったって嬉しくない……っ」
「なるほど、こんな感じだったのか……」
トウカイテイオーは、彼女の肩を掴んで揺さぶるナイスネイチャの胸ぐらを掴んで顔の前まで引き寄せ、言った。
「
トウカイテイオーの一言にナイスネイチャが目を瞠る。静かな、しかし重い一言。
「
一言一言噛んで含めるように、トウカイテイオーはそうナイスネイチャへ語る。レース中でもないのに、その圧に気圧される。
かと思えば、そんな雰囲気は一瞬にして霧散し、いつものイタズラな笑顔に戻る。
「だからさっ。心配しないでよ。ボクは無敵のテイオー様だぞ?」
そもそも、トウカイテイオーを止めることなどできない。少し考えればわかる。だから、既にトウカイテイオーを止めることは諦めていて、せめて自分の感情を伝えようとしていた。
しかし、こう言われてしまえばもう、それすらもできない。
「ま、観ててよ。ちゃーんと勝ってくるからさ」
そして、ジャパンカップ当日。
ナイスネイチャの代わりに参加を表明した帝王の姿を見て、他の出走者が息を呑む。トウカイテイオーの歩みに躊躇いはなく、病み上がりとはとても思えない。
『なんだよ』
そんなトウカイテイオーの前に立ちはだかるのは、ナイスネイチャと対決を約束していたアメリカのウマ娘、シルヴァーエンディング……いや、
パーカー付きのジャージを着て前を閉めて、フードを深く被っているせいで、その全貌は判然としない。しかし、その全てに噛みつくかのような威圧とすべてを見下したような声音で、初対面のトウカイテイオーにも彼女がSSであるとはっきりわかった。
『ナイスネイチャはおやすみか? 怖くて逃げ出しちゃったとか?』
煽るようにそう話しかけるSSの口は裂けるように口角が吊り上がり、ギザギザと鋭い歯が覗いている。安い挑発だ。
反応しないトウカイテイオーになおも挑発を続けようとしたSSの声を遮るように、トウカイテイオーが声を上げる。
『何を語る必要がある?
流麗な、いっそ厭味なほどに完璧なクイーンズイングリッシュで、トウカイテイオーはそう語った。
そうして、表情が消えたSSとトウカイテイオーが睨み合う。数秒か、数分か、それが続いたとき、ふたりの真横をとんでもない
それに気づいたふたりがその圧へと視線を移すと、そこに立っていたのは見たことはある立ち姿と勝負服。
赤と青を基調に星をあしらった、古き良き魔女のようなローブを模した勝負服に身を包む鹿毛の少女。昨年醜態を演じた、フランスのウマ娘、マジックナイト。
一部の日本のウマ娘などは、彼女をじっと睨んでいる者もいる。マジックナイトはそれを甘んじて受け入れ、それでも一言だけ、拙い日本語で宣言する。
「勝ちに来た」
ただ、そう一言。
その宣戦布告を聞いたSSが、高らかに笑う。そんなSSの横をすり抜けてマジックナイトと相対したトウカイテイオーは、彼女に流暢なフランス語で返した。
『受けて立とう』
そして、マジックナイトの横も通り過ぎて、トウカイテイオーはターフへ向かう。その姿は、復帰を1ヶ月前倒ししたことによる影響を一切感じさせない。
威風堂々を体現したかのような姿に対して欠片も気圧されず、SSがそれに続く。
そして、マジックナイトが、ハシルショウグンが、イクノディクタスが、ユーザーフレンドリーが。名うての優駿たちがそれに続く。
そんな歩みの中で、ユーザーフレンドリーだけが、険しい顔でSSの背中を見つめていた。思い出すのは、彼女のトレーナー、アーサーが打ち合わせで言っていた言葉。
("シルヴァーエンディング"がシルヴァーエンディングじゃない、って……そういうことなの……?)
パドックでのお披露目でも上着を脱がなかったシルヴァーエンディングに対する不信感が、アーサーの言葉を補強する。そして、その時がやってきた。
全員がゲートに収まり、一呼吸。ゲートが開き皆がスタートを切ったその瞬間、シルヴァーエンディングが肩に羽織るだけにしていた上着をその場に置き去りにした。
会場がざわつく。上着の下から現れたのは、シルヴァーエンディングの勝負服とは似ても似つかないものだったからだ。
着用者の性格に似合わぬ、カッチリとした黒カソック。羽織るストラの色も黒で、金と紫で刺繍がされている。
腰にはホルスターに入れられたリボルバーとベルトが巻かれた聖書。手には白手袋。脚はロングブーツ。首からは聖ペトロ十字のロザリオ。
手入れのされていない青鹿毛を靡かせ、長い前髪の隙間から爛々と眼光がチラついており、狂ったような凶悪な笑みを浮かべている。
この府中に集まったファンの多くがその姿を知っている。様々な意味で有名なアメリカの大問題児二代目にして異端児。
『
引退したはずの二冠ウマ娘がそこにいた。
知 っ て た