万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
休止にはならないと思いますが、ご一読ください。
「打ち止めだな」
死刑宣告である。
復調し、有馬記念に向けての調整を始めたナイスネイチャに対して、網馬は驚くほど率直にそう言った。無論、それはナイスネイチャが出すことができる最高速度の話である。
「ここまで成長が見られないとなると、まぁ間違いなく成長限界まで辿り着いたと見ていいだろうな。成長曲線から考えるに、天井は低いがピークが長く続くタイプなのはほぼ確実だろう」
「デスヨネー」
それはナイスネイチャ自身が体感してよくわかっている。しかし、専門家から伝えられるとやはり心にクるものがあった。
自らの能力が限界に達しているのに、勝ちたい相手には届いていない。たとえ彼女の
それに、最近は彼女のいわゆるデバフが効果を発揮しにくい状況も多い。例えば警戒する相手が多くなるグランプリであったり、牽制が届かない大逃げであったりだ。
そんな状況にも対応できるような牽制を学んではいるが、これがなかなか難しい。
今年GⅠ勝ち星がないのは、デビューしたばかりのナリタタイシンを除けばナイスネイチャだけである。それでも、基本的に3位に入っているのだから実力はあるのだが。
勝利を求めるようになることができたナイスネイチャにとっては、この先行き見えない状況は非常に耐え難いものだった。
ツインターボもトウカイテイオーも、まだまだ強くなっているのだ。
「どーぉしましょうかねぇ……」
「お前人の足引っ張る作戦ばっか練習してるだろ。教本渡してあるんだから自分を有利にするタイプの策も……忘れてたんだな」
先に妨害手段を鍛えようと言うつもりで後回しにしていて、そのまま忘れていたナイスネイチャは、あからさまに「ヤッベ」という顔をして網馬から目を背けた。
例の事件後、開き直ってチームメイトの前では完全に素を出すようになった網馬だが、これが案外接しやすい塩梅だった。商店街ガールなナイスネイチャにしてみれば敬語を使う大人のほうが珍しい存在なのだ。
取り繕わなくなった網馬は深く息を吐き、呆れを全力で表現したあと、教本をパラパラとめくって付箋を貼っていき、ナイスネイチャに放った。
「中山2500mで有用そうなものをピックアップしておきましたから、確認しておいてください」
「アッ、敬語」
ニッコリと胡散臭く笑う網馬だが、ナイスネイチャには青筋が浮かんでいるように見えた。
「ヒィン」と半泣きになりながら教本の中身を頭に詰め込んでいるナイスネイチャをチームルームへ放置して、網馬はグラウンドへ行く。グラウンドでは、ライスシャワーとナリタタイシンが併走中だった。
体質改善を最優先にしてきたナリタタイシンは、今年の6月にようやく本格的な体作りに入った。それからの変化は劇的と言えるもので、うっすらと腹筋が割れてきている。
そんな彼女がチーム《ミラ》では珍しい走り込みをやっている理由は、脚質改造をするためだった。ナリタタイシンはそれまで差しをメインに戦っていたのだが、差しで走るスパート距離をナリタタイシンの出せる最高速度で走り切るには、彼女のスタミナは足りていなかった。これは、全身持久力と筋持久力という意味でもあり、エネルギーという意味でもある。スタミナ不足でもあり、栄養不足だったのだ。
現在、そのふたつはどちらも十分なラインに達しているため、差しでも問題なく走ることができるだろう。しかし、ナリタタイシンの性格はバ群に囲まれがちになる差しには向いていない。今までの模擬レースのような少人数のレースでは目立たなかっただろうが、オープンや重賞ともなればその問題が表出するだろう。
また、それ以上に網馬は、ナリタタイシンの追込の資質を高く評価していた。つまるところ、彼女の脚のキレ、加速力である。
今行っているトレーニングは、追込としての仕掛けどころを覚える作業だ。差しよりも更に遅れて仕掛け始めるため、見極めがうまくいかなければ差しきれなくなることも多い。
幸いなことにナリタタイシンは追込にとって重要な、他のウマ娘にブロックされないコース取りが巧かったため、それを養う時間をこのトレーニングにあてていた。余談だが、この瞬間的な判断力はナリタタイシンの趣味であるテレビゲームによって培われたものである。
ライスシャワーが併走相手に選ばれたのは、彼女の低く前へ進むランニングフォームが脚に負担をかけにくいことと、彼女の目下の課題が最高速度の向上であること、スタミナ面では既に完成形に近いことが挙げられる。
勿論、ランニング系のトレーニングを行ったあとは十分なマッサージとストレッチを行う。ライスシャワーが聞き出したミホノブルボンのケアはやや不足していた。それが屈腱炎に繋がったのだろう。
チーム《ミラ》、ひいては網馬の手腕として評価されているのは、その成績よりもむしろ、現状の成果を故障者を出さずに成してきたことだ。
ウマ娘の脚は消耗品。そう言われるほどに、ウマ娘は故障しやすい生き物であり、ウマ娘レースは故障しやすい競技だ。それに対してしっかりとした医療知識を持つことを示すB種免許は、司法試験や司法書士と比較されることすらある最難関資格である。
トレーナーというだけでも慢性的な人員不足に陥っているのに、それほどの人材がどれほど貴重かは想像に難くない。
網馬が門外の出身でなければ、名門と言わずとも、トレーナーを輩出した実績のあるスクールなどに通ってさえいれば、あらゆる名家が囲い込みに動いただろう。
しかし、経験とノウハウを重要視するトレーナー業界で、蓄積が完全にまっさらな状態というのは非常に判断がつきにくかった。
料理店で例えよう。他の店が長年注ぎ足し続け、何代にも渡って研究を重ねて発展させてきた秘伝のタレと同レベルのタレを、いきなり出てきた店舗が提供できると言い出した状況だ。
どの食材をどのくらい加えればどう味が変化するのか、それは結局のところ経験からしか出てこない。皆が秘匿している、秘伝しているのだから、調べて出てくることはないのだ。
それが常識で、だからこそ「様々な食材と調味料の味を調べ尽くし、計算と微調整だけで味を完成させている」などにわかには信じられないのは責められることではないだろう。
そして、そんな網馬も、決して完璧というわけではない。
「ねぇ、トレーナー。実際のとこ、アタシってどのくらい戦えそうなの。チケットと、ハヤヒデを相手にして」
トレーニング後、ナリタタイシンは意を決して網馬にそう問いかけた。網馬が良くも悪くもこういう質問で答えを濁したり贔屓目に見たりすることはないとわかっているからこそ、答えを聞くのに躊躇いはある。しかし、聞かずにはいられなかった。
網馬は自分の試算を思い出し、眉根を寄せる。逡巡し、しかしやはり、正直に話すことにした。
「皐月賞は十割勝てる。菊花賞も……八割勝てるところまで持っていくことはできるはずだ。だが……正直、こういうときに"絶対勝てない"だの"相手が悪い"だの言うのはモチベがだだ下がりするから言いたくないんだが……ハッキリ言って、ダービーは"相手が悪い"。日本ダービーのウイニングチケットには"絶対に勝てない"」
ナリタタイシンはショックよりも先に『意外』という感想が浮かんだ。ナリタタイシンの中でのイメージでは、言っては悪いがウイニングチケットよりもビワハヤヒデのほうが手強かったからだ。
そして、それは網馬の認識も同様だった。
「ここまでのレースタイムから算出したウイニングチケットの成長曲線は、比較的早熟気味に上がってきている。成長限界がはっきりとしていないから明確には言えないが、恐らく成長のピークは5月後半に来る」
「……日本ダービーの開催日も5月後半……」
「それだけじゃない。ウイニングチケットの利き脚は左で、左回りの府中に有利だ。呼吸のリズムは1700mや1800mでは乱れていたが、1600mや2000mでは整っていた。根幹距離が得意なんだろう。後方脚質は府中の長い直線で真価を発揮する。坂は得意とは言えないんだろうな。いつも中山の急坂で失速しているのを、早熟故にステータスで乗り越えている。緩やかな坂ならいいが、淀や中山は得意とは言えないだろう。そして恐らく2000mではスピードに乗り切っていないから、トップスピードを活かし切れるのは2400mから先で、スタミナ面から見ると3000mは長い」
「いや、いやいや……ちょっと待って。そんなこと、ある?」
あまりにも、整いすぎている。すべてがその一点に集中していて、それだけに特化していて、それだけに専門している。
それはまるで。
「
クラシック期の5月後半、左回りで2400mの、直線の長いコースで行われるレース。そのすべての条件を満たすレースは、日本で唯一日本ダービーしかない。
「もしも、は、レースの世界じゃ禁句なんだが……あくまで俺が思うに、だ。もしも、歴代のウマ娘の日本ダービー時点での能力で比べるのならば。ウイニングチケットよりも速く走ることはできるかもしれない。が、ウイニングチケットと同じ日本ダービーを走ったら……アイネスフウジンも、トウカイテイオーも、ナイスネイチャも、ミホノブルボンも。
ウイニングチケットには勝てない」
なにより、その信念が違う。執念が、執着が違う。
ウイニングチケットよりも速い相手と走れば、ウイニングチケットはその相手よりも速くなる。相手が誰であっても、日本ダービーでウイニングチケットは負けない。
日本ダービーを勝てれば、競技者として終わってもいい。
「だから諦めろとは言わない。だから負けても仕方ないとは言わない。だが、日本ダービーにおけるウイニングチケットを超えたいなら、
それほどか。
ナリタタイシンは自分の心音が全身に響くような感覚に陥る。しかしそれは絶望とは程遠く、今までレースで、あるいはゲームで受けてきた高揚感とはまた違う昂り。
「ついでに言えば、相手のトレーナーも厄介だな。
「……チケットは、昔っから日本ダービーに憧れて、ダービーウマ娘になりたくてトレセンに入ったって言ってた」
「ダービーに向ける情熱は並々ならないと思っていいな。柴原氏がウイニングチケットに目をつけたのも偶然じゃない。本気で日本ダービーを獲りに来てる。調整は完璧にしてくるだろう」
周囲の雰囲気が重くなる。ナリタタイシンにも、網馬にも、強いプレッシャーがかかっていた。なにより、網馬自身が珍しいことに弱気なのだ。弱気というよりも、現実をしっかりと見据えているが故の諦念と言えるかもしれない。
網馬の持ち味は、普通であれば勝てないほど能力差がある相手に対しても、能力以外の相性や技術でワンチャンスを作り出すものだ。
だからこそ、今回のウイニングチケットのような、相手のほうがあらゆる相性が噛み合っている状況に滅法弱い。
「……ま、諦めたいなら好きにすれば。アタシはそんなの知ったこっちゃないし」
だから、網馬の言う通りおそらく勝てないのだろう。ともすればKGⅥ&QESや凱旋門賞よりも高い壁なのだろう。
それでも、ナリタタイシンが立ち向かわない理由にはならない。
「でも、
ナリタタイシンは、それだけ言い捨ててその場を離れる。言い回しを迷った結果、普段言わないような直球の言い回しになって気恥ずかしかったからだ。それでもまだ素直でないの範囲内なのだから彼女も筋金入りである。
ナリタタイシンを見送る網馬はその背を見ながら、当たり前だと呟いた。たとえ十割負けるとしても、仕事を疎かにする気は毛頭ない。
網馬はウイニングチケットの弱点を洗い出すため、残業を決意するのだった。
一方、ナリタタイシン。着替え終わり、トレセン学園の廊下を歩いている。その時だ。自分を呼び止める声が聞こえた。
「あれ? もしかしてタイシン? なんか久しぶりじゃね?」
ナリタタイシンの苦手な軽薄そうな声に反射的に振り向く。
そこには、ナリタタイシンの中学生時代に2つ上の先輩だった、金髪に褐色肌の男が立っていた。