万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
ショッピングモールにある多目的トイレ。用を足すための機構は洋式の便座が一つだけあり、他にあるのは基本的に必要なトイレットペーパーやウォシュレットなどの付属品、洗面台、折りたたみ式の赤ちゃんベッドと、場合によっては手すり。
ドアはスライド式で、開閉は内外に設置された大きめのボタンを押すことで行われるため、手が使えなくても開けやすい。
つまるところ、文字通りの多目的。老若男女の境なく、健常者から障害者まで利用でき、化粧直しやおむつの取替なども行えるように設計されているのがこの多目的トイレであり、多くは病院や大型のショッピングモールなど、多数の老若男女が行き来する施設に設置されている。
ナリタタイシンは、ペットショップへ向かうウイニングチケットに気を取られて足を止めたその一瞬の隙に、多目的トイレの中から体を引っ張り込まれたのだ。
軽く突き飛ばされたナリタタイシンは体勢を崩すが、尻餅をつく前になんとか体勢を立て直す。そうして睨みつけた先には、ふたりの男が立っていた。
ふたりともマスクで顔の下半分が覆われているために人相はよくわからないが、少なくとも友好的な態度ではない。しかし、露出している目は笑みの形に歪められていた。愉悦の笑みに。
「おぅ、ひさしぶりぃ」
「おぉ〜睨んでんの? ウケる〜」
人を小馬鹿にしたような口調でナリタタイシンに話しかける男たち。ナリタタイシンは彼らの素性こそ思い当たらないが、心当たりだけはいくらでもあった。ナリタタイシンにつきまとう残響。トレセン学園入学以前に自分を嘲っていた男のうちの誰かだろう。
先日笹本からかけられた忠告が頭に浮かび、けしかけられた、とナリタタイシンは察した。
嘲笑や同情、嫌悪の類は散々経験してきたナリタタイシンだが、"アテナ"がナリタタイシンに抱いている感情はそのどれとも違っているように感じていたが、まさか顔を合わせなくなって3年以上経ってからも執着が続いているのは、ナリタタイシンも思っていなかった。
ともあれ、今は目の前の問題だ。ナリタタイシンは揶揄されながらも鋭い視線をふたりへ向け続ける。ナリタタイシンが今のような斜に構えた自己防衛的な態度を取るようになったのは中学へ進学してからで、それまではただ弱気で優しい性格だった。
眼前のふたりはどうやら小学生の頃に絡んできていた輩だったようで、当時であればこれで怯んでいただろうナリタタイシンの依然として反抗的な態度と眼光にたじろいだように見えた。
「は? タイシンのクセになにチョーシのって睨んでんの?」
「あれだろ? なんかいいチーム入って目立ってるからだろ? たいしたレース出てるわけでもないのに雑魚狩りしてイキってんだわ」
「え、なに、タイシンに負けるようなんでも中央トレセン入れんの? 俺中央入っときゃよかったなぁ〜賞金ガッポガッポじゃん」
「……言いたいことはそれだけ? 大した用もないならもう行きたいんだけど」
男たちの表情と声色からは嘲りの色が察せられる。ナリタタイシンにはその発言がレースへの無知から来るものなのか、あるいはナリタタイシンへの挑発のために無知を装っているだけなのかを判別することはできない。
しかし、そのどちらにしろナリタタイシンの感情を逆撫でするという目的は共通している。どんな反応を示そうが、ナリタタイシンにとっては損にしかならない。ナリタタイシンはふたりの煽りに対して無感動を貫いた。
「てかタイシンをスカウトするとかトレーナー節穴かよ。なに? 金積んでスカウトしてもらったん?」
「枕じゃね?」
「こいつの貧相な体で枕営業はムリでしょ! 小学生抱いたほうがマシ!」
下世話な話になってきた辺りで、ナリタタイシンにはもはや呆れのほうが強くなってきた。何も考えていない馬鹿のボキャブラリーなど所詮こんなものだ。
誇れるようなことではないが、ナリタタイシンは同年代の女子高校生としては比較的インターネットに親しんでいる。そこには、人を煽り、貶し、嘲ることに悦楽を見出し人生の浪費としか言えないほどに時間と労力を注ぎ込んでいるような、人として進退窮まったどうしようもなく救えない人種が跋扈しているのだ。
当然こちらもピンキリではあるが、眼の前にいるふたりは明らかに"キリ"に分類される稚拙な相手であり、ナリタタイシンにとってはもはや、偶然日本語に聞こえるだけの雑音のようなものであった。
ナリタタイシンの心情の変化に気づいたのか、男ふたりはマスク越しにもわかるほど露骨に表情を歪ませた。
「なーにすました顔してんのぉ?」
「効いてないふりしても苛ついてんの見てわかるから! カッコつけなくていいよ?」
実際はナリタタイシンから苛つきは一切見て取れず、むしろ男たちの声からのほうが明確な苛つきを感じ取れる。
そんな男たちの必死な様子に、ナリタタイシンは思わず鼻で笑った。わざとらしく声を出して笑うような見せつける笑い方ではなく、本当にバカらしいから思わず笑ってしまったとしか解釈できないほど自然な嘲笑だった。
人が悪口を言うとき、無意識に自分が言われたくない言葉を使っているという俗説をご存知だろうか。その例に違わず、ナリタタイシンへ執拗に挑発を行っていた彼らの『嘲笑』という行為をナリタタイシンが図らずも跳ね返した結果、それは男たちの薄っぺらな逆鱗に触れた。
「ッッ!!!」
「……もういいや、やることやってさっさと行こうぜ」
怒鳴りつけそうになった片割れをもうひとりが抑え、落ち着いたところで何かを取り出してナリタタイシンに近づく。
取り出したのはタバコだった。男たちはそれぞれタバコを咥えると点火して吸い始める。ナリタタイシンからは見えていないが、光センサーによる煙探知式の火災報知器にはプラスチックのボウルが被さった状態で固定してあり、作動しないようにされている。当然、男たちの細工である。
断っておくがこのふたりは未成年である。あまりに堂々とした未成年喫煙にナリタタイシンが顔を顰めた。
しばらくタバコをふかしていたふたりだったが、片方が唐突にナリタタイシンの頭、というよりも髪を掴んで引き寄せ、その顔に口に含んでいた煙を吹きかけた。
幸運だったのはその直前に大きく息を吸い込めたことだろうか。咄嗟に呼吸をとめたナリタタイシンは煙の不快感と頭皮に走る痛みこそあれ、煙を吸ってしまうことはなかった。
そして男に髪の毛を掴まれているという状況とはいえ相手は人間。ウマ娘であるナリタタイシンが本気で抵抗すればこの程度の拘束は抜け出せるだろう。
「暴れるなよ? ウマ娘様がヒトミミ相手に暴力なんか振るったらヤバいんだろ?」
抵抗できれば、だが。
ウマ娘の持つ膂力は成人男性はおろか、人間の限界を遥かに超越している。それ故に問題となっているのがウマ娘による『過剰防衛』だった。
法が定められる前から頻発していた、ウマ娘が襲われた際に抵抗したことで襲撃者を殺害してしまったという事案。
人間がウマ娘に勝てるわけがないというのは一般常識でありながら、華やかで見目麗しいウマ娘のビジュアルはその認識の現実味をなくし、死の恐怖という歯止めを消し去る。その結果、数多の犠牲から学習せず、安易にウマ娘を襲撃する事案は未だに多い。
いや、むしろウマ娘による暴力が過剰防衛として扱われやすくなったことでウマ娘がそれを恐れ抵抗しないという判例が割合を増したせいで増えてさえいる。
勘違いしてはいけないのは、悪人はウマ娘側にも存在するということだ。この法令が定められる前は、男性を殺傷したウマ娘が罪から逃れるために正当防衛を主張することも多かった。
人間が空手やボクシングの実力者であるというだけで過剰防衛に抵触しやすくなるのだから、人外の膂力を持つウマ娘もそれに類するという判断は至極自然なものであることは確かであるのと同時に、ウマ娘への差別問題としても取り上げられている。
どちらが間違っているということもないのだろう。種が違う以上、その間に摩擦が生まれないというほうが不自然であり、これはその一例に過ぎない。
そして、その歪みは今容赦なくナリタタイシンを襲っていた。つまるところ、皐月賞を目前に控えているナリタタイシンは万が一にも過剰防衛として出走停止処分が課されることを恐れ、抵抗を躊躇うだろう、と。少なくとも男たちはそう考えていたのだ。
ウマ娘には毒耐性があると言っても、それはあらゆる毒が効かないということではない。肝臓の強さ故にアルコールで酩酊状態にはなっても二日酔いにはなりにくい反面、麻酔は普通に効いたりする。タバコに含まれる有害物質のいくつかもウマ娘に牙を剥く。
即効性こそないものの、タバコの煙は肺へダメージを与える。一般人ならこの場で吸った程度なら不快感だけで済むかもしれないがアスリート、特にウマ娘には致命的なダメージになる。
もっとも、この程度の事態を予想できていないわけがないのだが。
ナリタタイシンは上着のポケットから何かを取り出すと、自分の髪を掴んでいる男に突きつける。男がそれがなんなのか認識しようと顔を上げた瞬間、手に持ったそれ――小さなスプレーのノズルから、細かくなった液体が噴射された。
「ウアァッ!?」
情けない悲鳴をあげ、男は液体がかかった目の周りを手で押さえる。当然、タバコを持っていない方の、つまりナリタタイシンを掴んでいた方の手で。
枷が外れたナリタタイシンはヒラリと男を躱し出口へと迫る。もうひとりの男がそれを阻止しようと動き出すが、不意打ちならばともかく
多目的トイレの仕様上押しやすく作られたドアの開閉ボタンがナリタタイシンの手によって押され、扉が開かれる。その先に立っていた人物が、懐から取り出した手帳を見せながら宣言した。
「警察です。通報を受けてきました」