万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
「運動性前篩骨動脈領域鼻出血……職業病ってやつだな」
季節の変わり目、つい先日まで残暑だったのが、吹き込んできた寒気のせいで一時的に気温が下がっていたのが原因と網馬は診断した。
「ゔぇ……キーゼルバッハ部位からじゃなくてですか……?」
「なんだ、勉強したのかナイスネイチャ」
「え、あ、ま、まぁ……そうね……チョットだけ……?」
キーゼルバッハ部位――鼻に指を挿入して触れられる程度の範囲。言ってしまえば、鼻への刺激で出血するのは8割以上ここからである。
前篩骨動脈領域はその奥、喉までは行かないが指では届かない中程にある部位で、人間の場合はおいそれと鼻血が出たりはしない。
しかし、血圧が高くなりやすく、特に頭に血が上りやすい競走ウマ娘などは、ここからの鼻出血が起こるケースが比較的高い。
キーゼルバッハ部位からの鼻出血と前篩骨動脈領域からの鼻出血との差は、主にその出血量にある。簡単に言ってしまえば、キーゼルバッハ部位の鼻出血が主に毛細血管からの出血なのに対し、前篩骨動脈領域の場合は比較的太い血管が走っているのだ。
だから、後者のほうが出血量が多くなりやすく、また、一度出血すると止まりにくい。網馬はナリタタイシンの鼻に綿球を詰め、チューブとボトルの付いたマスクを着けさせると、口に回ってきた血をそこへ吐くように指示した。
「ナイスネイチャ。この番号に電話かけて後鼻出血の鼻粘膜焼灼術で予約入れてくれ。マーベラスサンデーはナリタタイシン抱えてついてこい」
「いい……自分で歩ける」
「トレーナー、アタシはどうすんの?」
「あー……ナイスネイチャと一緒に待機、トレーニングはするなよ、休憩にしとけ。マーベラスサンデーは念のためついてこい」
ナイスネイチャとビコーペガサスを残して、網馬たちは駐車場で車に乗り込み病院へと向かう。
鼻粘膜焼灼術とは、電気メスなどを使って出血部位を焼き固める手術のことだ。部分麻酔を使って行われ、痛みもなく日帰りできる施術だが、出血量が多い場合貧血対策に輸血が必要になることもあり、その場合は入院が必要になる。
ナリタタイシンは小柄な分、血液の総量が少ないが、今回は早期に発見できたため総合的にはそれほど出血量が多いとは言えないだろう。
「外傷性でない鼻出血の場合、1ヶ月の出走停止命令が出される。京都新聞杯にはギリギリ出られないな……」
「……菊花賞は出るから」
マスク越しに少しくぐもったナリタタイシンの声は、しかし確かに網馬の耳に届く。その瞳にはなにがなんでも出走してやるというギラついた光が宿っていた。
「なら、しばらくは安静にしとけ。再発したら次は2ヶ月出走停止で確実に出られなくなるぞ」
「……止めないの?」
「止めてほしいのか?」
定番の返しではあるが、実際にそう聞かれると言葉に詰まる。そんな様子のナリタタイシンを見て、網馬は続けた。
「しばらくは有酸素運動を控えて、無酸素運動で体が鈍らないようにだけしておけ」
「うん……ありがと」
「これが俺の仕事だ」
ふたりのやり取りを見たマーベラスサンデーが、小声で「マーベラス☆」と呟いた。
☆★☆
9月末、神戸新聞杯。菊花賞トライアルであり、優先出走権を懸けた戦いだ。
先頭を行くのは水色の刺繍が縫い付けられた赤いトガ*1をアレンジしたような勝負服を着たウマ娘、ネーハイシーザー。先行よりの脚質だが、このレースでは終始先頭でレースを引っ張っている。
その後方、ピッタリとつけてきているのは芦毛の長毛種、ビワハヤヒデ。序盤から先団を維持し、予定通りに事を運んだことで"
しかしネーハイシーザーも粘る。ドロップアウトグループ《C-Ma》で鍛えられた反骨精神はこの程度で折れはしない。
「パイセーン!! チョーがんばれええええええええ!!」
「BNWがなんぼのもんじゃあああああああああああい!!」
「負けたら焼肉奢ってもらうよなぁあ!?」
「スターさん、それ普通逆では?」
ネーハイシーザーを応援しているのは同じく《C-Ma》に属していた今年度デビュー予定のウマ娘たち。特に"スター"と"パラさん"はデビューを2週間以内に控えたなかでの応援だ。
彼女たち《C-Ma》は中央トレセン学園の生徒の中でも、家庭の事情や学力、トラブルなどで健全な学園生活のサイクルから弾き出され復帰が難しくなっていた者たちが所属している、シリウスシンボリが指揮する非公式トレーニンググループだ。当然、エリート中のエリートである《リギル》、そこに所属するビワハヤヒデに対して、複雑な感情が入り混じった反抗心を抱いている。
特にクラシック路線へと進む"スター"と"アイヤー*2"はビワハヤヒデの妹であるナリタブライアンとまともにぶつかり合うことになるため、姉であるビワハヤヒデに対してもバチバチに火花を飛ばしていた。いや、"スター"はよくわからんけど。
それはネーハイシーザー自身も例外ではない。後ろからかかる圧力を推進力に変え、残る仁川の坂を越えようと加速する。
しかし、直線に入った直後にビワハヤヒデがネーハイシーザーに外から並びかけ、並ぶ間もなく躱し、突き離す。今度はネーハイシーザーがそれを追いかける番になるが、差は縮まらず開くのみ。
1と1/4バ身が開いたとき、ビワハヤヒデがゴール板を踏み抜いた。1着はビワハヤヒデ。2着に入ったネーハイシーザーも菊花賞への切符は手に入れることができたが、勝利を目の前にしての悔しい敗戦となった。
「パイセン、チョーお疲れ様ー」
「いやー、かなり惜しかったっすね!」
「まぁ本番の菊花賞は来月だ。それまでに調整し直して今度は勝ってやるさ」
「焼肉は叙○苑がいいと思うんだよなぁ!!」
「スター、シャラップ!」
はしゃぎ回る後輩たちに囲まれて苦笑いを浮かべながらも、その目は今もまだビワハヤヒデを眺めながら獰猛に光っている。
そしてもうひとつビワハヤヒデを見る視線。《C-Ma》のかしまし娘たちを監督するためについてきた彼女たちのリーダー、シリウスシンボリは、ビワハヤヒデの走りを見て冷や汗を垂らした。
ビワハヤヒデに、かつての『"絶対"なる皇帝』が重なって見えたからだ。
「……何が『凡人の姉と天才の妹』だよ……姉のほうが余程バケモンじゃねえか……」
☆★☆
来たる10月末。天皇賞。ナイスネイチャが出走するレースである。
もしもメタ発言が許容されていたら、ナイスネイチャ辺りが「今絶対菊花賞行く話の流れじゃなかった!?」などとツッコんでいたかもしれないが、この小説は真面目な作風なので地の文以外でそのような展開は差し控える。
アメリカへの合宿で一皮剥けた……かどうかはわからないが、間違いなく成長したと自負しているナイスネイチャ。そんな彼女の仮想敵は、今まであまり関わってこなかった晩成の同期。
『"絶対"なる皇帝』シンボリルドルフの愛弟子であるトウカイテイオーと並び、その時代に皇帝と呼ばれた『マイルの皇帝』ニホンピロウイナーの愛弟子、ヤマニンゼファー。
安田記念を勝利し、スプリンターズステークスでも2着を取った彼女が天皇賞に出走する。1200mから2000mへの距離延長だ。
何よりナイスネイチャが警戒していたのは、ヤマニンゼファーの精神性。そよ風のごときそのメンタルは、威圧が効きにくい。宝塚記念で使った《威圧ネットワーク》の効きが弱い相手だからだ。
(とはいえ、策はあれだけじゃない。ターボのBCターフとタイシン先輩の菊花賞……その前座だなんて言わせないから……!!)
天皇賞が来る。