万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい   作:仙託びゟ

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愛成風神

 5月5週、東京レース場、日本ダービー開催。

 

 泣いても笑っても生でただ一度しか挑戦できない最も誉れ高き舞台。

 ダービーウマ娘になるのは一国の宰相になるよりも難しいと言ったウマ娘がいた。

 大外でいい、他のウマ娘の邪魔もさせない、ただ彼女がどこまで行けるのかが見たいと懇願したトレーナーがいた。

 教え子がダービーウマ娘になるなら指導者を辞めてもいいと言った教官がいた。

 そして出走が叶うのは、数百から数千のクラシック級ウマ娘からわずかに18人*1。出走の権利を得ることすらもあまりに狭い門なのだ。

 

 今、地下バ道で一堂に会した18人の優駿。各々が最後の調整や、トレーナーとの会話を行っている。

 その中に、アイネスフウジンはいた。突き刺さる視線にただのマイラーと侮るものはない。その侮りひとつが勝敗さえ分けることを彼女たちは知っている。

 ダービーを逃げで勝つのは難しい。2400mという距離設定はURAの基準でこそ中距離とされているが、より正確とされるsmile区分では有記念などと同じ長距離(long)なのだ。

 それに加え、垂れた逃げを躱しやすい最終直線は長く、スタミナを注ぎ込んできた逃げにトドメを刺す緩い上り坂が続く。この東京レース場は、圧倒的に後方脚質が有利なのだ。

 

 しかし、アイネスフウジンには破滅的とも言えるハイペースで逃げ切ることができるだけのスタミナがある。

 ハイペースではない普通の逃げで来ると考えている者がおよそ半分、今まで通りのハイペースで通してくると考える者がもう半分。そのどちらも、真剣にアイネスフウジンを警戒していた。

 

 そのアイネスフウジンが地下バ道に視線を巡らせると、ふたりのウマ娘と目があった。言わずもがな、メジロライアンとハクタイセイだ。

 3人は互いの存在に気づきながら、しかし言葉は交わさない。このレース前、告げる必要のある言葉を持っていなかったからだ。

 謝罪なんてものはすべて終わってからでいい。絶対に勝つという宣戦布告もいらない、ここに立っている以上、勝つつもりで走るのは当然のことなのだから。

 ただ、メジロライアンが調子を取り戻している。その事実がわかっていればそれでいい。アイネスフウジンとハクタイセイにとっては、それで十分だった。

 

「トレーナー。それじゃ、勝ってくるの」

 

 網に告げてターフへ足を向けるアイネスフウジンに続き、次々と選手がコースへと旅立っていく。

 

『やって参りました優駿の舞台、日本ダービー、 今年はどんなドラマが待ち受けているのでしょうか。 天候は晴れで良バ場、フルゲートでの出走になります。

 3番人気は3枠6番メジロライアン、前走皐月賞では2着に破れましたがその前のトライアル弥生賞では1着。GⅠ勝利こそないものの期待が持てる娘です。メジロ家悲願のダービー制覇となるでしょうか。

 2番人気は8枠15番ハクタイセイ、皐月賞ウマ娘です。ホープフルステークスも制覇しGⅠ2勝をあげており、師の名から「白いハイセイコー」と呼ばれている実力者です。

 そして1番人気、4枠8番アイネスフウジン、前走NHKマイルカップを制覇し僅か中2週での出走、朝日杯も制覇しておりGⅠ2勝です。今まで1600mより長いレースは走っておらず2400mは初挑戦、逃げで勝つのは難しいと言われるダービーを得意の逃げで駆け抜けられるか。

 ゲート入り完了、間もなく発走となります』

 

 実況による場繋ぎが終わり、ウマ娘たちは全員ゲートに収まった。心臓と耳鳴りがうるさいほどの静寂。アイネスフウジンが感じ取っているその場の空気の緊張は、同じGⅠでも朝日杯のそれとは比べ物にならない。

 緊張と集中が、途切れるか否か、その境界を踏み越えんとする者が現れるギリギリで、ゲートが開いた。

 

 ゲートが開くと同時に、アイネスフウジンが勢いよく飛び出していく。間違いなく普段通りのハイペースでの逃げに他の出走者たちの警戒が強くなる。

 単騎逃げは強い。競り合う必要がないからスタミナの消費は減り、完全に自分のペースで走れるからストレスが減る。

 だからと言ってアイネスフウジンに襲いかかる影はない。アイネスフウジンのペースについていったら間違いなく潰れるからだ。追走ならともかく、ハナ争いをするのは自殺行為に等しい。

 観客などからは勘違いされがちだが、アイネスフウジンのそれは大逃げではなくあくまでハイペースな逃げだ。つまり二の脚が存在する。

 

 カムイフジがアイネスフウジンを追走し、先行勢がそれに続く。朝日杯にも出走していた面々はアイネスフウジンに食らいついて行く者が多く、それ以外の先行勢は中団に構え、そこから差しと追い込みが続く。

 向正面、隊列は縦長、ハイペースにも拘わらず前残りしやすい逃げ有利の展開だ。アイネスフウジンは展開を維持するためカムイフジを引き離しにかかる。

 

 アイネスフウジンが豊富なスタミナを惜しみなく使いレースを翻弄する一方、そのスタミナの多さが逆にアイネスフウジンの不利に働いてもいた。

 

(今のアイネス殿についていったら間違いなく潰れる……焦るな……今は脚を溜めて、第3コーナー(3角)から早仕掛けして、差し切る!!)

 

 アイネスフウジンのスタミナが今よりも少なければ、もっとギリギリの勝負になっていれば、ハクタイセイはアイネスフウジンに追走していただろう。そうなれば、彼女のスタミナはまず間違いなく保たなかった。

 しかし、それでは勝ち筋を自ら捨てることになることに気づいたハクタイセイは、いつものように中団、好位追走を選択した。

 

(アイネスのスタミナは絶対足りる……第3コーナー辺りから仕掛け始めないと間に合わない!!)

 

 後方10番手を進むメジロライアンも、アイネスフウジンの様子がギリギリであれば、同じくギリギリまで脚を溜めていただろう。

 しかし、メジロライアンは多少スタミナを注ぎ込んででも早めに仕掛け始めることを選んだ。

 結果的に、ふたりはアイネスフウジンを射程範囲に収めることに成功した。

 

 先頭のアイネスフウジンと追走していた番手*2のカムイフジとの距離が1バ身ほどまで縮んだ状態で、アイネスフウジンが第3コーナーに突入する。

 カムイフジが失速し始め、他の先行集団もヨレ始める。アイネスフウジンは滂沱のように汗を流しているが脚色(あしいろ)に衰えは見えない。

 アイネスフウジンが最終コーナーを回りながらスパートをかけ始めるその直前、第3コーナーへ突入したハクタイセイとメジロライアンが仕掛けた。

 

 最終直線、アイネスフウジンと番手との距離は4バ身ほど。残り500m余り、アイネスフウジンは更に脚に力を籠める。

 垂れてきた先行勢を横目に、ハクタイセイが遅れて外から最終直線へ入る。眼前にあるアイネスフウジンの背中は失速どころかジリジリと離れている。

 

 だが、条件は整った。

 

(来たっ!! "領域(ゾーン)"!!)

 

 最終直線、先頭のアイネスフウジンを追走するハクタイセイを中心に風景が塗り替わる。星なき夜闇と一面の猛吹雪。

 "領域(ゾーン)"、超集中状態に入ることで一時的に身体能力が跳ね上がる現象。

 原理は解明されておらず、心象風景のような幻覚を見ることもあるため脳内麻薬の大量分泌によるリミッター解除と言う説があったり、その幻覚が周囲のウマ娘に伝播することからウマソウルとの関連性が疑われている。

 先の皐月賞でその入り口に踏み入ったハクタイセイは、ハイセイコーによる指導の元"領域(ゾーン)"を習得するに至っていた。

 

(ハクタイセイが"領域(ゾーン)"に! くそっ、動けあたしの脚!!)

 

(脚が重い……これが"領域(ゾーン)"……!)

 

 メジロライアンはもちろん、アイネスフウジンもそれについて知っていた。吹き荒れる冷嵐を前に失速を始めるアイネスフウジンの背後から、白刃と化したハクタイセイが迫る。

 

(くそっ! くそっ! 覚悟を決めても結局あたしは届かないの!? なんのためにここまで鍛え上げたんだ!! この程度で音を上げるなよ!! あたしの筋肉っ!!)

 

 領域の中をメジロライアンが押し進む。最早メジロライアンもバ群からは抜け出し、追うふたりの背中は少しずつ近づいてはいる。

 ターフが弾けるような力強い一歩一歩が、爆発のようにメジロライアンの体を押し上げる。アイネスフウジンの背をハクタイセイが捉え、そしてその背にメジロライアンの手が届くその寸前。

 

 風向きが、変わった。

 

 

 

「日本ダービー、恐らく誰かしら"領域(ゾーン)"に入る」

 

「"領域(ゾーン)"?」

 

「今は詳しく覚える必要はねぇ。簡単に言えばリミッター解除状態だ。大抵は絶好調のときにきっかけを掴むんだが、ハクタイセイかメジロライアンはもうそのきっかけを掴んでると思っていい。他にも誰かいるかもしれない」

 

「……どうにかできるの?」

 

「精神的なスイッチである以上、なんのキッカケもなしに"領域(ゾーン)"に入るのは難しい。ゲームみたいに言えば大抵は発動条件があるからそれを防げばいいんだが……できれば苦労はしない。だからだ」

 

 日本ダービー直前、体が軽いとはしゃぐアイネスフウジンに、網が告げる。

 

「ここ一ヶ月で、日本ダービーに合わせてコンディションが最高潮になるように調整してきた。アイネスフウジン、"領域"に入ってこい(・・・・・・・・)

 

 

 

 銀色に可視化した空気の奔流、つまりは、風。

 冷気も、吹雪も、何もかも飲み込んで後ろへと流していく向かい風を纏う少女は、裏腹に追い風に背を押されるかのように軽やかに加速していく。

 再び突き放される距離。一拍遅れて、ハクタイセイは夜闇を切り裂き追走する。

 

 暴風、突風、疾風。風とは、速さの象徴である。風とは、自由の象徴である。

 ほんの一瞬だけ、ハクタイセイがアイネスフウジンに並び、そしてまた突き放される。

 その横を抜け、代わりにアイネスフウジンに肉薄し始めるのはメジロライアン。

 残り100m、呼吸が止まる。鍛え上げた筋肉で行われる無酸素での疾駆。人間で言う短距離走の走り。あと少し、残り1バ身の距離まで詰め寄り。

 

 詰め寄り。

 

 詰め寄り。

 

 近づかない。縮まらない。

 むしろ、離されていく。

 否、離される時間さえ、最早ない。

 

 連続してゴール板が踏み鳴らされる。ゴールした者から順に失速していき、息も絶え絶えにその場に崩れ落ちていく。

 喉を鳴らしながら息を吸う者、何度も咳き込みながら横隔膜を落ち着かせようと必死になる者、何度拭っても溢れ出る汗で瞼さえ開けられない者。

 それぞれがすべてを出しきった戦いの中で、たったひとりの勝者は拳を挙げた。

 

『ゴール!! ゴール!! 1着はアイネス! アイネスフウジン!! 2着メジロライアン!! 3着はホワ――』

 

「……あたしの……勝ち……っ!!」

 

 横たわっていた彼女が戦友の姿を探すため身を起こすと、爆発したかのような歓声が巻き上がる。

 思わず身を竦めたアイネスフウジンに降り注ぐのは、魂を震わせるような走りを見せた勝者へ贈られる賛辞。

 

「アイネスー!! 良かったぞー!!」

「アイネスフウジンー!!」

「かっこよかったよー!! フーちゃーーん!!」

 

 バラバラに聞こえていた声援はやがて名を呼ぶだけのものに揃っていき、20万の声がただ彼女の名を呼び続ける。

 予想だにしない出来事にアイネスフウジンが呆然とする。意外なことかもしれないが、URAが創設されて以来、会場中の観客が自然と勝者の名を叫ぶことなど初めてだったのだ。

 ボーッと浴びせられる自分の名を聞いていたアイネスフウジンに、一足先にある程度回復したハクタイセイとメジロライアンが手を差し伸べる。

 それに掴まってよろよろと立ち上がったアイネスフウジンは、状況を飲み込んで、再び拳を突き上げた。

 

 再度、山鳴りのような歓声。

 これからのURAのレースすべてに影響を与える文化の始まりたるその日本ダービーは、こうして幕を閉じた。

*1
当時は史実だと頭数制限はなかったが、当作品では出走人数制限は現代に準拠する。

*2
ばんて。逃げ馬を追走する前から2番目の馬のこと。


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