万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
ゲートから走り出した優駿たちが目にしたのは、赤と青の背中だった。
当たり前のようにハナを切るツインターボとマルゼンスキー。立ち上がりはツインターボのほうがやや前を取っていたが、マルゼンスキーがすぐに内側へ詰めながら迫ってくる。
8枠24番という大外を超えた大外からの発走は、逃げウマ娘にとって大きすぎるハンデだ。
逃げウマ娘はスタミナのロスを最小限に抑えるため、できる限り内を走ることが求められる。コーナーではひとつ外側のレーンを走るだけで約6バ身のロスが生まれると言われているのだから、当然コーナーまでの直線で内へ移動しなければ多大なロスを受けることになる。
しかし、直線で斜行にならない程度に内へ移動するのもそれはそれでロスになる。そして大抵の場合、そうして確保できる位置は内枠になったウマ娘より外側のレーンか後ろかだ。外枠、大外枠はそれほどに不利を被るのだ。
しかし、そんなことはマルゼンスキーには関係ない。誰もが注目するだろう本当に最小限のロスで、マルゼンスキーはツインターボへと競り合って行く。
大逃げの強者同士のぶつかり合いに会場が沸く中、ほんの数人だけがその光景に目を瞠る。特に顕著に動揺を表したのはマルゼンスキーのトレーナー、御渡だった。
「マルゼンスキーが……競り合った……?」
それは、無意識にツインターボを低く見積もっていたから、マルゼンスキーと競り合っていることに驚いて……ではない。
何度も言うが、マルゼンスキーは正確には大逃げどころか逃げウマ娘でさえない。彼女のランニングフォームが完璧過ぎるがゆえに、ただ走っているだけで後続に大差をつけてしまう結果大逃げに見えるだけだ。
普通の逃げウマ娘と違って、わざわざ破滅的ペースで逃げ続けるツインターボに追随し、競り合ってハナを奪わなければ自らのペースが崩れるわけではない。言ってしまえば、先行策に徹して脚を溜めたほうが勝率は遥かに高いと言える。
しかしこのレースで、マルゼンスキーは初めて
(あぁ、そう……納得ね)
気ままに空を飛ぶツバメではなく。
獲物を狩る鷹のように。
(
レースで走ることではなく、レースで戦うことを選んだ。
最初からトップに入るギア。規格外のエンジンが唸りを上げ、逃亡者を後ろから追い立てる。着実に縮まっていくふたりの距離。
しかし、忘れてはならない。スーパーカーのエンジンは規格が違うというのならば、
「――ターボの
爆発したかのようにさらにもう一段階加速して、ツインターボはマルゼンスキーを突き離す。たとえ普通車のエンジンと比べ規格外でも、スーパーカーの規格に収まった走りでは、エンジンが単体で持ちうる限界を超えて走るターボには敵わない。
府中2400mという長い道のりを走り切るために必要な貴重なスタミナを惜しげもなく注ぎ込んで、ツインターボは数千万倍の出力で己の『これしかない』を振りかざし、マルゼンスキーを退けた。
ツインターボが危うくハナを取られそうになる、あるいはマルゼンスキーがハナを奪われたという衝撃的な展開に、古参新参区別なく観客が感嘆の叫びを上げる。
無敵のスーパーカーが、序盤の小競り合いとはいえ押し負けるとは、かつてその鮮やかで艶やかな強さに魅せられた者たちは見たくなかっただろう。しかし、同時に見たかったのだ。マルゼンスキーが、誰かと対等に戦う姿を。
そして、それを最も待ち望んでいた者は――
ツインターボがハナを保ち、マルゼンスキーとふたり最初のコーナーへ突っ込んでいくのを、後方で脚を溜めながらシリウスシンボリは見ていた。
マルゼンスキーは疾い。自分の走りに最適なフォームを無意識に使いこなし、一歩一歩に一切の無駄なくコーナーを曲がっていく。それに比べれば、ツインターボのランニングフォームはなんて無駄が多いことだろう。
しかし、走りそのものではマルゼンスキーのほうが巧くとも、コーナー全体を見ればツインターボのほうが巧い。
疾いが故に速度を調節し、統一規格の積み木を積み上げるかのように走るマルゼンスキーだが、そこには最適化されたがゆえの隙間がある。
一方、ツインターボは乱雑に切り分けられた木片を、試行錯誤して組み合わせ、一分の隙もないコーナリングを辿っていく。差は埋まらない。
シリウスシンボリはしかし、そんなふたりの走りよりも、表情に目を奪われた。シリウスシンボリだけではない。多くの観客が、そして御渡トレーナーが。
悔しげに眉を
御渡の頬を涙が伝う。それは彼がマルゼンスキーに出会ったあの日、マルゼンスキーが求めなかったものだ。
多くのトレーナーがそれを与えると言い募り、しかしマルゼンスキーは求めなかった。ただ楽しく走ることを求め、そこへ他者が介在することを不要とした。
あたかも、無意識に心の底で、そんなことは、他者と競い合うことはできないと知り、遠ざけているかのように。
だから、マルゼンスキーがはじめから求めず、御渡が
同格の相手と競い合う舞台、マルゼンスキーから奪われていたクラシックの舞台が、今、目の前にある。
(……ったく、なんて顔しやがる)
一方のシリウスシンボリはシニカルに笑う。幸いにも彼女は好敵手に恵まれていた。覇を競い合った『踊る勇者』をはじめとする海外の猛者たち。クラシックではすれ違ったが常に意識しあっていた『最強の戦士の愛弟子』。そして、『"絶対"なる皇帝』。
そんな彼女でも、今のマルゼンスキーの表情を見ていれば羨望の感情が湧き上がってくるのだから、
幼馴染がどんな表情をしているのか想像し、シリウスシンボリは喉の奥で笑った。
ウマ娘の誰もが今のマルゼンスキーを羨み嫉妬する中で、その矛先が異なる者たちもいた。
ヒシスピード、ハードバージ、ラッキールーラ、プレストウコウ。マルゼンスキーの同期であった彼女たちが嫉みを向ける先は、ツインターボだ。
対等なライバルとしてマルゼンスキーと競う。彼女たちが何よりも、あるいはクラシックの冠よりも強く欲し、求めたもの。何故、あそこにいるのが自分じゃない。マグマのようにドロドロと煮え滾る感情を燃料にして、脚を進める。
先頭ふたりとバ群とは、もはや深い谷の両岸ほども離れているように思えるほど隔絶している。しかし、ツインターボに2400mは長い。有馬記念で見せた"
そして、マルゼンスキーの本領はマイルだ。やはり2400mを大逃げするのは長い。多くのウマ娘はそう判断し。あるいは、「足りるかもしれない」と思いつつも末脚勝負に賭ける他に選択肢がないために、ふたりを追わず脚を溜める。
しかし、向正面。そんなバ群から飛び出す影があった。
『こ、これは! ヒシスピードだ! ヒシスピードがバ群から抜け出て……掛かったのか!? いや、違う、
(うるせぇ! こっちはとっくに狂ってんだよ!!)
マルゼンスキーに勝てないことなんて自分が一番わかってる。そこにある差が、奇跡なんてちゃちな
ヒシスピードが追いつく。向正面半ば、ツインターボの隙を虎視眈々と狙っていたマルゼンスキーに追いつく。
ゴールまでまだ半分以上残っている。このまま走り続けて保つはずがないことは素人でもわかる。それでも、ヒシスピードの脚は弛まない。弛めない。弛められない。弛めて、たまるか。
(アタシだ!! アタシなんだ!! "
競り合う。少しでも触れれば崩れそうなほど不安定な走りのまま、完璧なフォームで走るマルゼンスキーに。
競り合う。酸欠寸前で青い顔に引き攣った笑みを浮かべてマルゼンスキーを睨みながら。
競り合う。この一瞬、一秒、マルゼンスキーに自分以外を見せるかと言わんばかりに、競り合う。
他の誰でもない、自分自身に胸を張るために。
論ずるまでもなく、そんな時間は長く続くものではない。クラシックレースへの出走経験があるとはいえ彼女の適性はスプリントからマイルであり、そんな彼女が後先考えず全力で走り続ければどうなるかは火を見るよりも明らかだ。
第3コーナーに辿り着く前にズルズルと垂れていくヒシスピード。勝ちの目はもはや絶無であり、ドリームシリーズでは前代未聞のタイムアウトさえありうる。
しかし、疲労が色濃く映ったその表情は、どこか晴れやかなものだった。
勝ちを捨てたその行動を責める者は、少なくともこの会場まで足を運んだ
先頭ふたりが第3コーナーに突入する。そこでさらにツインターボとマルゼンスキーとの差が開く。ツインターボにとってはここが最後のリードチャンスだ。
ツインターボの今のスタミナと"
しかしそれを言うならば、マルゼンスキーが行う大逃げは究極形だ。
ツインターボが最終コーナーへ入る。減速しない。垂れない。
マルゼンスキーが最終コーナーへ入る。――加速する。加速する。差が、詰まる。
ツインターボに追い縋り、大逃げとほとんど変わらないスピードで走っておきながら、マルゼンスキーのギアは今やっとフルスロットルに入った。
存在しないテールランプが光跡を描き、浮かび上がった夜のハイウェイを疾走する。エンジンの違い、時代の違い、格の違い。スーパーカーの異名を決定づけたマルゼンスキーの"
しかしツインターボ以外に対して圧倒的なリードをつけたマルゼンスキーの遠くなるテールランプを見ながら、後続のウマ娘は誰ひとりとして絶望していない。
自分たちは数合わせじゃない。噛ませ犬じゃない。感動を作るための材料として消費されてたまるか、と。奇しくもかつてマルゼンスキーが抱いたのと同じ反骨精神を以てスパートをかける。
『開拓の一等星』が起死回生を賭けて道を切り拓けば、『妖精女王』が
全盛期を現役半ばに終えた『桜の忠臣』も、一度競走能力を失いながらも夢の舞台に復帰した『光の
そのどれもがトゥインクルシリーズの一世を風靡した英傑たち。夢路の果てに輝く綺羅星の欠片。
そのなかで、真っ先にマルゼンスキーまで到達し競りかけたのは、同期の皐月賞ウマ娘、ハードバージだった。残るは府中の最終直線。それだけとはいえ、それだけと言えない過酷な最終直線である府中で、一度体を壊している彼女が今マルゼンスキーに並びかけた行く末に勝利がないことなど誰でもわかる。
それでも、マルゼンスキーより先にどこかへと辿り着かんと走る彼女。その覚悟を浮かべた表情に、マルゼンスキーは一度頷き、より強くターフを踏み締める。
(あぁ……やっと終わった……肩の荷が、下りた)
残り400mを先に駆け抜けたのはマルゼンスキー。始まっていなかったマルゼンスキーのクラシックであると同時に、
2000mでマルゼンスキーに負けたことよりも、2000mでマルゼンスキーに太刀打ちできたことが胸に残る。何度も繰り返し見てきた悪夢、皐月賞でマルゼンスキーに大差で負けるという悪夢。マルゼンスキーと比較され、落ちぶれ、嘲笑われるどころか記憶からさえ消えていく中で棲み着いた心の自傷が癒えていく。きっともう、魘されることはない。
(わたしは、マルゼンスキーのライバルたり得た)
マルゼンスキーがツインターボの背中を捉える。あと一歩詰めれば追いつけるというところで、ツインターボは粘る。ターボエンジンが再起動する。
ツインターボの呼吸が止まる。無呼吸による一時的なブースト。"
ツインターボとマルゼンスキーのデッドヒート。それは観客が想像していた光景であり、そして、それだけではない。
マルゼンスキーは"無敵"だったが、それは"絶対"ではない。かつてのスーパーカーより現代の軽自動車のほうが性能が良いように、時代は常に進化する。
幾人もの挑戦者たちが残り400mで追い上げる。まだ諦めていないぞと、残り1mでも、先にゴールの先にいれば勝ちなのだから。
(日本ダービーは、最も幸運なウマ娘が勝つ)
そんな中で、最もマルゼンスキーに迫ったウマ娘は内心で独白する。
(アンタと戦えて、あたしは最高にラッキーだったぜ)
最初にゴール板を踏んだのは。
ドリーム・ウィンター・クラシック。
勝者、マルゼンスキー。
「脚を止めるなァっ!!! マルゼンスキィイイイ!!」
「合点承知の助ッ!!!」
ブレーキは踏まない。
アクセルが入る。
スピードを弛めつつあるウマ娘たちの横を、ふたりが走り去る旋風が撫でた。
まだ終わってない。まだ終われていない。彼女のクラシックは、彼女たちのクラシックはまだ終わることができていない。
だから止まらない。同じ轍は二度と踏まない。マルゼンスキーが彼女の目の前で、レースの半ばに脚を止めることはあってはならない。
(マルゼンスキー、僕は、君が嫌いだ)
誰からも期待され、誰からも望まれたマルゼンスキーを、誰からも期待されなかった彼女は誰よりも見ていた。
(これは証明だ。
『幻の三冠ウマ娘』だなんてもう言わせない。
白銀の髪を翻し、鬼を宿した者が往く。
マルゼンスキーの表情に笑みはない。そこにあるのはひとりのウマ娘がラストスパートを、限界の先を目指して走る、闘志に溢れた苦悶の表情。誰も見たことがなかった、"無敵"の見せる
迫る。迫る。迫る。並ぶ。
突き、放す。
「アアアアアアァァァァァァッ!!!」
ゴール板はない。合図もない。本当に3000mかもわからない。目算ばかりのその場所に、しかしそんなものは要らないはっきりした着差をつけて、彼女は先着した。
ツインターボが、レオダーバンが、サクラチヨノオーが、脚を縺れさせながらヘロヘロと倒れ込むマルゼンスキーを支え称賛する。彼女は勝者であり、同時に敗者だ。
ラッキールーラが、ヒシスピードが、ハードバージが、やりきった顔でへたり込む彼女を支え称賛する。彼女は敗者であり、勝者だ。
600mの暴走を誰も責めない。彼女の勝利を、ただ歓声と嗚咽が出迎えた。
東京変則3000m、勝者、プレストウコウ。
その日、勝者はふたりいた。
同着? しねえよそんなもん!
お久しぶりです。退職時のワチャワチャにより遅れました。