万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
ウマ娘レースにおいて、「目を疑う」という経験は枚挙にいとまがない。勝利への執念から容易に己の限界を超えるウマ娘たちの走りは、人間の想像力など簡単に飛び越えていく。
何が起こってもおかしくはない。自分の見たものを疑わない。それを信条としていた羽原は今初めて、「自身の正気」を疑った。
「……マヤノ、お前、
震える声で、隣にいる相棒に話しかける。この担当ウマ娘は『理不尽』であると断言して皐月賞への出走を蹴った。何かしら情報を掴んでいたのかと。
しかし、それをマヤノトップガンは否定する。
「ううん。ただ、マベちんのトレーナーなら、マベちんの何を隠すかなぁって考えてたら、多分こういう方向かなって。
会場が騒然としている。そこは既に、コンクリートで形作られた現代のレース場ではない。レース場全体を飲み込むマーベラスサンデーの"
だが、そうではない。その程度のことではない。確かにこれほど大規模な"
だから、マーベラスサンデーの"
それは例えば、持続時間。前述のそれらは、ゴール前のほんの数秒、大衆の目前に晒されただけだったが、マーベラスサンデーのそれはスタート後の直線を終え、コーナーに突入してなお形を保っている。
それは例えば、侵蝕率。前述のそれらで最も現実を侵蝕したのはシンボリルドルフの第2"
しかし、それらでさえない。それらはまだ既存の"
それは、まさに異界。パッチワークのように継ぎ接ぎされた密林、遺跡、海底、月面、それらが数秒ごとに、万華鏡のように移り変わる。
そんな光景を、
その日、世界史上初めて、"
Tips : 怪異は実在する。魔法は実在する。たとえ観測されていなくとも、少なくともこの世界ではそれが証明されている。
(ふざけるなっ!! こんな、こんなものっ……!!)
そう心中で吐き捨てたのは誰だったのだろうか。この皐月賞を走るウマ娘の、恐らくひとりだけではあるまい。
稍重のターフを走っていたはずだ。しかし、足から伝わる感触は硬い岩壁であり、時に鬱蒼と生い茂った丈の長い雑草であり、時に巻き上がる水中の泥砂であり、時に手応えのない無重力の月面だ。
それだけでない。落盤に巻き込まれる。クレバスに落ちる。見たことのない生物に襲われる。おおよそ死を覚悟した瞬間、一瞬だけ意識が遠のいたあと、すぐ走っている状況へと引き戻される。そんな現象だけが、この異様な空間が現実ではないと証明している。
裏を返せば、それ以外は彼女たちにとって、現実に他ならない。
(こんなもの、レースじゃないっ!!)
避けようとすれば、発生した障害は避けることができる。しかし、それに集中しようとすればするほど、レースの走りとはかけ離れていく。この世界の主を除き、レースなどさせてもらえていない。
出走者も、トレーナーも、観客も、そして、TVや配信越しにそれを見ている視聴者も、騒然か呆然の2種類の反応しか取れていない。
レース中止の判断がなされていないのは、URA役員と判定員に対し、網馬が事前に「これが"
そもそも、"
そんな大義があれど、実際に同じレースを走っているウマ娘にしてみれば冗談ではない。その理由は前述のウマ娘たちの心情に尽きる。レースをさせてもらえないのだ。レースのために行ってきたトレーニングなどなんの意味もなさない。
マーベラスサンデーが、正確にはそのトレーナーである網馬が隠し玉を用意していることは予想していた。しかしそれは、例えばツインターボのスタミナ偽装やナリタタイシンの末脚隠蔽のような、一種の初見殺しだと思っていたのだ。一度見られれば対策を立てられてしまうから隠しているのだと。
蓋を開けてみれば、一度見ればどころか、対策も何も思いつかない理不尽。
もはやこの皐月賞はレースの体をなしていない。スローペースを狙っていた逃げウマ娘は転がる巨岩に追われ、大逃げのようなハイペースを強制させられている。各々が迫りくる神秘の脅威への対処に追われ、レースを組み立てられないでいるのだ。
一発逆転の"
いや、ただひとり、かろうじてこの事態に抵抗できている者がいた。裏を返せば、彼女以外は対処は疎か抵抗さえできていないのだが。
魂に宿る勝利の経験か、或いは『正確無比』を意味する真名の言霊か。レースとも呼べないこの騒乱の中で、ジェニュインだけがレースという形式にギリギリ指一本引っかかっていた。
条件戦で中山2000mを走った経験を正確に思い描き、それをなぞるように体を動かすことで、最小限の誤差で走ることができている。その物理的な障害となる他のウマ娘がまともに走れておらず、邪魔にならないというのが幸運だった。
しかしそれでも、ベストパフォーマンスからは程遠い。
マーベラスサンデー本人は未だ中団を走ってはいる。しかし、それは彼女の得意とする脚質が差しだからというだけであり、やろうと思えばいつでも追い抜けるのだろう。
その動きを見れば、彼女もまた"
実のところ、どんな原理で、どんな力が働いてこうなっているのか、網馬は疎かマーベラスサンデーにさえわかっていない。それどころか、マーベラスサンデーには「これが"
事実、"
ゴール前300m、マーベラスサンデーが先頭を走っていたウマ娘を躱しハナを奪う。その瞬間、異界の風景は朝靄のように消え去り、元の曇り空のターフが現れる。
マーベラスサンデーの悪癖である、先頭に立つとソラを使ってしまう癖。この悪癖は、普通にレースをする分には問題ない程度には矯正できたのだが、過集中を必要とする"
我に返ったウマ娘たちが立て直そうとするも、その多くはまだ最終コーナーの入口付近。最後尾のウマ娘などまだ第3コーナーという絶望的な状況だ。
唯一ジェニュインだけがマーベラスサンデーの背中を捉えているが、それでもまだ5バ身以上の差がある。
担当が理不尽に蹂躙される様を見せられたトレーナーたちは、八つ当たりだと知りながらも元凶であろう黒い魔人を睨む。
奴が皐月賞まで温存などさせず、ホープフルステークスでこれを使わせていれば。こんな理不尽があると事前に知っていれば、NHKマイルカップに目標を変更することもできたのに。
そんな網馬に、あるいはマーベラスサンデーに注がれているのは、しかし怨嗟の視線だけではない。それはかつてのナリタタイシンやビコーペガサスのような、フィジカルに致命的な難を抱えるウマ娘たちからの、希望の眼差し。
ナイスネイチャのような難解な策謀よりも圧倒的に派手でわかりやすい"
そんな様々な感情の籠もった視線を受けながら、嘲るかのような笑みでそれを受け流す網馬の眼下で、後続を置き去りにしたマーベラスサンデーが今、ゴール板を駆け抜けた。
「アレ怒ってない?」
「最後の減速、流したんじゃなくてソラ使ったからだと思うの。お仕置きかな?」
「あ〜……南無」