万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
時間を遡ること数十分前。
「いらっしゃいませ」
ノックの音に反応して、網馬がチームルームのドアを開く。そこにいたのは、ひとりの男性だ。
第一ボタンを開けた半袖のワイシャツに長ズボンというカジュアルとフォーマルの間にあるような、名門生まれのトレーナーにはよくある服装をした彼は、「失礼します」と一礼して部屋に入ってくる。
「どうぞ、お座りください。飲み物でもお出ししましょう。珈琲も紅茶も……麦茶やジュースなんかもありますが……」
「いえ、お気遣いなく」
彼がそう遠慮すると、網馬は自分の分だけリンゴジュースを注いで応接テーブルに置くと、応接テーブルに面した椅子に腰を下ろした彼と相対するように座った。
「本日は時間を取っていただいてありがとうございます」
「いえいえ、ちゃんと事前にアポイントメントをいただいておりましたから。突然やってきて取材、なんて不躾な人間でなければ、相応の対応をいたしますよ」
冗談めかしてそう語る網馬だが、その"不躾な人間"が架空の人物ではないことを、来訪者の彼は察している。
一方の網馬は、若干居心地悪そうに座る目の前の彼を観察していた。所作は硬くキッチリとしたイメージがある。網馬と同じく鋭い目つきをしているが、狐や蛇のような胡散臭い印象がある網馬に比べると、威圧感のある猛禽類のような鋭さを持った目が、黒縁の角メガネの向こうに見えていた。
髪は短く整えられており、全体的に清潔感のある男性だった。
「それで、飛田トレーナー。本日は一体どのようなご用向で?」
遡ること2週間前、飛田は《ミラ》のメールアドレスを通じて網馬との会談を申し込んできた。その是非を判断する過程で飛田がヒシアケボノの担当であることを知った網馬は、ヒシアケボノと交流のあるビコーペガサスを通じて飛田の人柄を知り、彼の目的を大枠で予想しつつ了承したのだ。
そうして、飛田が切り出した今回の用件は、網馬の想定を外すものではなかった。
「……単刀直入に言いましょう。網馬トレーナー、あなたの知恵をお借りしたい」
「……まずは、聞きましょう。どうぞ、続きを」
飛田は網馬に促され、一拍おいて話し出す。端的に言ってしまえば、飛田が求めている知恵とは、網馬の怪我を防止する技術のことだった。
《ミラ》の異常性はチームメンバーのGⅠ勝利率もさることながら、レースに詳しい者ほどその故障の少なさに目が行く。これまで7人がデビューし、
トウカイテイオーやナリタブライアンを例に挙げるまでもなく、ウマ娘の全力は常に故障と隣合わせである。そんな常識の中で、《ミラ》のメンバーが残した戦績と怪我率は、まるで釣り合うものではなかった。
網馬のトレーニングメニューの特徴は、ステータスの伸び幅や技術指南よりもむしろそこにある。いかに負担をかけないかを念頭に置いたトレーニングを、徹底的に負担に強い体作りをしたうえで行っているからこその、故障の少なさ。
飛田が欲している知恵は、まさにその負担の軽減にあった。
ヒシアケボノの身体には相当な負担がかかっている。
印象だけで語るなら体が大きいということはイコールで頑丈、丈夫であるというイメージが起こるだろうが、それは正しいとは言えない。確かに巨体を支える骨は相応に太いのだが、一方で骨密度は一般的な範疇に収まっている。筋質もまたそうだ。
程度を考えればやや軽微な範囲ではあるが、限界を超えたサイレンススズカや、宝塚記念で引退しなかった場合のビワハヤヒデに近い爆弾が、ヒシアケボノには巻き付いていると言っていい。耐久性が出力に追いついていないのだ。
その上でヒシアケボノは、電撃戦と言われるスプリントという負担の大きな舞台で、他の追随を許さないほどに
いつ壊れてもおかしくない。その危険はすべてのウマ娘に付き纏っている。しかし、ヒシアケボノは特にそれが紙一重の位置にあるのだ。
ヒシアケボノの才能ならばGⅢやGⅡだけでなくGⅠ級の活躍を狙える。それを理解した上で、飛田は早期引退の打診をした。
GⅢさえ取れないウマ娘は大勢いる。GⅢを取れただけで十分な名声だ。GⅠに挑戦するのは止めないが、それでも無理はせずに早いうちに引退したほうがいいんじゃないか、と。
トレーニング中の故障ならまだいい。だが、スプリントレースの最中で故障したら大惨事だ。それこそ、つい数年前に
GⅠを取れたらそこまで。取れなくともシニア期の暮れで引退。飛田はそう提案した。
そして、ヒシアケボノはそれを承知の上で、観客が望むものを魅せるために、自分の走りを貫くことを選んだ。
以前までなら、強く止めれば優しい彼女は飛田の意見を飲んだかもしれない。しかし、タイミングが悪かった。彼女の覚悟を決めさせてしまう出来事があった。
同期であるフジキセキ引退の正式発表だ。将来を期待され、晴れ舞台の前に躓いた彼女は、観客の眼を汚さず去ることを選んだ。最後まで、舞台上の役者として。一片の悲哀も見せずに。
その姿が、ヒシアケボノに舞台を最後まで、最期まで歩む決意をさせた。サクラバクシンオーという絶対王者が盛り上げ、《ミラ》の刺客ビコーペガサスが薪を焚べているスプリントレース界に向いている観客の期待に、応え続ける決意を。
そして、担当がそれを選んだなら、トレーナーはそれを支えるために全力を尽くす。
「…………」
事情は理解した。網馬は自身の技術に執着がない。怪我をしにくい体作りであったり、負荷の少ないトレーニングメニューについては、そもそも少し勉強すれば誰にでもできることだ。
そして、飛田も学んだからこそ分かっているのだろう。それでは足りないことに。
ヒシアケボノの場合、体作りで増した耐久を、同じく体作りで強くなった出力が常に上回りかねない。速筋偏重の体質はスプリンターとしては大きな武器だが、諸刃の剣だ。
負担の少ないトレーニングメニューも延命でしかなく、そもそもその終端がいつ来るかがわからないのが問題なのだから解決策にならない。
そしてそれらを解決しうるのは、他者には真似できない領分――網馬の観察眼を最大限に使った日常的なコンディション管理とケアに頼るしかないということにも。
「申し訳ありませんがお引き受けできかねます」
だからこそ、網馬は断る。
「貴方もご承知の上でしょうが、貴方の望みを達成するためにはヒシアケボノが私の管理下に入る必要があります。そして、そこまでやってしまうと私がヒシアケボノを担当する上での業務を規定以上に受け持っているとして、トレーナー規約に抵触するおそれがあります」
「ッ……!! で、でしたら……っ!!」
「貴方とヒシアケボノとの契約を解消し、正式にヒシアケボノを《ミラ》に加入させる、ですか? それこそ誰の得にもならない」
網馬にヒシアケボノへの思い入れはまるでない。端的に言って
それに、網馬は気にするまでもないが風評というものもある。飛田が移籍を受け入れようと、名門生まれである彼の背後関係がどう思うかはまた別だ。
「貴方のそれは独り善がりでしかありません」
「……なら、どうすれば……」
弱音を零した飛田に向けて、網馬はただ思ったように口にした。
「やりたがっているんだから壊れるまでやらせてやればいいんですよ」
次の瞬間、飛田は反射的に網馬の胸ぐらを掴んでいた。
チームルームの扉が開く。