万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
――負けた。
コンディションに不調はなかった。レースに不利はなかった。油断も慢心もなかった。ただ、完膚なきまでに敗北した。
報復の末に鍛え上げられた鬼脚が、神を穿った。
『悔しいな……』
滴り落ちる滝のような汗。酸欠でクラクラと揺れる視界。自分じゃない彼女に向けられた歓声はどこか遠くに聞こえた。
目指した3つの冠のうち、ふたつを落とした。そんな風に言ってしまえばひどく陳腐な結末だ。あるいは、そのふたつがシニア混合かつ世界最高峰のレースであると言えば、人々はその健闘を称賛するだろう。
そして、それを超える賞賛を浴びている、同一年のKGⅥ&QESと凱旋門賞とを制したこのレースの勝者は、つい1、2分前までは誇らしげな表情を浮かべていたが、今は不機嫌そうな顔で、彼女のトレーナーである黒服の男によってなんらかの処置を受けている。
脚ではなく口内を診ているようなので、故障ではないようだなとラムタラはそれをどこか冷静に見ていた。
『……うん、悔しい』
噛みしめるように再び口にする言葉。どこか晴れやかだ――なんて簡単に吹っ切れるわけではない。割り切ってすっきりと前を向けるほど冷めていない。
にも関わらず、体に溜まっていた熱は冷めていく。まるですべてが終わったと言うかのように、もう走ることはないとでも言うかのように、体が『走る』という行為を止めていこうとしているのが手に取るようにわかった。
確かに欧州三冠を、世界の頂をとった暁には、それを最強の証明として引退するつもりではあった。しかし、現実は精々が世代最強。クラシック期の段階で世界最高峰のレースの先頭を争い、僅差で敗れたことは評価できるだろうが、世界最強からは程遠い。
何より、ラムタラの体は未だ発展途上なのだ。本格化は終わっているがまだ成長曲線は登り坂であり、能力の減衰までは猶予がある。
ウマ娘にはこのような一種のスランプのような現象に苛まれ、肉体は全盛期であるにも関わらず現役を引退する例が歴史にも散見されている。そんな外なる理が、ラムタラを蝕もうとしていた。
『……クソッ』
疲労と倦怠感から体を引きずるようにして控室へ戻ってきたラムタラ。まだウイニングライブが残っているから、それまでにある程度体力を回復させなければならない――ラムタラという競技者の最期を汚さないために、などと、無意識の考えが体を動かしていた。
ラムタラの意思が現役続行を望む一方で、より本能に近い場所にある意志は、既に折れかけている。それを自覚できぬまま、噛み合わない歯車を無理やり回そうと、次のレースを考える。
そんなラムタラの控室に、ノックの音が響いた。
そういえばアポイントメントが入っていたなと、ラムタラが声をかけて入室を許可すると、入ってきたのは垂れ眉が特徴的な、小太りのアジア系男性だった。その後から、秘書か護衛か付き人が数人入ってくる。
ラムタラは反射的に手近な棒――今回はモップが一番近いか――を確認する。日本の治安であればいざ知らず、海外において密室に一対多の状態でならばウマ娘がヒトミミに乱暴を働かれることも少なくない。
とはいえそれは杞憂だったようで、男が取り出したのは彼のものであろう一枚の名刺だった。
『株式会社「是々」の代表、弓野秀秋と申します』
株式会社『是々』。日本において、馴致指導者の質と数であれば社北グループに迫ると言われる、ウマ娘育成における一大勢力、正午グループの運営母体である。
彼らの自己紹介を受けて、ラムタラは彼らの目的を覚った。つまるところ、彼らはラムタラをスカウトしに来たのだ。競技者としてでなく、指導者として。
『もちろん、今すぐにというわけではありません。とはいえ、早いほうがよいのはもちろんですが……』
その意図はラムタラにも理解できた。要するにこの『是々』という組織は焦っているのだ。ライバルとされる社北グループの台頭に対して。
そしてその社北グループの勢いが増しているその中心にいる存在こそが、『気狂い死神』サンデーサイレンスであった。
サンデーサイレンスをスカウトした当時の社北グループ代表、吉野庵児以外の誰しもが予想しえなかったであろう彼女の指導能力。社北グループを大きく前進させた名指導者という存在を是々グループは求めた。このあたりのフットワークの軽さは、名家であるメジロやトウショウ、シンボリとの違いとも言えるだろう。
確かにラムタラであれば、性格は別として指導者としては申し分ない成績を持っている。そして、指導力と性格が思いの外関係ないことはサンデーサイレンスが証明している。
そして、「名選手がすなわち名監督にはならない」ということは十分に理解できていてもなお飛びついてしまうほどに、正午グループは焦っていたのだ。
なにより、ラムタラにはサンデーサイレンスと比べて、指導者として大きなアドバンテージがあった。彼女は
有望なウマ娘に指導できるウマ娘は、全盛期から時間が経った者が多い。それほど優秀ならば、指導者ではなくドリームシリーズへ進んだり、自身のトレーナー*1のもとでサブトレーナーになるからだ。
サンデーサイレンスは怪我が原因なのでどちらの例からも外れるが、走れないことには変わりがない。弓野も今すぐにではないと前置きしているが、その実、故障で走れなくなる前にと思っているのは透けて見えた。
『……指導者』
『えぇ、契約金も2500万ドル……いえ、3000万ドル出しましょう。と言っても、あなたの成績を考えればはした金でしょうから、これはこちらの誠意と考えていただければと……』
3000万ドル。凱旋門賞の優勝賞金に迫る額であり、契約金としては確かに破格だろう。サンデーサイレンスと社北グループとの契約金が1100万ドルだったのだから、そのおよそ3倍だ。
このまま身を委ねても……そんな考えがラムタラの脳裏を過ぎる。
『…………』
弓野からさらに説明を受けた後に差し出された契約書。ラムタラの手が、近くのペン立てへ伸びる。そこから引き抜いたボールペンをノックして、署名欄に、ペン先を、滑らせる。
『……ハ』
ただ、契約書に僅かに残された、ペン先に依る凹みの軌跡を見て、ラムタラは思わず失笑を漏らした。
『ハハハ……』
インクは、出なかった。
なんのことはない、それは単なる偶然だ。しかし、ラムタラの意識を変えるには十分だった。
敗北、喪失感、勧誘。まるで自分が引退を選ぶのを誘うかのように誂えられた道筋。その中で、何本も置いてあったボールペンの中で自分が選んだそれだけが、さながら運命を拒むかのように不都合だった。
『……いや、すまない。ジャパンの指導者。もうすこし、走ることにした』
ナリタタイシンは言った。神とはクソッタレである。
なるほど、ウマ娘に走ることを諦めるような道を用意するような、最高に性格の曲がったやつだ。
その思惑を、たった一本のボールペンが阻んだのだとしたら、なんと滑稽で愉快だろうか。
『……そう、ですか。いや、残念です……』
『まぁ、あくまで延長だ。引退する頃にまた話を聞いてやるさ。そのときはアタシに直接ではなく、ちゃんと
ゴドルフィンレーシングでは、当然引退後のウマ娘をコーチとして再雇用している。そこを通せば横槍が入るのは当たり前で、だからこそ彼らはラムタラに直談判しに来たのだろうと、そうわかった上でラムタラは告げる。「退かないならこの場で上を呼んでもいいんだぞ」とチラつかせて。
引退後に改めて上を通せば横槍が入るのは確実だが、ここで食い下がってラムタラに告発され、ゴドルフィンレーシングの頭を跨いでスカウティングしたことがバレて印象が最悪になるよりはマシだ。
弓野はそう判断して、ここは大人しく引き下がることにした。
弓野たちが帰った控室で、ラムタラは改めて体を伸ばす。
体に熱が戻っている。ウイニングライブのことを考えるその思考は、しかし先程までとは大きく様子が違っていた。
『……まだ、終わってない』
始まりは、両親が信じる神への反発だった。
遠回りはしたが、結局のところラムタラは同じところに戻ってきた。
『さぁ、神に反逆しようか』
ひとまずは、反逆の先達に教えを請うとしよう。
神馬は再び歩き始める。
Q.ラムタラ、負けてグチャグチャになってるんやろなぁ……
A.なんかもう情緒がそんな場合じゃなかった
あと、体が全盛期なのに魂が萎えてくやつ公式でもアイネスがやってたしええやろと思って書いてたけど、これ公式じゃなくて他所様のアイネスだわ。