万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい   作:仙託びゟ

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地獄への道が善意で舗装されているなら、天国への道は如何程のものか

 噂について否定して回ったその日のうちに、トレセン学園の事務室に呼び出されたアイネスフウジンは、契約書類が本物かを確認させられた。

 切羽詰まって行った見苦しい抵抗の痕跡(アイネヌフウジソ)に内心悶えながらも肯定すると、事務員は心配そうにしながら契約が正式に成立した旨と、ハラスメントなどのカウンセリングを行う相談室の情報を伝えてきた。

 そこでようやくアイネスフウジンは気になっていたことを聞くことができた。あのトレーナー、網(とき)は、なにかよからぬ噂があるのだろうか、と。

 

「いえ、網トレーナーはつい先日、中央トレーナー試験を首席で合格されたばかりの新人トレーナーですので、過去になにか瑕疵があるわけではないのですが……」

 

「……単純に雰囲気が怪しかったから?」

 

「一応、あれほどの才能を持つ人材が、どこの名門から出たわけでもない単なる資産家の三男坊であったことは不自然と言えば不自然ですけど……はっきり言ってしまえば、単に胡散臭い雰囲気だったからですね」

 

 この時点でアイネスフウジンの脳内では網の印象はどちらかであるとほぼ固まっていた。

 あらゆる不都合な情報を隠し仰せてこちらの感情を巧みに支配するあまりにも巧妙な詐欺師か、見た目で損してるだけのお金持ちのお兄ちゃんかである。

 そして的を射ているのはどちらかと言えば圧倒的に後者であった。

 

 

 

 網による指導はその次週から行われた。徐々に内心の網への評価が上がり、その分先週の自身の対応を思い返しては罪悪感に駆られるアイネスフウジンに対し、網はなんら気にしていないようにアイネスフウジンの足について話し始める。

 

「ですので、脚に極端な負荷がかかっている原因は体幹の未熟さにあります。重心のブレが足首に不規則な負荷をかけ、体幹のブレが着地の衝撃を強め、体幹が衝撃を吸収しきれないため、分散できなかった衝撃が下半身へ向いてしまっているわけです」

 

 ホワイトボードを用いて行われた説明は非常にわかりやすいものだった。それこそ、新人だとは到底思えないほどに。

 アイネスフウジン自身、アルバイトの際に立ち姿を指摘されたりと体幹が弱いことは自覚していた。それがここまで脚に悪影響を及ぼしていたと改めて指摘され、ゾッとする。

 あの時アイネスフウジンのスカウトを望む声の中に、それを理解していたトレーナーはいたのだろうか。網以外の手を取っていたら自分は……

 

 実際、ベテランは言うに及ばず、中堅程度のトレーナーであればアイネスフウジンの体幹の弱さに気づき、脚への負担に目を向けることはあっただろう。

 しかしそれは、大抵の場合は早くともメイクデビューを終えたあとになっていただろうし、最悪の場合すべてが手遅れになったあとという可能性もあり得た。

 

「幸い、脚の筋肉については既にクラシックでも通用するものがあります。二の脚を残すのが苦手なようですが、それはやりようがある。ですので、まずはすべての原因である体幹の弱さを克服することから始めます」

 

「具体的には何をするの?」

 

「トレーニングはプールでの遠泳を中心に、体幹の筋力トレーニングを行っていきます。水泳は全身の筋肉をまんべんなく鍛えるのに効果的ですし、心肺機能の強化はスタミナに繋がります。二の脚に期待ができない以上、せめて垂れにくいという長所を伸ばしていくべきでしょう」

 

「わかったの」

 

「完成形としてはスタミナで相手を磨り潰す逃げを目標としますが、貴女の適性距離は延びても2400m程度だと見ていますのでクラシック三冠は諦めてください。ダービーを勝ちたいと言うのであれば手を尽くすので、メイクデビューまでに何を目指すのか考えておいてください」

 

「はい!」

 

「よろしい。では着替えた後にプールに集合。ストレッチとウォーミングアップを行ってからトレーニングに移ります」

 

 アイネスフウジンが走る時間は大幅に減った。それまでトレーニングと言えばとにかく走ることを考えていたが、網はむしろ逆だった。

 

「もちろん走り方を覚えるために必要な分は走らせますが、ウマ娘の脚というのは消耗品です。どれだけ気をつけていても磨り減っていく。走らないに越したことはありませんよ」

 

 ランニングジャンキーでないにしても、走らないとストレスが溜まるのがウマ娘という生き物だ。その点、網はギリギリを見極めるのが上手かった。

 ストレスが悪影響を及ぼす前のタイミングで、トレーニングにインターバル走を組み込んでくる。

 トレーニングの内容自体は、まるで甘くない。むしろ厳しい。今まで自分が限界までやると言って行ってきたトレーニングはなんだったのかと思うほどに。

 その代わり、負担が極力かからないように逐一指摘を入れたり、サポーターを着けさせて負担を減らしたりと、神経質とも思えるほど慎重に扱った。

 

 一番意外だったのは、アルバイトだ。

 アイネスフウジンは当初、トレーナーがついて本格的なトレーニングが始まったらアルバイトなんてやっている暇はなくなると思っていた。

 たとえ時間が合うような深夜や早朝のアルバイトを見つけても、トレーニングで消費される体力がそれを許さないだろうと。

 

「アルバイトは今までどおり続けてください。辞めるにしても規定の日数……大抵は1ヶ月ほどですね。辞める1ヶ月前に申し出てください。雇用先に迷惑がかかりますから」

 

「へ? ……い、いいの?」

 

「家庭事情は人それぞれですから。デビュー後は賞金が入るようにはなりますが、それまでのライフワークバランスをすんなりと変えられる者はそういるものじゃありませんし。トレーニングメニューはそれを前提に組めばいいだけの話です」

 

 そんなさも当然という風に返されてしまい、事実アルバイトをこなす体力を残して毎日のトレーニングが終わる。いや、正確には、トレーニングの直後は限界に近いのに、アルバイトまでに十分回復するように、丁寧なケアがなされるのだ。

 そうして季節が春に変わった頃には、自分の成長を深く実感するほどにトレーニングの効果が現れていた。

 

「アイネス、最近姿勢良くなってるよね。筋肉ついてきた?」

 

「そうなの。トレーナーのお陰なの!」

 

「あぁ、あのトレーナーさん……アイネスがそこまで信用してるなら大丈夫なんだと思うけど、正直結構警戒してたんだよね……」

 

「……まぁ、怪しげな見た目なのは否定しないの……」

 

 目下、アイネスフウジンの悩みはトレーナーの胡散臭さだった。

 アイネスフウジンにとってトレーナーは既に恩人であり、尊敬する人物でもある。そんなトレーナーが誤解されていることがなんとももどかしく思ってしまうのだ。

 と、思うと同時に「いや、あれは仕方ないなの……」と思う自分もいた。実際、網はあまりにも胡散臭い男だからだ。

 人を小馬鹿にしたような声音とか、張り付いたような薄ら笑いとか、土埃で汚れやすいトレーナーという職に相応しくないほど高価そうなスーツとか、全体的に。

 

 ふと頭をよぎる思考があった。

 そういえば顔はいいなと。

 胡散臭い雰囲気が多くをかき消しているから印象に残らないが、網の顔は上等な類に入る。いや、上等な類であることが胡散臭さに拍車をかけている。

 例えば普段あそこまでキッチリとキメている網が、服を着崩して髪を乱して、敬語なしで詰め寄ってきたら……

 

 そこまで考えて、アイネスフウジンは頭を振る。走りに恋するアスリートとは言え、同時に花盛りの乙女でもある故にそういう方向に思考が流れがちなのは致し方ない。

 しかしトレーナーとウマ娘、教師と学生、大人と子供。一線を引かなければならない相手なのだ。

 確かにトレーナーと言う極めて献身的な男性が身近にいることで間違った男性観を抱いたり、逆に依存的な恋愛感情を向けるウマ娘は少なくない。

 しかし、ウマ娘にとってトレーナーは唯一でも、トレーナーにとって担当ウマ娘は唯一ではない。弁えなければいけない。

 

 そう自分に言い聞かせ、せめて自分が父親で築いた男性観を粉砕されないようにしなければと心に決め、今日のトレーニングメニューのミーティングを行うために、トレーナー寮の網の部屋のドアを開けた。

 

「だから手ェ出してねえっつってんだろうが!!」

 

 閉めた。

 思えばノックをせずに他人の部屋に勝手に入ってしまうのはマナーとしてどうなのか。人には決して見せたくない一面というものがあるはずで、それを侵さないためのマナーだ。

 特に大人というものは立場を守るために何重にも仮面を――

 

「テメェと一緒にすんなボケ!! 相手は学生! 未成年! 手出したらしょっぴかれんだよ!!」

 

 アイネスフウジンの現実逃避はドアの向こうから聞こえてくる怒号に遮られた。

 ウマ娘の聴覚というものは人間に比べて鋭敏で、特に指向性に優れる。意識しなければドアに遮られ聞こえなかったであろう音が、意識してしまってからは同じ条件でも聞こえるようになったりする。

 

「巫山戯んな、なんで大事な大事な教え子を股間で物考える金と顔しか取り柄がねえ産業廃棄物野郎に会わさなきゃなんねぇんだ? テメェが金で買った"恋人"どもが大勢いんだろうが巣に籠もっとけやクソが!」

 

 それにしてもこのトレーナー、キレキレである。

 アイネスフウジンは一度ここを離れて適当なところで時間を潰してから再訪すべきだろうかとウマホで時間を確認する。ミーティングの時間には数分早い時刻だ。携行食を食む時間くらいはあるだろう。

 

「着拒してんのに毎度毎度番号変えてかけてきやがってよぉ……愛液臭え口で兄と呼ぶな顔面猥褻物!! 爛れろ!! 爛れて死ね!!」

 

 妹たちにはいい子に育ってほしい。アイネスフウジンはそう思った。




一日一回は更新したいと思いますがストックががが。

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