万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい   作:仙託びゟ

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皺寄せ

 パドック、ウォームアップラン*1。模擬レースではどちらも行われないから、ナイスネイチャにとっては初めての経験だった。

 メイクデビュー。他のレースとは質が違うその異様な熱気に萎縮するウマ娘も多い中、ナイスネイチャは自分でも不思議なほど落ち着きを保っていた。

 

『勝たなくても構いません。いえ、できれば()()()()()()()()

 

『……は?』

 

『貴女は一度、未勝利戦を経験したほうがいい』

 

 レース前に網からかけられた信じられない言葉。ウマ娘に『勝つな』と言うトレーナーなど聞いたことがない。

 冷や水を浴びせるかのような言葉に珍しく湧いていた闘志が萎んでいったナイスネイチャは、逆に冷静になって周りを見る余裕ができた。

 ナイスネイチャはこれまで、メイクデビューを()()()()()()()()()()。それどころか、重賞だって、GⅠ以外を見たことは映像でだってない。参考にするために見る先人のレースだってGⅠのものばかりだ。

 そんなナイスネイチャでさえ、この空気は他のレースとは異質であると気づいた。そして、その理由も聡明なナイスネイチャなら想像がつく。

 

(GⅠで1着を取れるのはすごいこと、でもここで1着を取るのははじまりでしかない……むしろ、ここで1着を取れないと始めることすらできない……?)

 

 1着をとることができれば。それを思い描くのが普通のレースだ。しかし、メイクデビューと未勝利戦は1()()()()()()()()()を強く意識させる。否が応でも負の指向性を持って進む思考の行き着く先が、この肌が焼けるほどの戦意。

 1着以外意味がない。その言葉は真実でありながら虚偽でもある。2着以降でも意味はある。なんだかんだ言って3着まではライブでメインに立てるし、強いレースさえすれば入着できなくとも記憶に残ることはある。1着以外意味はないというのは、あくまで克己心を養うための常套句だ。

 しかし、メイクデビューと未勝利戦、条件戦では、真の意味で『1着以外意味がない』。1着とそれ以外。1着だけが駒を進め、それより下はまとめてもう1度。どれだけ好走しようと、どれだけ着差を縮めようと、垂らされた蜘蛛の糸を掴めるのはひとりだけ。

 

 ぶるりと、ナイスネイチャの体が寒気に震えた。まだ6月の末であるにもかかわらずだ。皆が皆、知ってか知らずか、他を蹴落として先へ進もうとしている。

 トウカイテイオーなら。あの快活な天才なら。1着以外をとるなんて想像もしないだろう。頭の片隅にもひっかからないだろう。当たり前のように走って当たり前のように1着をとる。彼女にとってメイクデビューなど、華やかな第一歩に過ぎない。

 しかしどうだろう、凡人(じぶんたち)にとってのメイクデビューは華やかさとはかけ離れている。ナイスネイチャは滲んでくる弱気を必死に食い止める。

 

 網がツインターボのメイクデビューをナイスネイチャに見せなかったのはこれが理由である。ツインターボは、実力はともかくとして人間性としてはトウカイテイオーに近い。

 有り体に言えば、自己評価が高く空気が読めない。例えこれからダートを主戦場にしていこうと決意してその第一歩を踏み出そうとしているウマ娘たちに、芝が主戦場の自分が交ざっても、勝つことを疑わないしなんの躊躇いもなくぶっちぎる。

 そんな様子を先に見せていたら、ナイスネイチャの心に僅かながら余裕が生まれていただろう。

 

 語弊を恐れずに言うならば、ナイスネイチャはツインターボのことを、以前かなり下に見ていた。

 それはかつてであればまったく間違った認識ではない。1着こそとれずとも上位には食い込んでいるナイスネイチャと最下位常連のツインターボとでは明確な実力差があった。

 そして今この時点での実力差もナイスネイチャは見誤っていない。今のツインターボの実力には遠く届かないことをしっかりと認識している。

 その上で、ナイスネイチャは未だにツインターボを下に見る感覚が抜けていない。理屈ではなく感覚的な部分でだ。親戚のおばちゃんが、成人したばかりの親戚を変わらず子供扱いするのに近い。

 「ターボがいけたのだから自分だって」。そんな感情で余裕を持たれては網にとっては不都合だった。

 

 高まり続ける緊張に視野が狭まっていく感覚がナイスネイチャを支配する。バクンバクンと心臓が鳴り続ける中

 

「――ぁ」

 

 ゲートが開いた。

 

「〜〜〜〜〜〜ッ!!」

 

 自分がゲートに入っていることすら忘れるくらいに雰囲気に飲まれていたナイスネイチャはなんとかスタートを切ったが、完全に出遅れている。

 12人立てで11人の背中が見えている絶望的な状況からスタートしたナイスネイチャのメイクデビュー。どうせ差しなのだから出遅れの被害は少ないと考えてはいられない。

 何故なら、ナイスネイチャは遅い。身体能力が他のウマ娘に劣っている。だからできれば前目につけたかった。

 焦りで茹で上がった頭を落ち着かせながらバ群を眺める。出遅れたのは間違いなく失策だが、しかし確認したいことは確認できている。

 網の言った通り、他の走者を観察しながらの走行に不自由はしない。ナイスネイチャは最後尾にいることをいいことに、警告が出ない程度に外へ向かって斜行する。

 ナイスネイチャがウォームアップランで確認したとき、内の芝は外の芝より荒れていた。その日の前までのレースにパワーが強いウマ娘が多かった影響だ。

 20m程度長く走ることになるかもしれないが、スタミナはともかく外の方が加速しやすいと読んだのだ。今回のコースは芝1600m。ナイスネイチャにとっては少し短い距離だから、優先順位は間違っていない。

 

 そしてナイスネイチャは自身の才能を如何なく発揮し、順当に判断し、順当に手札を切り、順当に順位を上げ……

 

「お疲れさまでした、ナイスネイチャ」

 

「……ッス」

 

 順当に負けた。

 着順は3着。1着と2着がアタマ差、2着とナイスネイチャがクビ差。出遅れがなければもしかして、と思わせる決着だった。

 

「お、お馴染み3着〜……」

 

 沈黙。その場にいるのは網とツインターボ、ナイスネイチャの3人。アイネスフウジンはダイタクヘリオスと合同で練習しており、ライスシャワーはミホノブルボンと合同で練習(をストーカー)している。

 ツインターボは最近できた友人とUMIEN(メッセージアプリ)でなにやらやり取りしており、網は「コイツ意外と神経太ぇな」と感心していた。

 

「……ッスー……」

 

「敗因はわかりますか?」

 

「……出遅れぇ……ですかねぇ……」

 

「それがわかっているなら上出来でしょう。今までの『なんとなく走ってなんとなく負けていた、理由はわかりません』より余程いい」

 

 網的には皮肉でもなんでもなく思ったままを言っただけだ。はじめから「むしろ負けてこい」と言っていたのだからどちらかと言えば百点満点の結果だろう。

 まぁ負けた本人にしてみれば痛烈な皮肉にしか聞こえないのも道理だが。

 

「まだ改善点と言えるほど巧く出来ている部分がありませんし、身体能力的な部分から言うとそもそも基準値に達していないので指摘できる点はありません」

 

「うぐぅ……」

 

「ただ、外を走ったのはいい判断でしたし、レースを冷静かつ広い視野で見ることができているのは確認できました。方針は今まで通りで良さそうですね」

 

 疲れて動けないなら運びますがとの網の申し出を丁重に断ったナイスネイチャは、駐車場へ向かう網とツインターボを若干肩を落としながら追う。

 駐車場への中途、網は次のスケジュールについてナイスネイチャに話し始めた。

 

「次回の出走予定は3週間後の土曜日。東京レース場で芝1800m未勝利戦です」

 

「えー、と。考えがあるんでしょうから文句はありませんケド、若干日程遠くないですか?」

 

「トレーニングの時間を少しでもとったほうがいいでしょう。貴女の場合」

 

 ぐうの音も出ない。いや、最早ナイスネイチャ自身もわかっているのだ。自身が弱いことは以前からわかっていた。その上で、『努力をすればカバーできる程度』の問題だったのだと。

 不貞腐れる前に視点を変えていれば。自分は弱いと思考停止してないで、少しでも頭を回していれば。そのためにトレセン学園がある。そのために膨大な量の過去のレースの情報が残されている。

 正しい筋肉の付け方を調べようと思ったことはあったか? 少しでも有利になれる作戦を学ぼうと思ったことは? 走る相手のデータを集めて並べて羨む以外にすることがあったのじゃないか?

 今のレースだって出遅れがなければ。普段はただネガティブな述懐が出てくるだけなのに、今は勝てた可能性について考えている。

 すべての原因は自分の怠慢だった。その事実に、ナイスネイチャはただ歯の根を鳴らした。

 

 

 

 それからの3週間。ナイスネイチャは網に言われるがままトレーニングを繰り返した。

 トレーニングの内容は水泳での有酸素運動と上半身や体幹のトレーニングという無酸素運動を交互に行うものだった。やはりというか、走るトレーニングはやらなかった。

 それに加え、網曰く『弱者の兵法』、つまりレース全体を牽制し、掌握し、支配する手段について学んだ。

 文章にすればそれだけのことだが、ナイスネイチャにしてみれば一変と言っていい。今までのナイスネイチャのトレーニングはおおよそ徒労と呼んで差し支えないものだったのだから。

 どうすれば脚が速くなるのかも知らずに、ただ教官の指示に従ったトレーニングと、見様見真似の闇雲なトレーニングを続けていた。

 

 トレーナーがおらずチームにも所属していないウマ娘は、トレセン学園に勤務する教官が複数人をまとめて指導する。当然個人個人にあわせたメニューではなく、能力の底上げを考えた基礎的なメニューだ。

 それはまだいい、間違いなく効果はあった。問題はナイスネイチャが闇雲に行っていたトレーニングだ。その多くはただ走るというものだったが、はっきり言ってほとんど無駄だった。

 脚を使うトレーニングにも種類があるが、そのほとんどが目的を意識して行うものだ。フォームの改善が目的のテンポ走、トップスピードの底上げが目的の加速走などである。

 確かにただ走っているだけもスタミナはつくが、それなら水泳を行ったほうが脚の負担になりにくいし、脚の遅筋を鍛えるのが目的ならエアロバイクのほうが同じ理由で適している。

 

 今行っている網のトレーニングメニューはそんな闇雲なトレーニングで偏った筋肉を整え、この先のトレーニングの下地を作るものが主だったが、それでも筋肉のバランスが僅かながら改善したために走りやすくなった感覚をナイスネイチャに与えた。

 ほんの少しだが、それでも速くなった実感がある。ナイスネイチャにとって、それは本当に久しぶりの経験だった。だから、今度こそという気持ちでこの未勝利戦の舞台、東京芝1800mへ足を運んだ。

 

 その無知を自覚しないままに。

*1
返し馬のこと。英語だとウォームアップなのでそのまま使いました。


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