万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
そこは死地だった。
メイクデビューの異様な戦意と比べてもなお余りある、殺気のように肌を削ぐ熱。出走する予定のウマ娘たちがとっている行動こそメイクデビューと大差ないが、その表情には一片の余裕もない。
重苦しい静寂の中で体を温めて荒くなった呼吸の音が、乱暴に耳を撫でた。
「今回の出走者、ほとんどはこれが2戦目の方々ですので、これが
「ッッ!?」
「こちらから言うことは特にありません。8月中に条件戦に乗ればいいので余裕はありますから、あまり気負わなくても結構です。それでは、健闘をお祈りします」
そう言い残してトレーナー用の観覧席へ向かう網馬。ひとり残されたナイスネイチャはなんとか落ち着こうと体を掻き抱く。
勝つことへ向ける正の感情も、周りからは確かに感じ取れる。しかし、それ以上に苛立ちや焦燥といった負の感情が空気をビリビリと揺らしていた。
「あら、1着候補が来やはったわぁ」
ナイスネイチャがそんな言葉に振り向くと、栗毛でありながら前髪のほとんどが大流星で白く染まった、おかっぱ頭のウマ娘がナイスネイチャの方を微笑みながら見ていた。
しかし、ナイスネイチャはそのウマ娘が浮かべる、目が笑っていない微笑みの裏に隠れた敵意を敏感に察知し、警戒とともに視線を彼女のほうへ彷徨わせる。
両耳に白い耳カバー、右耳には
そんな栗毛の言った言葉を否定しようとして言葉に詰まっているナイスネイチャに向かって、栗毛は目を細めて笑った。
「照れるわぁ、そない熱っぽく見つめはって……惚れてしもたん?」
「へっ、いや、ちがっ!」
「ま、思っとったより
クスクスと口元に手を当てて笑う栗毛に、ナイスネイチャは恐ろしいものを覚える。栗毛の視線は未だに剣呑なものを宿しており、少しも緩んでいない。
態度と感情でここまで乖離しているウマ娘を見るのは、ナイスネイチャにとって初めてだった。
コールタールに塗れているかのような重い空気は会話の間も変わらない。それどころか、栗毛が言った『1着候補』という言葉に釣られて、何人かのウマ娘から観察するような視線を向けられているのが肌で感じられる。
『1着候補』に対していつものように「そんなことはない」と言おうと思って言えなかった。ここに来る前に見せられた出バ表で見た限り、ここにいるのは自分以外掲示板にも入れなかった下位のウマ娘だから。
体を抱えるようにギュッと抱き寄せる。震えが止まらない。
「なんや調子悪そやわぁ……家で休んではったほうがよろしいんとちゃう?」
「っ、だ、いじょうぶ……だからっ……」
「あらそう? ほんならうち、からだ
最後に挑発らしき言葉を吐いて、栗毛のウマ娘は去っていく。ナイスネイチャはそのゼッケンで名前を確認することも忘れて荒く息をしていた。
一見友好的な態度から滲み出す悪意。未だ周りから向けられている名指しの敵意。ナイスネイチャは、完全に場の空気に飲まれていた。
ナイスネイチャが今まで体験したことのないほど張り詰めた空気に頭の血液がサーッと下がっていく。そんな中で、ナイスネイチャの中に残された冷静な部分が考えを巡らせる。
網馬はこの空気を体験させたいと思っていたのだろう。だとすれば、学ぶべきことはそこにあるはずだ。そう思い至ったナイスネイチャは、遂に自分の無知だった部分に目を向けた。
そしてようやく、周囲のウマ娘たちの気持ちを、今まで実感できていなかった純然たる事実を理解した。多くのウマ娘が、レースに馬生を懸けているという事実を。
未勝利戦の数は有限で、時間もまた有限だ。救済措置はほぼ機能しておらず、取り残されれば都落ちは確定する。オープンに行けるウマ娘の数は、実質決まっていると言っていい。
目の前にいるのは最早ライバルなどではなく、自分の将来を破壊しうる敵。そう考えてしまうウマ娘もまた、少なくない。
今はまだ7月中旬。クラシック戦線に参加するなら2月までには条件戦に乗り、重賞かトライアルに挑戦したい。クラシックを諦めるなら来年9月が期限。
前者なら約半年、後者なら1年と2ヶ月。まだそれだけの時間があるにもかかわらず、これだけの焦燥が漂っている。
これから先のことを考えてナイスネイチャの体が竦む。負ければ、次も未勝利戦。より重くなった空気の中で走ることになる。
負けることのデメリットが自尊心を傷つけられること以外になかったからこそ、そんなもんだしょうがないと妥協できていた。妥協してしまっていた。
負けても次があるが、次はいつかなくなる。果てが見えてしまっている。そもそもこの煉獄を長い間走ることが苦痛になる。敗北は身を削ることになる。
妥協が、諦観が、言い訳が許されない。心を守るためのそれは、現実からは守ってくれない。ナイスネイチャの心から余裕はとうに失せていた。
ウォームアップランでコースの観察を終え、作戦を組み立てる。出せる最高速度で他のウマ娘に劣るナイスネイチャが勝つためには、他のウマ娘が最高速度を出せる時間を減らす必要がある。
つまり、スタミナを浪費させるか、スパートのタイミングを誤らせるか。そのどちらかで、失速させるかスピードに乗り切れなくさせる。
今回のコースは東京の1800m。特徴のひとつは明確に内枠有利となるポケットスタート後すぐのコーナーだろう。スタート後僅か100mでコーナーに入るため、ほぼ斜めに走ることになるからである。
今回、ナイスネイチャは内枠気味の位置。正直かなり有利な位置取りだ。中盤で外に出てスパートに備えることもでき、バ群から周りをコントロールすることもできる。
ゲートに入って、殺気立った空気に冷や汗を垂らしながら発走を待つ。怯える心を奮い立たせるように、ナイスネイチャは数度地面を蹴った。やがて全員のゲート入りが完了し、ほんの数瞬、空気が完全に凪いだ。
ゲートが開く。
飛び出したふたりの逃げウマ娘がハナを奪い合いながらスタート直後のコーナーへ突入する。当然やや外枠に配置されたほうのウマ娘が僅かに遅れ、それでもほぼ差がない状態でコーナーを抜ける。
中団はほぼ団子状態。固まったバ群の中、ナイスネイチャは周囲に目を向ける。
(逃げ2、中団は……ペース考えると多分先行5、差し3、それと……追込1)
先程の栗毛のウマ娘は最後方にいた。出遅れたのではなく、慣れた足運びでスルスルと下がっていったのが見てとれた。
府中の最終直線は長い。自然、差しや追い込みが有利になる。そして仕掛けどころを間違えさせにくい。どうやって追い込みを牽制するか考えながらも、ナイスネイチャは打てる布石を打っていく。
コーナー直後の直線。この直線も最終直線と同じく長い。ナイスネイチャは直線の序盤でやや脚を速め、固まった先行集団の隙間へするりと入り込む。
すると、先行策をとっていたウマ娘のうち、先程ナイスネイチャを警戒していたウマ娘たちが掛かり気味にスピードを上げた。
東京芝1800mはスタート直後から緩やかな下り坂になっている。逃げや先行はスタミナをあまり使うことなく加速できるからこの下りは有利に働くのだが、今回の場合勝手が違う。
ナイスネイチャによって誘発された掛かりによる加速は半ば本人たちの意識外での出来事、そんな状態で坂を下れば当然ブレーキが利かず飛び出す形になる。
後ろから詰められた逃げウマ娘ふたりも同じく加速し、さらに片方が完全に掛かり暴走を始めた。
(……なるほど、冷静に考えればこの空気はむしろアタシに味方してる……)
焦りと興奮。運動によって頭に血が上りやすくなっている今、ナイスネイチャのアドバンテージは更に大きくなっていた。
下り坂で余計に加速してしまった前方の集団は、間違ったペースでの走りでスタミナを浪費する。後方集団はレースがハイペースになったことを認識しながらも、脚を溜めることに終止する。
だからナイスネイチャは、下り坂直後の急な上り坂で露骨なまでに減速した。
「うわっ!?」
「ちょっ……」
「はいゴメンよ〜……ッ」
ナイスネイチャが先行集団へ追いつくときには開いていた僅かな隙間は時間とともに閉じている。つまり、ナイスネイチャの後ろにはふたり、先行バが走っていたことになる。
ナイスネイチャはそんなふたりを巻き込みながら後方集団へと垂れつつ、少しずつ減速することによって脚を溜めはじめた。急減速は負担になり逆効果なので、ゆっくりと。
ナイスネイチャを避けようと横に動けば、上り坂を斜めに登ることになる。当然だが、真っ直ぐ登るよりも斜めに登る方が走る距離は長くなるし、スタミナは急激に消耗することになる。
それは、巻き込まれて垂れてきた先行バふたりを前にした後方集団にとっても同じだ。既に団子状態だった中団は縦に伸びている。
(これで追込が届かなくなれば助かるんだけどっ……?)
栗毛は動かない。ただ自分のペースを保って最後方を追走している。
急な上り坂が終わって、第3コーナー、曲がりながらの下り坂。僅かながら脚を溜めたナイスネイチャは、下り坂を利用してできるだけスタミナを使わずに加速して上り坂での減速分を取り戻す。
ナイスネイチャによって掛かっていた先行集団は直線と上りで脚を溜められないまま、加速にしろ減速にしろスタミナを使わざるを得ないコーナーの下り坂でも同じように脚を使わされる。
第3コーナーから第4コーナーへ、下り坂から緩い上り坂へ。暴走してスタミナを消耗しすぎたハナの逃げウマ娘がズルズルと垂れてくる。先行集団のうち何人かはこのコーナーで少しでも脚を溜めることを選び、再び後方集団との距離が詰まる。
ナイスネイチャは下り坂での加速からそのままスパートに移る。下り坂からの勢いで体を外に出し、これから垂れてくるであろう先行集団を進路から外した。
後方集団もナイスネイチャと同じように下り坂で加速してスパートに移り、戦局は最終直線へと移行する。
高低差2m、距離160mの急な上り坂。2つ目の高い壁にして
ナイスネイチャによってスタミナを浪費させられた逃げウマ娘ふたりと先行集団がこの急坂に阻まれ垂れていくのを横目に、ナイスネイチャは外から一気に坂を登り切る。
わずかに遅れて最終直線に入った後方集団が先行集団を避けるために減速する。冷静にはじめから外を通っていたひとりを除いて。
(一番引っかかって欲しいやつが引っかかってないじゃん!!)
(ふふ、期待外れや思っとったけど、えげつないことしはるやないの……ま、もっとこっそりしいひんと丸わかりなんやけど……)
外から先行集団も後方集団も躱して、直線から急加速した栗毛の追い込みがぐんぐんと距離を詰めてくる。
あと100m。ふたりが並ぶ。
「っぐ……ま、け、るかぁああああああああ!!」
(やったらできるやないの……っ!!)
ナイスネイチャの最後のひと踏ん張りに栗毛のポーカーフェイスが崩れる。どちらが先にゴール板を踏んだのか。直後には判らずふたりで掲示板を見上げる。
ふたりがゴールしてからほんの少し間が空いて他のウマ娘たちもゴールし始める。そんな中、確定の点灯と共に1着の表示が灯る。
勝ったのは6番、栗毛のウマ娘。着差はハナ差。
「……は、ぁぁぁぁぁぁ……」
口から深く深く息を出しながらその場に座り込むナイスネイチャ。もうなんもかんも出し尽くしました〜と言いたげなその態度をくすくすと笑いながら見下ろす栗毛の目には、もう侮りや嘲りの色はない。
「負け、負けかぁ……負けたかぁ……」
でも2着とか、そんな自己弁護も出てこない。出し尽くして、負けて。
「やぁ……ほんにナメとったわぁ……堪忍しとくれやすなぁ、ネイチャさん」
出走前と違うトゲの取れた声色で、栗毛のウマ娘は謝りながらナイスネイチャに手を差し出した。ナイスネイチャは一瞬キョトンとしてから、その手をとって起き上がる。
「走る前の腑抜けた態度、あれ演技やったん? それとも走っとるうちに成長しはったん?」
「アハハ……お恥ずかしながら素でして……いやホントナメてたのはこっちの方です……スミマセン……」
「そやったらお互い様やねぇ。あんさん強いんやさかいあんなビビっとったらあかんよ?」
「い、いやぁアタシなんてそんな……」
「そない謙遜すんのもあかんて。それともあんさんとハナ差にしかならんかったうちも大したことあらへんの?」
「や、やややややそういうわけじゃ……!」
ナイスネイチャはようやく自分のしている自嘲が失礼にもなりうることを自覚して慌てるが、栗毛のウマ娘はからかい半分だったようで「さーライブやライブ」と地下バ道へ戻っていく。
空気が軽くなったかのような錯覚さえあったナイスネイチャだったが、栗毛と自分以外の雰囲気はむしろより悪くなっていると言ってもいい。ライブの間こそしっかり明るさを保っていたが、地下バ道や更衣室での雰囲気は最悪なまま。
でも、その雰囲気に対する怯えは、ナイスネイチャの中にはもうなかった。
「3週間の成果は出ていたと思います。1着のイブキマイカグラはメイクデビューこそ掛かりがあって敗着しましたが、元々が有望株であったので仕方が――」
「トレーナー」
「――はい」
網馬からの評価を受けながらも、ナイスネイチャの中にあるひとつの想いは消えない。相手が強かったから仕方ない、なんて、今までの常套句に納得ができない。
「アタシ、悔しいです。やることやって、全部出しきって、それでも負けた」
「…………」
「次は……1着、欲しいから。がんばる、からっ!」
重賞でもなんでもない、序盤の未勝利戦での敗北。
それでも、諦められない。慰めはいらない。勝ちたいと。泣いたのはいつぶりだろう。泣きじゃくるナイスネイチャにタオルを渡して、その頭を網馬は軽く撫でた。
「……それが私の仕事です」
まずひとつ、諦めという呪縛から放たれたナイスネイチャは、ようやく、本当の意味で『夢』へと歩き始める。
その姿は、間違いなくキラキラしていた。
2週間後。ナイスネイチャは遂に条件戦へ駒を進めることとなった。
めちゃくちゃ難産だったわ……色んな意味で……
以下翻訳
「照れるわぁ、そない熱っぽく見つめはって……惚れてしもたん?」
『何ジロジロ見てんだお前』
「ま、思っとったより
『この程度で動揺してんじゃねえよ』
「なんや調子悪そやわぁ……家で休んではったほうがよろしいんとちゃう?」
『この程度でビビってんならさっさと帰れ』
「あらそう? ほんならうち、からだ温めてくるさかいこの辺りでごめんやす。ほんまに、勝手に温まるなんて羨ましぃわぁ」
『ビビりすぎて震えてんの見てて情けないわ』
後半のセリフは大体そのままです。