万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
「なんでっ!!」
声を荒らげているのは、2着に繰り上がったツインターボだ。ナイスネイチャは、それをただ受け入れていた。自分たちの控室の中、網馬はマスコミの対処で席を外しており、立ち会っているアイネスフウジンとライスシャワーは何も言わない。
ゴールの直前、ナイスネイチャはツインターボのほうへ大きくよれたことを自覚した。ゴールしてすぐ、ナイスネイチャは審議を申し立て、パトロールカメラの映像が確認された。
その結果、ナイスネイチャは確かにツインターボの進路へ出ていた。そしてツインターボがその瞬間再加速しており、進路にナイスネイチャが現れたことでブレーキをかけて失速したことは明確であると認められた。
そしてもうひとつ、トウカイテイオーの右側、外側が大きく空いていたのに、わざわざツインターボとトウカイテイオーの間を抜けようとしたことも争点となった。
府中の直線は長く、トウカイテイオーの外を抜ける程度の移動は誤差であり、わざわざふたりの間を抜けようとすることは、これまでのレースから視野が広いことが明白であるナイスネイチャにとって不自然であるというのが裁決委員の見解だった。
あの瞬間、ナイスネイチャにそれを考える余裕がなかったのが事実ではあるが、裁決委員の言い分もまたナイスネイチャは確かに妥当だと思い、反論もしなかった。
そしてその結果、ナイスネイチャの妨害がなければツインターボは再加速、ナイスネイチャに先着していたと判断され、ナイスネイチャの申し立ては受理。降着処分となった。*1
ただし、自分から申し立てをしてきたことと、余裕がなかった可能性も十分にあることを加味して、それ以上の罰則や戒告は行われなかった。
また、ナイスネイチャによる妨害がなかった場合、ツインターボがトウカイテイオーに先着していたか否かは明言されることはなかった。裁定の争点はツインターボとナイスネイチャの先着関係のみにあり、トウカイテイオーは無関係であるからだ。
「別に邪魔になってなかった!! ネイチャ勝ってたじゃん!!」
「いやぁ、あれを邪魔になってないというのは無理があるよ、ターボ」
事実、ツインターボの右脚にはアイシングが施されている。ブレーキの際に負荷がかかり熱を持っていたため、網馬によって施された処置だ。
網馬の見立てでは後遺症は残らないとのことだったし、ツインターボが痩せ我慢できる程度の痛みだったのが不幸中の幸いか。
実際のところ、ナイスネイチャが進路妨害を確信した理由は降着の理由には含まれていない。理由とは認められないからだ。
あの時、ナイスネイチャは自分の後ろから、
恐らくそれは、ツインターボに芽生えかけた2つ目の"
"
ナイスネイチャの《八方睨み》は"
だから、これらは審議の裁定には影響はしない。しかし、ナイスネイチャにツインターボが先着した可能性を確信させるには十分だった。
ダン! と、叩きつけるようにドアを開ける音が響いた。
全員が音の方向を向く。トウカイテイオーが荒く息をしながら、右膝に手をついてそこに立っていた。流石に、あのレースのあとに走ったらそうなるだろうとナイスネイチャは他人事のように考えていた。
トウカイテイオーの顔面は蒼白で、目は暗く乾いて淀んでいる。トウカイテイオーが、審議のランプが点灯した掲示板を確認する間もなく控室へふらふらと戻ってしまっていたことには気づいていた。恐らく、結果が彼女のトレーナーである安井から伝わったのだろう。
誰かが声をかけるよりも先にトウカイテイオーはよろめきながらナイスネイチャに近づき、半ば叫ぶように言い募ろうとして、言葉を詰まらせた。
「なんでこんなっ……!」
そこから先が出てこない。心に渦巻く
そして、トウカイテイオーが絞り出すように口にしたのは、ただ純粋な感情だった。
「こんなダービー貰ったって……嬉しくない……ッ!!」
胸ぐらではなく腕を掴んだのは、ナイスネイチャの理性がそうさせたのだろう。
「甘ったれるなッ!!」
予想外であろう一言に、トウカイテイオーが目を
「アンタのために、やったわけじゃない……!! アタシは、アタシが納得するためにやったんだっ。アタシはあんな1着を認められない。納得できない。だから、申し立てたんだ……くだらない同情なんかと一緒にするなッ……!!」
それは、この1年に満たない時間で培ってきた、いや、壊れたそれを取り戻してきた、ナイスネイチャのプライドからの叫びだった。
あんな結末を、あんな勝利を、『キラキラ』してるなんて思えない。思いたくないから。
安いプライドかもしれない。でも、それを同情から譲っただなんて思われるのは嫌だった。
「確かに押し付けられるアンタにとっちゃ迷惑な話だと思うよ! でも、そこまで含めて勝負なんだ……っ!」
トウカイテイオーのフォーム改善を、脚の心配をすることを辞めると決めた時に、ナイスネイチャは自分のために走るのだとも決意していた。
トウカイテイオーが自壊覚悟で走るのが自己責任なら、敗北の結果を背負うこともまた自己責任だろうと。
「……これで終わりじゃないんだ、テイオー。菊で待っててよ……アンタに預けたトロフィー、かっぱらいに行くから……」
訥々と口にした言葉に、重い沈黙が生まれる。当事者も、傍観者も、一言も話すことができない。
そんな沈黙に割って入ってきたのは手を打ち鳴らす音だった。
全員が入り口を見る。立っていたのは、着物のような勝負服、イブキマイカグラだ。
「お馴染み4着〜、なんてな。油断しすぎや、ブン屋さんにすっぱ抜かれても知らんよ? うちと
イブキマイカグラは控室のドアが開きっぱなしなっていたことを指してそう忠告すると、ウマホを弄りながら去っていった。
唐突に現れて唐突に去っていったイブキマイカグラを呆然と見送る皆だったが、我に返ったトウカイテイオーがよろよろと控室から退出してようやく、ナイスネイチャたちも我に返った。
「……まぁ、そういうわけだから。どうせあんなんでダービー貰っても今みたいに拒否しても、どっち選んでも後悔するのなんて目に見えてるんだから、アタシはこれでいい、これがいいの。これで納得してるの、ターボ」
「ゔぅ……バカだよ、ネイチャ……ターボよりよっぽどバカだ……」
さしものツインターボも、あそこまでナイスネイチャの覚悟を見せられては、渋々とは言え納得せざるをえない。うつむいて涙をこらえるツインターボの頭を、ナイスネイチャが優しく撫でた。
「戻りました。入っても大丈夫ですか?」
そのタイミングで、網馬が戻ってきた。ナイスネイチャが許可を出すと、網馬が室内へ入ってくる。
その表情は至って平然としており、普段と様子はさして変わらない。
「ライブは選手の肉体的、及び精神的な疲弊を鑑みて、今から更に30分の休憩を入れたのちに行うそうです。それまで選手は待機ですので、好きに過ごしてください」
「わ、かりました」
「いやぁ、月刊ターフから『今回の降着でトウカイテイオーは"
月刊ターフ。アイネスフウジンも一度被害に遭いかけた悪質な出版社だが、皐月賞の敗着を含めトウカイテイオー陣営に忖度している雰囲気がある。
トウカイテイオーを通してシンボリ家相手に媚を売っているつもりなのか、単純にシンボリ家を敵に回すのが怖いのか。
メジロ家やシンボリ家に対する批判も載せている『ハロンを駆ける』の出版社と違い、大きな権力を持つ相手には喧嘩を売らない辺りが完全に小物である。
そして実績があろうと後ろ盾を持たない零細の人間に対してはどこまでも大きく出るのだ。慇懃無礼に傲慢に、世間の声の代弁者だと言い張って。
それが結果的に、彼らが
「えっと……トレーナー、なんていうか、えー……そのー……」
「謝らないでくださいね」
ナイスネイチャが言いあぐねている間に網馬が先んじて釘を刺す。
「貴女が間違っていないと思い、自分が納得できる選択をしたのでしょう? それならその選択を自分で過ちだと認めるようなことはしないでください」
「でもほら……アタシひとりのダービーじゃなかったわけだし、トレーナーにも迷惑かけたわけだから……」
「迷惑なんてかけて当然です。私は貴女のトレーナーなんですから。
その答えは一見すれば綺麗事だ。しかし、それが本心から出たものだと、アイネスフウジンは知っている。「子供のくせに大人に気を使うな」と、乱暴な素の口調で何度も言われているのだから。
それが、彼が自覚を持たなければいけない子供であったことや、責任を取らない大人を見てきたことが原因なのだとは、アイネスフウジンに察することはできなかったが。
「ほら、トレーナーもこう言ってるから、暗くなるのはおしまいなの! 大体、トレーナーはお金持ちだからGⅠ賞金くらい
「あ……でも、テイオーさんには謝ったほうがいいんじゃ……つらそうだったし……」
「何を言ってるんですか。トウカイテイオーに謝るなんて、トウカイテイオーに対して気を遣ったと言っているのと同じでしょう。ナイスネイチャは勝者として自分の都合だけで選択しないといけないんです。トウカイテイオーのことを考えて、勝者が敗者に配慮して選択することは、勝負それ自体を茶番に変えてしまいますから」
それは勝者の権利ではなく、勝者の義務だ。勝負を貶めてはならない。敗者を貶めてはならない。この勝負の結果は一切の忖度なく、ただ力がぶつかり合って出たものであると保証しなければ、勝負そのものが成り立たなくなる。
トウカイテイオーが2着を
そんな網馬の持論を聞いて若干の萎縮を見せるライスシャワーの肩に、アイネスフウジンが手をおいて庇う。
「ちょっとトレーナー。ライスちゃんは対人関係とか不慣れなんだからその辺のズレは仕方ないの! そんなにまくし立てなくてもいいの!」
「お姉さま、フォローはありがたいけど若干抉ってるよ……」
暗かった雰囲気はだいぶ普段のそれに戻ってきている。ナイスネイチャは、心底このチーム《ミラ》に加入してよかったと感じた。
ただ、ライブの時の、トウカイテイオーの未だ強張った表情に、彼女が立ち直れることを誰よりも強く祈っていた。
その後、レース後のトウカイテイオーに跛行*2があったとの声が多数寄せられ、レントゲンによる検査が行われた。その結果『左脚足根骨*3骨折、全治6ヶ月』と診断されたことが発表されたのは、それから3日後のことだった。
☆★☆
「急に押しかけてすみません、ナチュラルさん」
「いいんですよぉ、お仕事忙しいんですもの……こちらこそテイオーもお世話になってるのにお返しもできなくって……」
「それこそ遠慮無用、私がテイオーを気にかけるのは私が好きでやっていることですから」
繁忙期であるこの時期に、なんとかスケジュールに穴を空けることができたのは、日本ダービーが終わったあとだった。
時間はある。しかし、下手に動かしたら完膚なきまでに壊れかねない状態になってしまっていた。シンボリルドルフは、今ほど自分の立場を恨んだことはない。
「では、やはり……」
「えぇ、そのくらいからです。テイオーの雰囲気が変わったのは……」
トウカイナチュラル――トウカイテイオーの母に目的の話を聞く。シンボリルドルフはそれ以前のトウカイテイオーを知らなかったし、トウカイナチュラルはその変化を悪いものだとは察していないようだ。
第51回日本ダービー。その日を境にトウカイテイオーに起こった変化を聞いて、シンボリルドルフはトウカイテイオーの心の闇に、ひとつの確信を抱いた。
「……責任、か」
トウカイナチュラルが一度奥へと引っ込んだときに、シンボリルドルフはそう溢した。
ウマホを見る。マルゼンスキーからSMSで送られてきたのは「テイオーちゃんの目、思い出した」という言葉と2枚の画像。それでシンボリルドルフはすべてを察して、最後の確認としてここにやってきていた。
マルゼンスキーにも感謝のメッセージを送った。きっと彼女も思い出したくないものだっただろう、記憶に蓋をしていただろうから。
「お待たせしました。これ、お土産ね」
「すみません、頂戴します」
「それと……よかったらこれ、テイオーに渡してもらえないかしら……あの子、学園に行くときに忘れていってたのよね……」
それは、1枚の写真だった。数人の友人たちと遊んでいる写真だろうか、同じ年頃の子供たちがトウカイテイオーと一緒に写っている。
トウカイテイオーは学園入学から、一度も帰省していない。これを渡す機会がなかったのだろう。シンボリルドルフは、それを受け取って今度こそトウカイテイオーの実家をあとにした。