万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい   作:仙託びゟ

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折れていた心

「テイオー」

 

 暗いそこに、トウカイテイオーはいた。

 大慶祭前の5月末、まだ手入れもされておらず、ホコリが溜まったあの神社裏の隠れ家。ランプがなければ先も見えないような洞穴の奥のベンチで、トウカイテイオーはひとり膝を抱えて座っていた。

 もうじき初夏だというのに乾ききった空気は、トウカイテイオーの心を表しているようだ。トウカイテイオーはこれまで、皐月で夢潰えたあの日からこれまで、一度も泣いていない。泣けていない。

 

「カイチョー……なんで……」

 

「マヤノトップガンから聞いた。テイオーならここだろうと」

 

 シンボリルドルフの顔を見たマヤノトップガンは薄く笑って「会長さんもわかっちゃったんだ」と呟き、トウカイテイオーの居場所を教えた。「マヤやテイオーちゃんのトレーナーさんじゃダメなんだってわかっちゃったから……」と言って。

 シンボリルドルフの予想通りなら、確かにこの問題を解決できるのは、恐らくシンボリルドルフだけだろう。

 シンボリルドルフは持ってきたランプを机の上に置くと、トウカイテイオーの隣に座った。

 

「カイチョー……ボクの脚、壊れちゃった……」

 

「…………」

 

「マヤノからもネイチャからも言われたけど、最初から知ってたんだ……それでも、三冠が欲しくて……カイチョーみたいになりたくて……でも、全部ダメになっちゃった……」

 

 トウカイテイオーの骨折は、競技生命を絶たれるほど絶望的なものではない。医者の言う通り、安静にして治ったあとに復帰トレーニングを施せば、現役復帰は十分に叶うものだ。

 しかし、その先で得られる栄光がシンボリルドルフに並ぶことは、恐らくないだろうとトウカイテイオーは覚っていた。

 そんなトウカイテイオーを見据えて、シンボリルドルフは自分の至った真実が間違っていないという確信を強くする。そして、今まで気づかなかったことを恥じた。

 

「でもね、カイチョー……違うんだ……全部ダメになっちゃったのも悔しいんだけど、そうじゃないんだ……わかんない、わかんないんだけど……ボク、()()()()()()()()()んだ……ねぇ、なんでなのかな……全然泣けないんだよ……」

 

 自分で既にそこまでは気づいていたのかと、シンボリルドルフは一度目を閉じて、改めてトウカイテイオーと向き合った。

 

「……テイオー、私は君の師だよな?」

 

「カイチョー……?」

 

「だから……いや、よそう、言い訳は。これは私のエゴだ。ただ、私は君に乗り越えてほしいと願ってる」

 

「カイチョー、何、言って……」

 

「向き合うときが来たんだよ、テイオー。君が安堵しているのはな」

 

 シンボリルドルフは、突きつける。ここですべての(もつ)れを解こう。一度すべてを終わらせよう。それが歪みに気付けなかった自分の取るべき責任だと。

 

「それは、ドリームカップに出なくて済むから……私と、シンボリルドルフと同じレースで走らなくて済むからだよ」

 

「……ぇ」

 

「マルゼンスキーに言われて、ようやく違和感を抱くようになった。あれだけ負けず嫌いで意気軒昂な君が、これまで一度として『シンボリルドルフを超える』と言わなかった。君が掲げた無敗三冠を達成すれば、私と直接対決できるドリームカップへ招かれるのは確実であるにも(かか)わらずだ。テイオー、君は……」

 

 マルゼンスキーが、送ってきた画像を思い出す。そこに写っていたのは、マルゼンスキーではなく一般のカメラマンが撮ったであろう、マルゼンスキーと同じ世代を走っていたウマ娘の写真だ。

 その目は、ふとした瞬間に現れるトウカイテイオーの闇と同じ色をしていた。あるいはこれはシンボリルドルフも知らないことだし、マルゼンスキーも記憶の片隅に引っかかっただけなのだろうが――チーム《ミラ》に加入する前のナイスネイチャと同じ目を。

 それは、圧倒的な才能を前に、心が折れてしまった、そんな目。

 

「君は、私を超えることを、私に勝つことを諦めていた。私に会ったあの日本ダービーで、既に」

 

 シンボリルドルフの突きつけた真実は、トウカイテイオーの心にストンと落ちた。反発も否定もする間もなく、深い納得とともに、心の隙間へとカチリと(はま)った。

 刹那、トウカイテイオーの顔から苦しみが抜け落ちる。そこにあったのは、虚無だった。自分自身からさえ隠し通していた、天才の抱える埋められない虚しさ。

 

「テイオー、君は紛れもなく天才だ。素質だけなら私を上回る。君はこれまで負けたことがなかったのだろう。事実、非公式戦含め皐月賞まで無敗だった。だけどだからこそ、私の日本ダービーを見て『絶対に勝てない』と思ってしまった」

 

 シンボリルドルフの走りは、そういう走りだ。圧倒的なスピードでレコードを刻むわけでも、数バ身の大差をつけて勝つわけでもない。ただ、レースそのものを支配し、最後にほんの少しだけ上回って勝つ。

 そのレースを見て、つまらないと言う者もいる。レコードや着差というわかりやすい指標がないから。しかし、トウカイテイオーから見たそれは違う色を帯びていた。

 先が見えない、果てが見えない、例えそのシンボリルドルフを超えたとして、瞬きのあとには、またそのほんの少し先に背中が見えるような、どこまで行ってもほんの少しだけ上回ってくるような、決して越えることのできない壁。

 トウカイテイオーはシンボリルドルフに、誰よりも"絶対"を見ていた。

 

「それは、極まった負けず嫌いである君には耐え難い真実だった。自分が一番速い、そうでなくてはならない、そうでないなら上回らなければならない、しかし、どうやっても勝てない。そんな苦悩の末に、君の願いは歪んだ。私を超えることから、私を超えたと()()()()ことへ」

 

 自分はシンボリルドルフを超えることができない。自分はシンボリルドルフを超えたと自分で認めることができない。

 だから、自分ではない誰かに認めさせる。

 シンボリルドルフに憧れていると、シンボリルドルフのようになりたいと公言して、シンボリルドルフと比較させよう。

 無敗の三冠、GⅠ7勝、シンボリルドルフの歩みをなぞろう。そうすればきっと、トウカイテイオーはシンボリルドルフと同じになれる。

 シンボリルドルフと直接戦わずとも、シンボリルドルフのいる場所へ行くことができる。

 当然、そんなことをトウカイテイオーが考えていたわけではない。そんな打算はどこにもなかった。トウカイテイオーの中にあったのはただ、自分の心を守ろうとする本能。

 

「ナチュラルさんに聞いたよ。君は私の日本ダービーを境に雰囲気が変わった。より活発に、より積極的になった。そして、レースで加減をしなくなった。それは反動だ」

 

「あ……は、はは……そうか、ボク、諦めてたんだ……最初から……」

 

「防衛機制の『摂取』、『取り入れ』とも言うらしい。それか、もうひとつ進行した『同一視』か。いずれにしろ、恥ずべきことではない」

 

 自分にとって理想的な相手や立場を模倣し、不都合な事実から逃避することで心を守る本能。

 マルゼンスキーを見たウマ娘がレースから身を引いて心を守った『逃避』や、トウカイテイオーを見たナイスネイチャがショックを和らげるためにした『抑圧』と同じ。

 それは心が持つ本能であり、何もおかしいことはない。

 

「ただ、それがある限りは、先へは進めない。だから乗り越えなければならないんだ、テイオー」

 

「無理だよ……カイチョーに勝てるわけない……それにボクの脚は……」

 

「治る。医者もそう言っていたのだろう。諦める理由にはならない。私だって故障した。しかしそのあと菊花をとったんだ。テイオーだって……」

 

「無理だよ!! カイチョーを超えられるわけない! カイチョーは……シンボリルドルフは絶対なんだ……七冠ウマ娘で……そんなの……勝てっこないよ……」

 

 トウカイテイオーは、泣いていた。どれだけ絶望の底にいても流れることのなかった涙が、彼女の瞳から溢れて、木のベンチに吸い込まれた。

 ナイスネイチャがトウカイテイオーに勝つことを認められなかったように、トウカイテイオーはシンボリルドルフに勝つことを認められない。神格化してしまっている。

 だが、トウカイテイオーはようやく自分の心と向き合うことができた。ここからが正念場だ、と。シンボリルドルフは一度大きく深呼吸してから、トウカイテイオーに語りかけた。

 

「テイオー、君は、私の日本ダービー以外に私のレースを見たことがあるかい?」

 

「…………、……ない……」

 

 記憶を探ってみても、トウカイテイオーの脳裏に浮かぶのはあの日本ダービーだけだ。無意識のうちに避けていた。シンボリルドルフの走りを見ることを拒んでいた。

 シンボリルドルフは「そうか」と一言呟いて、一度目を閉じた。

 考える。マルゼンスキーが自分のトラウマの瘡蓋(かさぶた)を剥がしてまでヒントを与えてくれたんだ。トウカイテイオーの心の底に無遠慮に立ち入って、隠れていた本心を曝したんだ。自分が自分に同じことをするのに、なぜ躊躇する。

 少しの沈黙ののち、シンボリルドルフは語り始めた。それは、シンボリルドルフの古い傷であり、シンボリルドルフが『皇帝』となったきっかけ。

 

「テイオー、私はな、()()()()()()()()()()()()




 ここまで張ってきた伏線がちゃんと機能してるのかどうか。それが心底心配です。

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