万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
11月17日、京都レース場、マイルチャンピオンシップ。
澄んだ空気に陽光が差し込む晴天。雲ひとつない快晴の空の下、日本が注目するレースが始まった。
スポットライトが当たっているのは当然ながら、凱旋門賞ウマ娘アイネスフウジン。そしてそのインタビューで言及された、
はっきり言って、ダイタクヘリオスが警戒される意味を理解できている者は少なかった。確かに阪神ジュベナイルフィリーズに勝利し、昨年のサマーマイルシリーズを制覇したマイラーとしての実力はあるのだろう。
しかしGⅠそれ自体はその阪神JF以外には短距離の高松宮記念しか勝っていないし、アイネスフウジンとの対戦ではすべて先着を許している。
何より、彼女は巫山戯ていた。今でこそツインターボという成功者がいるが、彼女が始めたその時には無謀そのものであった破滅逃げ――もとい、爆逃げ。時には自爆逃げと呼ばれるそれで勝てたことは一度もない。
彼女の勝利はすべて好位からの抜け出しか一般的な大逃げだ。いや、大逃げ自体もそれなりに珍しいのだが、それでも彼女の
それに比べた爆逃げはなんの研鑽もない、ただ走っているだけとさえ言える。
それでもアイネスフウジンは彼女を警戒していた。今から1年以上前に網馬から言われた一言が頭から離れないでいたからだ。
『バカ』を見て笑っていたはずが、『バカを見る』羽目になりかねない。
「わかってるな、アイネス」
「わかってるの、トレーナー」
他のチームメンバーを先に関係者観戦席へ送り出したあと、網馬はアイネスフウジンに最後の指示を出していた。
「ダイタクヘリオスの直近のレースは昨日見せた通り、ダイタクヘリオスが逆噴射するまでの距離は少しずつ延びている。ただ単にスタミナを上げてきているだけだから1600mを破滅逃げで走りきれるとは思えないが、単純なスピード勝負ならお前は追いつけない」
「破滅逃げが成功したら勝てないってこと?」
「あぁ、間違いなく勝てない。だから、成功する可能性は考えても無駄だ。成功しないことを前提に動け。だが、逆噴射してもセーフティリードをもぎ取られる可能性がある。出し惜しみはせず、できるだけリードをされないような位置で追走しろ」
「蓋をするって手は?」
「相手が出遅れればそれもアリだが、出たタイミングが少し早い程度じゃお前の加速力で蓋は無理だ」
網馬は分析の結果を誤魔化さない。無責任に慰めるくらいなら、責任を持って傷つける。
アイネスフウジンもそれを理解しているから、その言葉をしっかりと飲み下す。
「もちろん否定できないのは、破滅逃げではない大逃げをしてくる可能性だ。その場合、ダイタクヘリオスの失速は期待できないだろう。それに……」
「直近のレースが
「そうだ。ツインターボとは違う。演技くらいはできるだろう」
最高速度だと思っている速度がそうでないかもしれない。スパートに見せかけて脚を溜めているかもしれない。皮肉にも、ツインターボが他陣営に与えていた疑念を、網馬は抱くこととなっていた。
「下りでスパートをかけて、最終直線より前にダイタクヘリオスを抜く。そして、最終直線で"
「あとは状況に応じて判断……なの」
網馬はアイネスフウジンの答えに頷くと拳を突き出す。アイネスフウジンはそれに自分の拳をぶつけ、にやりと笑う。
「行ってこいアイネス。負けても笑って迎えてやるよ」
「レース前から担当が負けることを考えてるなんてふてぇトレーナーなの」
アイネスフウジンは踵を返しターフへ向かう。網馬はそれを見送って観戦席へと移動した。
全馬ゲート入り完了。ゲートが開くと同時にアイネスフウジンが飛び出した。ただそれだけで、観客席が沸きに沸く。そしてすぐにアイネスフウジンを躱しハナに立ったダイタクヘリオスにもまた歓声。
網馬による警戒の発言のお陰で、マイルにおけるダイタクヘリオスはアイネスフウジンに匹敵しうる実力を秘めていると、懐疑的ながらもそう思われていた。
ハイペースで淀の向正面を走り抜け上り坂へと辿り着くと、ダイタクヘリオスは僅かにスピードを落としながらもそれを駆け上がっていく。
アイネスフウジンはそれを追走しながらも考える。これは破滅逃げなのか、それとも大逃げなのか。今のは坂の失速なのか、それとも脚を溜めているのか。
(実際にターボちゃんと模擬レースしたことはなかったけど、ここまで厄介だとは思わなかったのっ!!)
今までのダイタクヘリオスは確実に失速するだろうという確信があった。だからあまり気にせずに自分のペースを保てた。
しかし、実際に二者択一を迫られるだけでこれほどまでに揺れ動かされるとは想像しきれていなかった。
ナイスネイチャほどレース中に考える余裕のないアイネスフウジンは、ダイタクヘリオスが残る体力で逃げ切れるものだと仮定して行動することに決めた。
下り坂を使えば一時的にダイタクヘリオスのスピードを超える速度を出せ、ダイタクヘリオスを躱せる。逆にダイタクヘリオスが坂を使って加速してしまえば、スタミナは保たずに尽きるだろう。
スタミナに
淀の坂を駆け下りていくアイネスフウジンに躱されながらも、ダイタクヘリオスは笑う。まだ諦めない、勝ちたいからじゃない、負けたくないからじゃない、当然そのふたつもそうだけれど、何より楽しいから。
こうして競い合って、同じレースで全力を出し合うのが楽しいから。
(ヤバ、やっぱバイブスアガるわ! つか病みながら走るとかぶっちゃけムリぢゃね?)
お気に入りのお嬢様が最近暗い。理由はわかっている。怪我しがちな友人がレースから身を引くからだ。
(そりゃ、ぴえんこえてぱおんみたいなコト起こってメンブレしてんのはわかるけど、いつメンが無限にサガッてんの見たくないし、だからってお嬢様がアガるようなエモいパワワとかわからんし、それでイキってるってリムられたらつらたにえんだし!)
ダイタクヘリオスは切り替えが早い。感情は一過性でしかないことをよく知っている。表面的な感情なんてコロコロ変わって、心の底からの感情は忘れていても折に触れて思い出すものだ。
それを不真面目と捉える者もいるが、しかし、少なくとも目の前の出来事に対して、ダイタクヘリオスはとても真摯だ。
(じゃーもうウチは走るしかない定期ってことで、いつものムーブしか勝たんワケよ! 『
泣きたいときは泣けばいい。泣きたいときに笑うよりよっぽどいい。我慢せず泣くだけ泣いて、笑えるようにすればいい。
どんな悲しみが心を覆っても、必ず笑える日が来るとダイタクヘリオスはいつだって主張する。勝っても負けても、笑わせても笑われても、笑顔ならば万事こともなし。
(だって、アガんない太陽なんて絶対ない!! 見とけお嬢様!!)
ダン! と。
力強い踏み込みの音に気を取られたアイネスフウジンは思わず後ろを確認して、そこにダイタクヘリオスがいないことに気づいた。
それと同時に、背中を焼け付くような暑さが襲う。もっと速く走れと急かすような、心の底から浮かされるような熱量。それはさながら、照りつける太陽。
最終直線に入る直前に、ダイタクヘリオスは外からアイネスフウジンを差し返した。ダイタクヘリオスが脚を残している可能性も、最高速度を誤魔化している可能性も、アイネスフウジンは考えていた。その上で、ダイタクヘリオスはそれらが最も効果的な瞬間に使ってきた。
太陽の熱に押されるように、ダイタクヘリオスがワープのような急加速を見せる。アイネスフウジンとの距離がジリジリと開いていく。
およそ1バ身半。一度開いてしまったその距離はまさに、皐月賞でトウカイテイオーがツインターボに開かれた絶望の1バ身半の再現。"
奥歯を噛み締めて、アイネスフウジンが前傾体勢をとる。ハイペースが原因で、後続が近づくことでの"
意地で半バ身を縮める。アイネスフウジンが"
競り合いで乱気流が追い風へと変わる。アイネスフウジンとダイタクヘリオスが並び、ゴールの直前にアイネスフウジンがギリギリ前へ出る。
そしてゴールの瞬間、ダイタクヘリオスが大きく前へ跳んだ。
アイネスフウジンが目を瞠る。観客が沈黙する。ダイタクヘリオスのトレーナーが思わず立ち上がる。
ダイタクヘリオスは走っていた勢いでつんのめって、何度か飛び石を跳ねるようにして勢いを殺したあと、ゴロゴロとしばらく転がってから止まった。
観客席はざわつき、無事なのか、どっちが勝ったなどと言い合っている。ダイタクヘリオスのトレーナーが関係者観戦席から飛び出してダイタクヘリオスの下へ駆け寄る。
「ヘリオスーー!!? なにやってんの!? なにやってんのお前!? お前この……お前ーー!?」
「んぁ? トレピぢゃん、わっしょい」
「わっしょいじゃねんだわ!! バカかお前!? いや担当を疑うのはトレーナー失格だな、バカだお前!!!」
一見すれば中学生男子に見える童顔低身長なこの青年こそダイタクヘリオスのトレーナーであり、もちろん成人している。
声変わりしながらも高さを保っている声はヤングアダルトと言った雰囲気を持っていて、彼は小中学生のときに図書館のヤングアダルトコーナーを警戒して近づけなかった過去を持つ。
「あ、そだ! 結果! 勝った!?」
「わからん、今写真判定中で……あっ」
トレーナーが掲示板の方を見たとき、写真判定の表示が消えて順位が確定する。
3着までの着差は4バ身。そして、ハナ差の1着は7枠12番。ダイタクヘリオス。
目を丸くして、事態を飲み込んで、盛大に笑いながらトレーナーの首に腕を回しながら、ダイタクヘリオスは叫んだ。
「うぇーーーーい!! うぃなーーーー!!」
「ヘリオス! 苦しい! 絞まってるから!」
凱旋門賞ウマ娘アイネスフウジンはおろか、バンブーメモリーより下の3番人気での勝利。しかしながら、観客席からは惜しみない歓声が贈られる。
そのレースは盛り上がるに足るものだったから。ダイタクヘリオスの笑顔と奇想天外な一手は、見事に観客の心を掴んだ。
負けたアイネスフウジンも、それを見ていた網馬も笑っている。全力を出して、してやられた。侮ることなく、しかし上回られたのだ。さっぱりとした悔しさに笑うしかない。
そして、凱旋門賞ウマ娘を制したジャイアントキリングに、ダイタクヘリオスのトレーナーはまったく驚いていない。最初から最後まで、彼はダイタクヘリオスの勝利を信じていた。
だって子供でも知っている。北風と太陽では、太陽が勝つのだと。
「……ルビー」
「皆まで言わないでください。彼女が何を言いたいのかは、普段の会話よりも余程よく理解できましたから」
ダイイチルビーは一度大きく溜息を吐き、車椅子のハンドルに突っ伏した。ケイエスミラクルははしゃぎまわるダイタクヘリオスを見て柔らかく微笑む。
「お嬢様ーーーーーー!! 見てるかーーーー!! 勝ったぞーーーー!!」
「……ルビー」
「……皆まで言わないでください……」
頭を抱えたダイイチルビーに、ケイエスミラクルは苦笑する。憂いは晴れただろうかと空を見上げて、その青さに目を細めた。
「……いいなぁ」
呟いたのは、走る意味を失くしていた令嬢。彼女はただ、その輝く笑顔に強く惹かれた。
昔々の、まだ何も知らずに走っていたあの頃を思い出す。そうだ、そう言えばそうだった。あの頃は使命とか、意味とか、そういうものを求めてなんていなかった。
走るのは、楽しいんだ。競うのは、楽しいんだ。
メジロパーマーの頬を涙が伝う。それなのに、心の底からは笑いがこみ上げてくる。令嬢らしくなく、服の袖で雑に涙を拭いながら、メジロパーマーは笑う。
子供に戻ろう。期待されていないなら、何も背負っていないなら、むしろ都合がいいじゃないか。自分のためだけに、楽しむために走れる。
どうせなら、最高に楽しく走ってやろう。そして、今度はセンターの振り付けを。
「頼んだら教えてくれるでしょうか、爆逃げ」
暗雲は晴れた。目の前には道がある。水たまりもぬかるみもあるけど、もう汚れなんて気にしない。
泥だらけになりながら走っていこう。メジロパーマーは快晴の下を再び歩み始める。まずは友達を作ろうと、太陽に手を伸ばしながら。
淀の空は、快晴ナリ。
『俺は医学の天才だ』の名門についての説明に修正を加えました。
オースミ・ナリタ一門
→オースミ流、ナリタ流
調教師によって冠名を使い分けていたことを反映し、指導方針の違いで独立したことにしました。
マチカネ一派
→マチカネ一門
オースミ・ナリタ一門から一門をこちらに変更しました。マチカネに門という字を使いたかったので。