万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
観客の多くが、あるいは出走したウマ娘の多くがこう思った。
「ナイスネイチャがまたなにかやった」
事実、実況などは『12番メジロパーマー飛び出しました!! 3200mを走るにはあまりにも速いペース、誰かがなにか仕掛けたのか!?』とほぼ断定に近い推測まで立てていた。
スタート直後、数人からのマークによって若干動きを阻害されたナイスネイチャは、ポーカーフェイスを維持しながらも当然その展開に驚いていた。
(いやいやいやいやアタシじゃないし!! そんな見てこなくても……いや、見られてるならそれはそれでやりようはあるけどさ!)
マークに付いたウマ娘を寄せて、後方の強敵を妨害する後々の布石として配置しながら、ナイスネイチャはメジロパーマーについて考察する。
ハッキリ言って、メジロパーマーはナイスネイチャが最も苦手とする走り方をしてきた。すなわち大逃げ、あるいは破滅逃げ――彼女たち曰く爆逃げ――と呼ばれる作戦だ。
周りのウマ娘をけしかけるにはある程度条件を満たす必要があり運が絡むし、視線による威圧もここまで距離が開くと効力が減ってくる。
なにより、あのハイペースで走り続けることによって周りのペースが乱れ、その都度作戦の修正が必要になる。微調整が増えるほど、ズレが溜まっていく。
単にハイペースになるだけなら後方脚質のナイスネイチャに都合がいいが、いくら脚を溜めたところでナイスネイチャはさして
(ターボやアイネス先輩と併走やら模擬レースしたことはあるけど、やっぱサッパリわからないわ……どうやってちょっかいかけんのよあんなん!!)
あるいは、はじめから来るとわかっていれば備えようはあるのだが、まさか3200mを大逃げしてくるとは思っていなかったが故の油断。
後の布石を今のうちに敷きながらメジロパーマーへの対策を考えるナイスネイチャ。一方、メジロパーマーの動きはナイスネイチャとは無関係であると確信している者もいる。
(ふーん……あら掛かった動きやないなぁ……動きに硬さがないし、周りを気にするでもない……おもろいなぁ、3200を逃げきるつもりなんや……)
序盤の追込特有の視野の広さで読み取ったメジロパーマーの様子からそれを看破したのはイブキマイカグラ。菊花賞の結果を踏まえて前目に構えるつもりだったが、ハイペースの消耗戦を見据えて脚を溜めることにした。
(ネイチャの仕業……にしてはメリット薄いよね。同じメジロだし、マックイーンのラビットなのかな……勝つ気があるにしろないにしろ、ボクの場合まずこの距離を走り抜くことができるかどうかだ。よそのことを気にしてる余裕はないし、掛からないようにだけ気をつける……!)
トウカイテイオーがメジロパーマーをラビットだと考えた理由は妥当なものである。誰が一番得をするのかと聞かれれば、このハイペースでも十分勝負できるメジロマックイーンなのだから。
しかし、その予想の正否に関係なく、トウカイテイオーはまずこの初めての長距離レースで万全な勝負ができるかどうかを課題とした。
関係者観戦席でそれを眺めるチーム《ミラ》のメンバーも、メジロパーマーの行動にざわついていた。
「なにあれ……あれで逃げ切れるわけ?」
「多分逃げ切れると思うの」
「えぇ、末脚は期待できませんが、勝負できるところまで粘れると思いますよ」
ナリタタイシンの呟きにアイネスフウジンが、ついで網馬がそう予想を返す。試しに説明してみろと促す網馬の目線を受けたアイネスフウジンは、自身がそう思った理由を説明していく。
「少なくとも、本人はヤケになっての走りとか掛かりとか、ラビットみたいに勝つ気がないわけじゃなくて、勝つための大逃げをやっているの。逃げって結構自分の精神状態に左右されるから、集中できない状態でやろうとするとあっという間に潰れるの。でも、パーマーさんはスタートからここまで一度もランニングフォームを崩してない、それどころか、すごくきれいな形で走ってる。全身に集中力が行き渡ってる証拠なの」
「加えて言うなら、メジロパーマーはこの天皇賞まで何度か障害競走へ出走していました。ご存知の通り、障害競走は3000mが当たり前の世界です。それほど良い結果を残せていなかったのはスタミナ面ではなく障害を越えるのが苦手だったためであるそうなので、恐らく十分なスタミナを持っているかと」
アイネスフウジンの説明を網馬が補足する。それを聞いていたナリタタイシンは、納得とともに浮かんできた疑問を口にした。
「じゃあ、なんでそれを
網馬の口ぶりは、まるでメジロパーマーがこの作戦を実行することを予測していたかのようだった。確実性がないにしろ、可能性があることを先んじて知らせておくだけで、ナイスネイチャの対応にも幅ができていたはずだ。
それを怠った網馬に対する疑問は正当なものだったが、これに網馬が返したのもまた、一理あると思わざるを得ないものだった。
「
そう言われて、ナリタタイシンは今度こそ納得したように眼下のレースを観る。向正面から始まったレースはスタンド正面を通り過ぎ、第1コーナー――この場合は先に第3、第4コーナーを通っているので、この第1コーナーが3つ目のコーナーになる――を過ぎて第2コーナーへ入ろうとしている。
レース前半が終わり、ややもすれば後半戦。中だるみしやすい長距離レースも、ようやく動き始める。
(やっぱそう簡単に逃してはくれないか……いやー、昔の口調に戻しただけなのに慣れないなぁ!)
逃げて差せるわけでもなし、できるだけリードを開いておきたいメジロパーマーの思惑に反して、メジロマックイーンは付かず離れずしっかりと追走してくる。
ライスシャワーのようにマークするわけではない。仮にメジロパーマーがペースを変えようと、ただ自分のペースでスタミナ管理をし続ける。
メジロマックイーンがステイヤーとして秀でているのは肉体面だけではない。例えば
(これが、この走りがあなたの答えですのね、パーマーさん)
メジロマックイーンはレース中であるにも関わらず、メジロパーマーの走りに見惚れていた。今までのメジロパーマーの走りとはまるで違う、何に縛られることもない自由な走り。
まだ自らの背負うものも、行く先も、何も知らず考えずに走っていたあの頃のような走り。それは、メジロの名という
(自分のために走るあなたの選択を肯定します。自分のために走ることのできるあなたの現在を祝福します。しかし、私がそれを羨むことはあってはならないのです)
妬むことも、望むことも、羨むことでさえ。一滴の迷いは決意を濁らせる。そのような心構えで栄えある天皇賞の盾を頂くことなどできるはずがないのだから。
自らの信念をメジロに捧げた。自らの心を支える役割をメジロという矜持に預ける対価に、メジロ家の名を背負った。
(ですから、容赦はいたしません。全身全霊を以てあなたを打倒いたします。お覚悟を)
向正面、淀の坂に差し掛かる。レースも終盤に入り、ハナを進むのは変わらずメジロパーマー。メジロマックイーンが先行集団の先頭で追走し、中団の差し気味の位置にトウカイテイオーとナイスネイチャ、イブキマイカグラはまだ最後方。
長く大きな上り坂が、これまですり減らしてきたスタミナをさらに削っていく。メジロマックイーンはそれを踏まえてスタミナを使ってきたためにまだ余裕がある。
(余裕があるのは、わかってる……よっ!!)
ナイスネイチャの溜め込んできた負の情念を視線に込めて睨みつける。その不穏な雰囲気を、レースの興奮で鋭敏になったウマ娘の感覚が過剰に捉え、伝達してしまう。
(来たっ!! ネイチャのっ……ぐぅ、相変わらずキツい……!!)
(ッ! ……いえ、大丈夫、想定内ですわ。これならまだ問題ありません……)
(これがヘリオスの言ってた……なるほど、これはキツい……!)
ナイスネイチャの放つ悪意が前方脚質のウマ娘たちを襲う。トウカイテイオーとメジロマックイーンはそれを受け、脂汗をかきながらも堪える。メジロパーマーは単純な距離の壁である程度削がれたそれにヒヤリとした感覚を覚えるが、それでも体勢を崩さずに走る。
(このくらいなら、社交会の
メジロマックイーンに比べて、メジロパーマーは多くの悪意を上流階級という環境から押し付けられてきた。だからこそ育てられた悪意への耐性。
(まだまだ、これも……ッ!!? っぐ、この、感覚……)
(もうあんさんだけの専売特許とちゃうんよ? ネイやん?)
ナイスネイチャが先団への目くらましを仕掛けようとしたタイミングで、イブキマイカグラの妨害が入る。纏わりつくような感覚に足を引っ張られ、ナイスネイチャも、もちろんそれよりも前のウマ娘たちも、一瞬、ほんの少しだけ失速する。
そして、ナイスネイチャの背後にイブキマイカグラが立った。
(ほな、いただきます)
直後、紅葉が舞った。
ナイスネイチャの視界を埋め尽くす紅い落葉。不規則に舞うそれに視線を誘導され、ナイスネイチャの平衡感覚が変調する。
過剰に荒くなる息がナイスネイチャのスタミナを奪う。そんな一瞬の攻防の後、ナイスネイチャはイブキマイカグラの背を追っていた。
(まずい……ここで仕掛けられたら、アタシも仕掛けないと間に合わない!!)
ナイスネイチャとイブキマイカグラが仕掛ける。しかし、それを見送りながらもトウカイテイオーは仕掛けることができない。
(っぐぅ…………スタミナが足りてない、ダメか……でも、最後まで足掻く!)
最終コーナーを過ぎたメジロパーマーが、速度を抑えながらも坂を駆け下りて最終直線へ入る。それを追うメジロマックイーンは最終コーナーからロングスパートをかける。
(さぁ来いマックイーン!!)
(時は来ました。参ります!!)
最終直線半ば、ナイスネイチャとイブキマイカグラがメジロマックイーンのすぐ後ろまで迫り、そしてメジロマックイーンがメジロパーマーに並びかけ、追い抜く。
「ッ、まだだぁ!!」
「っ!?」
それを、メジロパーマーがさらに差し返す。再び先頭はメジロパーマー。しかしメジロマックイーンも譲らない。その表情を見た者は、誰ひとりとして彼女のことをラビットだなどと呼ばないだろう。
全員が懸命に脚を動かし、我先にとゴールを争う。そこに、忖度や手心など介在する余地はないのだと言わんばかりに。
だから、メジロパーマーが失速した瞬間、悲鳴さえあがった。
メジロマックイーンが先頭でゴール板を駆け抜け、ほんの僅かな差でイブキマイカグラが、ナイスネイチャが、そしてメジロパーマーが順位を決定づけた。
メジロマックイーンからイブキマイカグラまで半バ身、そこからハナ差でナイスネイチャ、またハナ差でメジロパーマー。1着から4着まで1バ身差に満たない接戦。
制したのは、去年の王者。ステイヤーのハイエンド。
『名優』メジロマックイーン。
歓声に応えるメジロマックイーンを背に、メジロパーマーは地下バ道へと向かう。敗北は敗北、それでも、メジロパーマーの胸中にあるのは爽やかな悔しさだけで、暗澹たる膿は残っていない。
パサリと、そんなメジロパーマーの顔にタオルが被さる。
「パーマー、おつ!」
タオルをどけたら、太陽があった。
相方が負けたのに満面の笑み。いや、それは勝ちよりも大切なものを知っているからこその笑顔。だから、メジロパーマーもそれに応える。
「楽しかったっしょ? ナイス爆逃げ!」
「うん、楽しかった……またやりたい、次は一緒に」
「おけまる!!」
ふたりが拳を突き合わせる。これで終わりじゃない。まだいくらでも先がある。これを始まりにする。
その後、半泣きになりながらハムスターのようなメジロパーマーのトレーナーが突進してきて、メジロパーマーが鼻水だらけの勝負服でライブをする羽目になったのも、まぁご愛嬌。