万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい   作:仙託びゟ

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悪夢か

 ゲートの開放と同時に、ミホノブルボンがハナを取る。そこからはいつもと全く同じ光景だ。

 外からはわからない、彼女の内側だけに展開される"領域(ゾーン)"、星々の浮かぶ黒い海をひとり走る。

 

 それは彼女の夢の象徴だ。望まれるがままを返すだけの、他者の常識の中でのみ生きるロボットでしかなかったミホノブルボンに夢と憧れを与えた、星の海を縦横無尽に駆け巡るエネルギーの塊たる戦闘機。

 自らの体をその憧れに(なぞら)えて、常識の重力から解き放たれ、ただ夢という星に向かって突き進む。

 夢への航路に、羅針盤や地図などという便利なものはない。だから、ただ刻々と進む時間の中で、己の居場所だけをハッキリと自覚して一歩一歩進み続ける。

 

 日本ダービーは、これで優勝候補が3年連続で逃げをうったことになる。そして前例の2回ともに、最後までペースを落とさずに逃げている。片方に至ってはそれでダービーを獲っている。

 もはや、ミホノブルボンがこの2400mを逃げ切ることを疑う者はほんの一握りだ。

 そして、そんなミホノブルボンの目下のライバルとも言える、ライスシャワーが後ろにつく。スリップストリームを求めて他者の後ろにぴったりとマークすることは珍しいことではないが、ミホノブルボンほどハイペースで走る相手の後ろにつくなど自殺行為でしかない。

 

 ライスシャワーの身体的な適性は本来逃げだ。有り余るスタミナを使って相手をすりつぶす、パワーをそのままスタミナに変換したアイネスフウジンとも言えるのが彼女の脚質である。

 にもかかわらずなぜライスシャワーが先行という作戦を採っているの かと言えば、それは逃げに精神的な適性がまるでないからだった。言ってしまえば、ライスシャワーは追う対象がいなければポテンシャルを発揮しきれないのだ。

 自分よりも強い逃げか先行がいるときに真価を発揮する、天性の追跡者。それは、まさにミホノブルボンの対極に位置する能力だった。

 ちなみに、差しや追込はどうかとなると、今度は身体的な適性の壁が存在している。差しは訓練次第でできるかもしれないが、追込は難しいだろう。

 後続との差が開く。日本ダービーという大舞台、2400mというクラシック級前半では長い距離、精神的、肉体的両方に強い負荷がかかるこの状況で、先頭のふたりだけがいつも通りの自然体で走っていた。

 

(……くそっ、やっぱ、走りにくい……!!)

 

 先頭から離れた集団で、ナリタタイセイが心中で毒づく。原因は、ライスシャワーだった。

 ライスシャワーの呼吸は、非常に独特なリズムで行われている。それは、彼女の肺活量であったり、常人との精神的なズレから発生する特徴だ。

 先頭から離れたと言っても先頭のミホノブルボンから2バ身から3バ身、メートルにして5mから7.5m程度。ライスシャワーとはさらに近い。レース中の鋭敏な聴覚なら、それこそ1m程度しか離れていないくらいのと同じ程度の感覚だ。

 だから先行で走るウマ娘たちにとっては、ライスシャワーの呼吸音は、自らのペースを乱す毒となる。それだけではない。ローペースな呼吸と裏腹に回転の速いピッチも、不規則に揺れ動く長髪も、彼女たちを惑わす無自覚の牽制として機能していた。

 

(疲労蓄積率、許容範囲内。行程は1/2地点を通過、予定ラップタイムとの差、許容範囲内。万事良好(オールグリーン))

 

 向正面の直線半ばを過ぎ、ミホノブルボンの走りに狂いはない。予定通りの秒数でコースを駆け抜け、スタミナも十分に残っている。このまま進めば予定通りのタイムでゴール板を駆け抜けることができるだろう。

 

(懸念事項、ライスシャワーさんのタイム……2400mの予想タイムは2.26.9。予定ゴールタイムの2.25.2よりもあとではありますが、最終直線で競り合いになる可能性は考慮すべきですね)

 

 そしてもうひとつ、ホープフルステークスで抱いた違和感。すなわち、ライスシャワーの発する威圧について。

 "領域(ゾーン)"に潜っている現在、ミホノブルボンは他の"領域(ゾーン)"に比べてもさらに深い集中状態にある。それこそ、常人であれば他の出走者やコーナーの存在も忘れ、直進し続けるだけの機械になるような過集中状態だ。

 こうしてまともにレースとして成立するよう走ることができるのは、ミホノブルボンのずば抜けた自己認識能力と精神力があってこそだろう。

 その過集中状態を貫通して一瞬だけ感じた、あの肌が粟立つ感覚をどうしても拭い去れないでいる。それに、黒沼からの忠告もあった。

 

(……注意を向けておくべきでしょう……か……?)

 

 ミホノブルボンの視界の端。それこそ、注意を向けなければ気づかない位置にそれはあった。赤いメッセージウィンドウ。今まで表示されたことのなかった見慣れない警戒色のそれに書かれていたのは、ひどく簡潔な英単語。

 

『⚠WARNING!!』

 

(警告(Warning)……!?)

 

 警戒するならば、注意を向けるべきではなかった。無関心を貫くべきだった。毒への最良の対抗策は、抗体でも解毒薬でもなく回避することなのだから。

 ひとつ、またひとつと新たなメッセージウィンドウが現れる。そのすべてが同じくミホノブルボンへ警告を表すものだ。

 

(何が……いえ、疲労蓄積率は危険水準未満。身体各所の耐久に問題はなし。観測可能範囲に危険存在なし。ライスシャワーさんの威圧によるセンサーエラーであると推定……)

 

 ミホノブルボンの自己認識能力はすべてにおいて正常値であると示している。しかし、意識してしまったがゆえに暴走した危機察知能力は、ガンガンと警鐘を鳴らしていた。

 そして遂に、ミホノブルボンの首に荊棘(いばら)が巻き付いた。

 

(疲労蓄積率の急増を確認。呼吸機構の異常(エラー)が原因であると推測……本当に?)

 

 呼吸のペースがおかしいことに気づくが、確信が持てない。自己認識と現実が、世界の内と外がズレ始める。"領域(ゾーン)"が侵蝕され、ライスシャワーの殺気がぬるりと這入りこんでくる。

 脂汗が滲む。何か恐ろしいものがすぐ近くに来ている、漠然とした恐怖が脚に鞭打ち前へと急かす。

 

(走行ペースの逸脱を確認、修正を……落ち着いて、酸素給排のペースを修正。出力を修正。規定のペースを再確認。不明な危険存在を参照値から除外。疲労蓄積率、ギリギリ許容範囲内。全動作安定を確認(システムオールグリーン))

 

 寸前で、持ち直した。視界からメッセージウィンドウが消え始め、再びミホノブルボンだけの世界へと戻っていく。"領域(ゾーン)"を侵蝕し始めていた荊棘はボロボロと崩れていった。

 ミホノブルボンには掛かり癖がある。一定以上の混乱が引き起こす思考の暴走。過集中状態にあった意識が瞬間的に散漫し、入出力のバランスが崩れることによる意識のオーバーフロー。

 一度そうなると、通常の状態に立て直すことは難しくないが、再び過集中の"領域(ゾーン)"へ潜ることは困難になる。そのギリギリのラインで踏みとどまることができた。

 彼女を助けたのは、ひとえに状況の変化。能動的な"領域(ゾーン)"からの脱出、つまり最終直線が近づいたことだった。意識が切り替わるタイミングで、誤作動を起こしている感覚を一度すべて意識から切り離したことで、攻撃から抜け出したのだ。

 しかしそれは、あと少し状況の変化が遅ければ間に合わなかったということでもある。

 

(……いえ、懸念事項の確認はオーダーの完遂後です。予定タイムから誤差±0.05以内。最終直線への突入を確認。G00(座標指定) 1st.F∞(速度無限大);……ミホノブルボン、発進します)

 

 ミホノブルボンの"領域(ゾーン)"が収縮する。ラップ走法によって溜まっていた脚を放出し、末脚へと変換する。砕けて消えていく"領域(ゾーン)"の残滓が、さながら"領域(ゾーン)"が展開されたかのように周りに伝播していく。

 スパートから追い抜きにかかっていたライスシャワーとの距離が再び開き始める。ライスシャワーもそれを詰めようとするも、ジリジリ、ジリジリと差が伸びていく。

 

『ブルボン先頭でまもなく400mの標識を切る! ここからはブルボン未知の世界! しかしブルボン先頭であります!』

 

 何を今更。ミホノブルボンはいつだって未知の世界を駆けてきた。

 

『ライスシャワーが追走! マヤノペトリュースもやってきた! しかし届かない! まだ2バ身から3バ身! 残り200mだ! 2200m地点通過!』

 

「……ブルボン……?」

 

 黒沼だけが、ミホノブルボンの異変に気がついた。リードを維持すればいい。それだけでいいのに、ミホノブルボンは加速を続けている。突き放す必要はないのに。

 

『ブルボン先頭! ブルボン先頭! ブルボン先頭だ! ブルボン3バ身から4バ身!! 恐らく勝てるだろう! 恐らく勝てるだろう! もう大丈夫だぞ、ブルボン!! 2400m3バ身から4バ身、5バ身リードで逃げ切った! シンボリルドルフ以来の無敗二冠達成!!』

 

 自分がゴールしたのを確認し、脚を緩めたミホノブルボンは滝のように流れる汗を拭う。襲いかかる疲労に膝をつきたくなるのを辛うじて耐える。

 まるで初めて坂路訓練を行ったときのような重い疲労。スタミナが増え、レースではラップ走法を行うようになってからは長らく体感していなかったものだ。

 最終直線に入り、"領域(ゾーン)"から進出したとき。ライスシャワーの殺気がミホノブルボンに突き刺さった。"領域(ゾーン)"の二段階目は無事発揮できたが、その時ミホノブルボンは間違いなく()()()()()()

 必要以上に突き放したのは、怖かったからだ。あの瞬間、鋼の精神力を恐怖が凌駕した。

 

 息を整えながら周りを見渡し、ひとりクールダウンを始めているライスシャワーを見つける。"領域(ゾーン)"というミホノブルボンの内面、自分だけの世界を脅かしてきた荊棘。それはさながら、正確無比に稼働する機械の内側を蝕み狂わせるウイルス。

 知らぬうちに、ミホノブルボンは震える腕を抱えていた。

 

(……ライスシャワーさん。彼女は、私を脅かす悪夢(ウイルス)なのでしょうか……?)

 

 日本ダービーでの勝利は既定路線だった。ミホノブルボンにとって未知の距離ではあったが、それ以上にライスシャワーにとって全力を出しきれない距離であったから。

 次に戦うときは3000m(菊花賞)。ミホノブルボンにとっては当然未知。しかし、ライスシャワーにとってはそここそが本領。

 

(……いえ、それでも。私の目指す夢へ向かうのに、避けて通ることはできないレース。ライスシャワーさん、必ずあなたを超えてみせる)

 

 もとより、この程度で諦められる夢ならば、ミホノブルボンはここに立っていないのだ。

 

 

 

「お疲れ様です。ライスシャワー。どうでしたか?」

 

「うん、ブルボンさんまた強くなってた」

 

「えぇ、今のままなら3000mは厳しいでしょうけど、それまでに確実に仕上げてきます。油断していては足をすくわれますね」

 

 このレース、網は勝つ見込みこそあれど実際に勝てると思ってはいなかった。あくまでライスシャワーのモチベーションを保つためのレースだ。

 ライスシャワーは追う相手がいないと本領を発揮しきれない。ライバルの存在を強く意識させておかなければ、ライスシャワーは集中力が維持できない。

 自分の納得できる目標を見失うとスランプに陥るのは、ライスシャワー個人というよりもリアルシャダイがライダーを務めたウマ娘全体に言える特徴だった。

 

「しかし、その前にグッドウッドカップです。こう言ってはなんですが、間違いなくミホノブルボンよりも余程強敵が出てきます」

 

 ライスシャワーはその言葉に静かに頷く。スタミナはひとまず十分鍛えられている。課題はスピードと、洋芝に適応するためのパワー。

 グッドウッドカップまであと2ヶ月。できることならすぐにでも現地入りしたい。しかしナリタタイシンのメイクデビューはともかく、宝塚記念のことがある。

 言ってしまえば、ライスシャワーならひとりで行かせてもメンタル面に大きな変調はないだろう。しかし、日本の芝質よりは重いもののそれほど大きな変化がなかったこれまでと違い、洋芝に適応するためにはしっかりと指導する必要がある。

 どうしようかと悩み始めた網に声をかけたのは、アイネスフウジンだった。

 

「トレーナー、任せてほしいの」

 

「……、……わかりました。任せましょう。私とライスシャワーは3日後からイギリスに飛んでトレーニングを始めます。アイネスはメンバーのローテーションを確認して、トレーニング内容や調整に微修正を加えてください。何かあれば一時帰国しますので連絡を」

 

 網の指示に力強く首肯を返し、アイネスフウジンと網は軽く拳をぶつける。

 アイネスフウジンがチーム《ミラ》所属の競走ウマ娘兼()()()()()()()になって初めての単独業務が始まろうとしていた。




 昨日寝落ちしました。

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