万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
レース場は国によって様々な特色がある。例えば日本は起伏が少なくよく整備されていて、地下茎の密度が薄い野芝であるため、レースのペースが速くなりやすい。スポーツとしてレースが行われている面が強く、ウマ娘が気持ちよく走ることを念頭に置いているからだ。
アメリカは狭い土地にレース場を作るため小回りな小さいレース場が多く、ビジネスとしてのレースであるために整備しやすいダートが主流だ。
では欧州におけるレース場はどうか。日本がスポーツ、アメリカがビジネスならば、欧州は貴族の娯楽、社交でありステータスだ。それがレース場にどう影響するか。
ウマ娘レースの歴史は欧州が最も古く、整地やコース整備、建設のノウハウが生まれる前は、貴族が自分の庭でウマ娘を走らせていた。その名残が未だにレース場に残っているため、地形を大きく反映させたレース場が多い。
つまりどういうことかというと、端的に言えば変な形のコースが多いのだ。
『さあグッドウッドカップただいまスタートいたしました。先頭ペースメーカーはロコモーティブ。その後ろにヴィンテージクロップとライスシャワー。フェアリーガーデンは少し離れてその後方。昨年覇者ファーザーフライトは最後方です』
このグッドウッドカップが行われるグッドウッドレース場はその最たるものであり、元々は公爵の領地にあるレース場なのだが、まともな形に作るには王族の領地を通る必要があり、それを避けたために中途半端な形になったのだ。
その形は例えるなら、『&』を180度回転させて、下に直線を引いた感じだろうか。いや、やはりこれを口頭で説明するのは無理があるから各自検索してもらいたい。
グッドウッドカップはこの『逆さ&』の下の丸の左側の半ば辺りがスタートの右回りコースである。右回りコースなのは間違いないのだが、非常に奇妙なことにスタートの直後に左へのカーブがあるのだ。
しかもこのカーブ、カーブ半ばで二手に分かれており、まっすぐ行かずにさらに左へ進路を取る必要がある。さらに言えば、そこからは上り坂になるのだ。
欧州におけるペースメーカーは自分のチームを有利にするためだけにいるわけではない。後続が道を間違えないようにする道案内の役割もまた、ペースメーカーの仕事である。
今回ペースメーカーとしてハナに立ったロコモーティブは、自分にライスシャワーのマークがついていないことを確認して心底ホッとしていた。
一方、マークがついたのはヴィンテージクロップ。実績こそないものの豊富なスタミナを評価されているウマ娘だ。簡素でラフな黄色い農婦風の勝負服を纏った麦わら帽のウマ娘が、鹿毛を揺らしながらライスシャワーを確認する。
(おいでなすったね……あんたが狩るかあたしが刈るか、勝負といこうじゃないか)
精神面にはそれほど自信があるわけではないヴィンテージクロップだが、スタミナ面に関してはそれを補って余りあるほどの自信を持っていた。事実、ヴィンテージクロップのスタミナは歴代のウマ娘たちを見てもトップクラスに入るレベルだ。
(……なんだ、思ってたより大したことない……?)
ヴィンテージクロップがライスシャワーの動きのなさに警戒する。今までのレースを考えて、もっと頻繁に揺さぶりをかけてくるものだと思っていたからだ。
しかし、ヴィンテージクロップに伝わってくるのはほんの少し意識を向けられていると言うくらいの視線程度。殺気と呼ぶには程遠い。
レースに動きはない。日本の長距離レースと欧州の長距離レースの最たる違いがここである。
日本の長距離レースは読み合いと駆け引き、牽制の応酬だ。自分は極力体力を温存しながら周りの体力を削り、有利な位置を確保する。
一方で欧州の長距離レースはスタミナ温存に重きを置く。日本のコースの数倍の起伏がある欧州のレース場では、駆け引きや牽制をする余裕などない。スタミナを温存できるような内側を突き、できるだけ体力を使わないでいるのが基本だ。
だから、レースは膠着し、非常に静かに進んでいく。それが何をもたらすのか誰も知らないままに。
坂を登りきってレースはおよそ5分の2、『逆さ&』の頂点に来た辺り。ここから今度は下り坂へ入るという地点、ヴィンテージクロップの中にはモヤモヤとした妙な感覚が渦巻き始めていた。
暗唱できるほどに読み返した詩文のなかに含まれた誤謬のような、意識しなければ気づかない、しかし気づいてしまえばどうしようもなく意識してしまう、そんな違和感。
思わず後ろを確認する。マークしてきているライスシャワーは一般的なマークに比べれば近い距離にいるが、特別な動きは見られない。
少しずつ、ヴィンテージクロップの中でライスシャワーの存在が、違和感が大きくなり始める。微弱にしか感じなかった視線が背中に突き刺さるのを感じる。
(……ッ! 大丈夫、ちょうど収穫タイミングだ……!)
ヴィンテージクロップが"
瑞々しい果樹の恵みが、豊かな大地の恵みが、彼女の乳酸分解能力を押し上げる。純粋なスタミナ回復系に類する"
(さぁ、
体力的な余裕を得て、ライスシャワーと相対するように改めて意識を向けるヴィンテージクロップ。それと同時に、ゾクリと彼女の背筋に冷たいものが走った。
それは、先程までは殺気とさえ感じられなかったはずの視線。しかし、今彼女に当てられているのは視線などという生易しいものでない。首筋に突きつけられたナイフのような、冷たく鋭いナニカ。それを彼女は殺気と受け取った。
思わず背後にいるソレから逃げ出そうと脚を速めるが、追跡者からの圧力は弱まることなく、むしろより強くなってヴィンテージクロップに突き刺さる。
ズレる、ズレる、ズレる。いつの間にかそれの息遣いに引っ張られてズレた呼吸のペースが、ヴィンテージクロップの脳に、体に運ばれる酸素の量を制限し、目の前に霧がかかったかのように視界が狭くなり始める。
瞬きのたびに、先程一瞥したライスシャワーの走る姿が浮かび上がる。その像から発せられる違和感は
その様子を観察していたフェアリーガーデンが、ヴィンテージクロップの異変に気づく。荊棘こそ見えていないものの、明らかに掛かっているヴィンテージクロップの様子は尋常ではない。
しかし、他人の様子を気にしている余裕はない。ライスシャワーへ意識を向けていたフェアリーガーデンも、そのズレによってペースが狂っていく。
脚も、呼吸も、ペースが崩れるだけで大きく体力を消費する。自分の体のリズムと脳が認識するリズムのズレは、乗り物酔いのような不快感を生み精神を蝕む。
ライスシャワーの後方につけているウマ娘たちは皆、そんな天然の撹乱によって惑わされていた。
下り坂となっている最終コーナーへ差し掛かり、ヴィンテージクロップが無意識に急加速する。酸欠という霧に包まれた彼女の意識はライスシャワーの圧力から精神を守ることに費やされており、まともに思考することを許されていない。
常時危険信号が鳴り響き、それに急き立てられるように脚を前に出す。ヴィンテージクロップの"
ハリボテの街並みに降りる夜闇、立ち込める霧。制限された感覚の中で、ただ危険信号だけが暴走している。心臓が煩わしいほどに
背後に迫るものへの恐怖、自分の体と精神がズレていくことへの恐怖、世界から切り離されたかのような恐怖、これ以上レースを続けることへの恐怖。ザッピングされる恐怖によってヴィンテージクロップの緊張が最高潮へ達したその瞬間だった。
「カヒュッ……」
喉笛が、掻き斬られた。
無論、現実にそうなってなどいない。すべては彼女の頭の中でだけ起こった幻覚だ。しかし、まるで首から身体中の血液が流れ出ていくかのように血の気が引き、全身が冷たくなっていく。それでも走るのをやめないのは、ウマ娘としての意地か本能か。
ふと視線を上げれば、自分を追い抜いてスパートをかけるライスシャワーの背中が見えた。ようやく身体に熱量が戻ってくるが、乱れた呼吸は戻らず、浪費したスタミナも時間も返っては来ない。
思い出すのは
もはや自分に勝ちの目がないことを覚った彼女は、せめてレース後のインタビューで意趣返ししてやろうと、笑いながら力尽き垂れていった。
最終コーナーの下り坂でスパートをかけたライスシャワーと、反対に急激に失速したヴィンテージクロップ。ロックホッパーら中団のウマ娘たちはライスシャワーに撹乱され、自覚していたよりも多くのスタミナを失っている。
ライスシャワーの被害に遭っていないのは、ライスシャワーがよく見えていない最後方の追込ウマ娘たち。その中に、ファーザーフライトはいた。
(前の様子がおかしい……ライスシャワーがなんかやってんのか……? !! ヴィンテージクロップ……
最終直線、ファーザーフライトが末脚を解放して、一気に順位を上げ始める。グッドウッドレース場の最終直線は、東京レース場のおよそ倍の距離である約1000mを誇る。先頭のライスシャワーまでは7、8バ身はあるが、追い込むには十分な距離だ。
ファーザーフライトが"
バ群の横を通り抜けるファーザーフライトにロックホッパーが追い縋ろうとするが、うまく加速をかけることができず引き離される。
ファーザーフライトは一直線にライスシャワーへと詰め寄っていく。バ群を追い抜ききり、バ身の差は縮まっていく。その背中が、近く、近く……ならない。
(っクソッ!! なんで失速しないんだよ!! なんつースタミナしてんだアイツ!!)
ゴールへと駆けるライスシャワーのスピードは全く緩まない。差は縮まっているものの、劇的とはとても言えない。差し切るには……少し足りないか。
『諦めるかよボケがああああああああ!!』
全力を振り絞って更に先へ脚を進める。前年王者の意地。猛々しい
ゴール板が2度鳴った。その差はほとんどない。
ファーザーフライトがライスシャワーを差し切ったのは、ゴール板を過ぎて2バ身あとだった。
歓声はない。その代わり、ひとりまたひとりと立ち上がり、観客たちが手を打ち鳴らす。歴戦の戦士たちから逃げ切ってみせた極東の刺客に向けた悔しさ混じりの敬意は、万雷の拍手となって降り注いだ。
『クッソ、なんでお前、息そんな、余裕そうなんだよ……信じらんねぇ……』
『いや、ホント、死んだかと思ったさね……』
息を整えるライスシャワーにファーザーフライトとヴィンテージクロップが声をかける。
『し、死んだかとって……大丈夫? なにかあったの……!?』
(え? 嘘だろ?)
(無自覚……? あれで……?)
アイルランド所属だがイギリス出身のヴィンテージクロップと、反対にアイルランド出身だがイギリス所属のファーザーフライト。イギリスでは必須スキルである相手の感情を読み取るコミュニケーション能力が、ライスシャワーの反応が素であると判断し、ふたりは逆に困惑していた。
一瞬の苦笑いのあと、ふたりはライスシャワーに手を差し出す。ライスシャワーは順にふたりと握手を交わした。が、ファーザーフライトと握手を交わした瞬間、握った手がそのまま高く挙げられた。
ライスシャワーの腕を挙げたファーザーフライト、それは前年王者が挑戦者の勝利を讃えるもので、堂々たる前王者の姿に再びの拍手が響き渡った。
数日後、切り裂きジャックの別名であるホワイトチャペルマーダーをもじったであろう、『ブラックチャペルマーダー』などという物騒な異名をつけられたことを知ったライスシャワーが悶絶する姿が、ホテルの一室で目撃されるのであった。