万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
『それで、実際のところどうなんですか?』
ロンドンのウィンストミンスター街メリルボーン地区に南北に伸びる通り。しばしばベイカー街と呼ばれるそこの219番地、かつてベイカー街221Bと呼ばれていた場所にある高級賃貸マンションの一室で、鹿毛のウマ娘は換気のために窓を開けながら、パイプの煙を
『あと、室内でパイプ吸わないでくださいっていつも言ってますよね』
『そう固いことを言うなよワトソンくん』
『ワトソンじゃねぇです。クソホームズナード』
『名前に反してまったくフレンドリーじゃないな君は』
男の軽口に対して額に青筋を浮かべながらも、少女は椅子にどかりと座り込んでため息をつく。
『レース中のヴィンテージクロップの様子は明らかに異常でした。特にレース後半、下り坂に突入してからは、考えられないような掛かり方のあとに瞳孔の収縮、急激な失速、顔の血の気が引いて、まるで死人のようでした。そして、そのヴィンテージクロップがレース後のインタビューで発した言葉が』
『「レース中、
『あれですかね。"
そもそも、"
研究機関が"
『ライスシャワーの特質については概ね理解できたよ』
しかし、それとは裏腹に男はそう返した。
『彼女の特質はすべて彼女の
『間、ですか?』
『日本の武道においては比較的ポピュラーな概念だね。まぁ、物事のリズムや距離と考えてくれればいい。彼女はそのリズムが、一般的な他者と比べて大きくズレている』
『はぁ……それがどうなってああなってるんです?』
『まず大きいのは呼吸だろうね。それからやや速めのピッチと、それにややズレた腕の振り。それらが総合的に他のウマ娘のリズムからズレている。知っているかな? メトロノームはバラバラに揺らしてもしばらくすればリズムが揃う。これはメトロノーム以外にも散見される、同期現象と呼ばれるものだ。しかし、ライスシャワーはその同期現象を起こさない』
『つまり、ライスシャワー以外の足並みが揃って、ライスシャワーだけがズレたままと?』
『足並みだけじゃない。呼吸のリズムなんかもだ。レース中の動きが少ない長距離レースなら余計にそうだろうね』
緩慢な展開も、蓄積された疲労も、慢性的な酸欠も、思考を鈍化させる。ならばあとは摂理に従って揃うだけだ。
その中でライスシャワーだけが、他とズレた自分のペースを維持し続ける。
『今度はライスシャワーのリズムに、他のウマ娘のリズムが同期し始める……?』
『そう簡単にはいかないだろうね。流石に周囲のリズムが揃っているのに、ただひとりのリズムが狂っているからと言ってそれに合わせてしまうということはなかなかないだろう。しかし、まず間違いなく異分子は目立つ。目立つものを人は意識してしまう』
一度意識してしまえば、そこからはもう泥沼だ。集中力が削がれ、やがて意識はライスシャワーへと収束していく。ライスシャワー以外が意識から放り出されるようになれば、少女の言う通りライスシャワーのペースに同期してしまうだろう。
しかしレース中である以上、ある程度は周囲の情報は頭に入ってくる。感覚と現実のズレは呼吸のペースを乱し、乗り物酔いのような不快感を生み出す。
『恐らく、ライスシャワーの放つ殺気というのもそれほど強いものではないんじゃないかな。感覚なんてのは結局のところ、受け取る側の問題だからね』
『ライスシャワーが殺気を放ってるんじゃなくて、受ける側が殺気として受け取っている、と?』
『もちろん、マークしている時点でライスシャワーは相手に集中しているだろう。凝視するような視線はマーク対象に集まるはずだ。その視線を受け取ったマーク対象は初めの方は比較的穏やかな様子だ』
男はモニターに映るグッドウッドカップ序盤のレース映像を拡大し、ヴィンテージクロップの顔を見えるようにする。少女は、それを2mほど離れた椅子からぼんやりと眺める。別に表情はどうでもよかった。
男としても説明するのに比較したほうが自分が整理しやすいだけで、表情そのものが肝要なわけではないから、それを指摘しない。
『レースが進むに連れてヴィンテージクロップの顔は厳しくなる。グッドウッドカップは16
1Fがおよそ200m。グッドウッドカップは16Fで3200mほどだが、ノーヴィスハードルは3600mの障害競走だ。
『そして、下り坂に入る直前。ここの表情の変わり方を見るに、ヴィンテージクロップは恐らくここで"
『ほんとなんでもありですよね、"
『そうでもないさ、ちゃんと科学に即している。脳は普段1割しか使われていないという有名な都市伝説は確かに虚妄ではあったが、逆に脳が体にリミッターをかけているということ自体は実証されているからね』
『確かにそれなら瞬間的なパワーアップの説明はつきますけど……スタミナ回復とかはどうなんですか?』
『ひとつめ、疲労物質は溜まったままだが無理やり動かせるようになっている。ふたつめ、疲労物質の分解能力が上がった。みっつめ、心肺機能が一時的に強くなった。大体はこのあたりじゃないかな?』
男の言葉はあながち間違ってはいない。事実、ヴィンテージクロップの"
『アドレナリンや分解酵素の大量分泌みたいに、こじつけて説明しようとすればいくらでもできるさ。ブラックボックスはまだ開いていないからね。まぁ、幻覚が共有されたりするのは何故かわからないから、結局の所まだ解明されていないところも多いのは確かさ。それこそ、異世界の魂が宿っているウマ娘ならではの、科学から外れた現象かもね』
『結局はオカルトですか』
『オカルトなんてものは「まだ科学ではない」という意味でしかないよ。進化論だって地動説だってある時点まではオカルトだったんだから』
男は拡大したままのレース映像をスロー再生する。すると、画面に映るヴィンテージクロップの顔が一瞬余裕を取り戻したように見えたあと、一気に強張った。
『"
『意識したから余計にライスシャワーの視線を感じてしまった……でも、それだけじゃ殺気と言うには弱くないですか?』
『そうかな? 呼吸ペースを乱されて酸欠状態にある時点で、そもそも40mphの速さで走っている時点で、体は死の危険を感じている状態だ。酸欠状態のせいで視界は狭くなり、追い立てるように真後ろから足音と呼吸音、そして鋭い視線が迫ってくる。怖いと思うけどねぇ……』
『物は言いようですね』
しかし推論として筋は通っている。神の視点から見れば、男は誰よりもライスシャワーの特性について正確に把握していた。それこそ、網馬やライスシャワー本人よりも。
この、イギリスにおいてほぼ網馬怜と似たような経歴を持つ男。
兼業でやっている探偵業は閑古鳥が鳴いているのに、大量に舞い込んでくる
彼の名はアーサー・シェリングフォード。彼の担当ウマ娘である少女も、胡乱げな顔をしながらも彼の推理力については信用をおいていた。
『瞳孔の収縮や血圧の低下は血管迷走神経反射かな? 強い精神的負担に襲われたときなどに、副交感神経が過度に活発になることに起こる反応。もしそうだとすると、目眩や吐き気も併発してるだろうね。体が冷たくなり気が遠くなる。なるほど、
『それ、危険じゃないんですか? 転倒とか』
『そんなこと今更だろう。ルールに違反していない以上、死の危険なんて織り込み済みで走っているんだろう?』
少女はアーサーの問いに、薄く笑うことで答える。
死に対する恐怖はある。薄い者もいるがごく一部だ。しかし、「死ぬのが怖いくらいで走るのを辞める理由にはならない」と答えるウマ娘は大多数を占めるだろう。
『それで、いつも通り長々と理屈をこねくり回してましたけど、肝心要の対策は?』
『初歩さ、ワトソンくん』
『ワトソンじゃねぇし、その「自分はコアなファンだから間違って広まった方じゃなくて正しい原作台詞を使っちゃうぜ」みたいなドヤ顔でホームズの台詞引用するのウザいからやめろって何度も言ってますよね?』
少女の訴えを無視してアーサーが取り出したのは、それほど珍しくもないものだ。
『……耳カバー?』
『ライスシャワーがマークするということは、君が前を向いている限りはライスシャワーは視界には入らないということだ。つまり、ライスシャワーから受ける影響のほとんどは聴覚によりもたらされる。だからそれを制限する。一般的な耳カバーよりも遮音性を高めたものだよ』
促されて少女がそれを装着すると、なるほど少なくとも周囲の雑音はほぼ聞こえなくなったと言っていい。目の前で話しているアーサーの声も、ささやき声程度にしか聞こえなくなった。
『これで完全な実力勝負に持っていけるってことですか』
『"
『もちろん。ライスシャワーの実力は認めるけど、私の国でこれ以上好きにはさせませんよ』
ハーフアップの鹿毛に丸い流星、スレンダーな長躯を持つ彼女は、3つの樫の冠を手にしながらも英国クラシック三冠の最後の冠さえ手にせんと決意した。
てなわけでオグタマライブの代わりにこれです。