万魔殿の主〜胡散臭いトレーナーとウマ娘たちは日本を驚かせたい 作:仙託びゟ
『さぁ、今回のサマー・ドリーム・ミドルは阪神2200m、宝塚記念と同条件での開催! 出走者は9名! いずれも名だたる優駿たちだが、やはり注目はこのふたりだろう!! 七冠戴く"絶対"なる皇帝、シンボリルドルフ!! そしてその皇帝と同世代で、皇帝の手から冠を奪い手にした好敵手のひとり、終わらぬ凱旋、スズパレード!!』
阪神レース場に期待の歓声が満ちる。トゥインクルシリーズで一定以上の成績を掲げた者が進む各種シリーズのうち、ほんのひと握り、目覚ましい活躍を遂げた本物の優駿にしか出走が許されないドリームシリーズ。
そんな夢の舞台に上がるのは、トゥインクルシリーズを引退してからそれなりに長い時間が経った今でも
特に、スズパレードというウマ娘はひどい放浪癖を持っていて、そもそも連絡がつく事自体が稀。それどころか普段の居場所さえまともに知られていないため、めったにドリームシリーズへ出てくることはない。
故にこそ、まさに夢の対決となったこのレースに抱く観客たちの期待は大きく膨らんでいる。そして、それは出走者、特に皇帝シンボリルドルフも同じであった。
「珍しいな、レド。お前がドリームシリーズに出てくるとは」
「おや随分な言い様だ。わたしだってウマ娘の端くれ、心躍る優駿たちとのひと時を望む時だってあるさね」
ゲート内、偶然にも隣同士になったふたりが、旧友との数カ月ぶりの会話を楽しむ。そこにレース直前であるという緊張感はなく、さながら町中で偶然鉢合わせたかのような、気安い和やかな雰囲気が漂っていた。
「ふふ、それもそうか……さて、では行くとしようか。当然、真剣勝負」
「手心は無用、だろう? わかっているさ」
「……流石だ」
シンボリルドルフから発せられる圧力が数段増した。歴戦のウマ娘たちと言えど、その圧力に思わず表情が歪む。ブルリと体を震わせるものもいた。
「手心は無用」。そう聞いてファンたちは、レース関係者たちは、あるいは他のウマ娘たちはどんな印象を抱くだろう。「手加減はいらない、本気で挑んでこい」と皇帝が胸を貸しているように見えるだろうか。
否。そうではないと、シンボリルドルフの圧力を真正面から受け冷や汗を流すスズパレードは知っている。これは、一部の相手にしか見せないシンボリルドルフの
即ち、「手加減する気はない」という死刑宣告である。
ゲートが開く。逃げが2、先行が4、差しが3、追込が1。スズパレードは先行し、シンボリルドルフは好位につく。伝家の宝刀、王道覇道の先行押切だ。
シンボリルドルフがやや右へ進路を取る。地面へ視線を這わせ、逆に左へ行くように見せながらも動かない。そして、後ろへ放つ威圧。たったそれだけの細工で出走しているウマ娘9人全員が
シンボリルドルフが内に入ろうとして、地面を見て外へ出た――ように見えた後続は、内側の芝をシンボリルドルフが避けたと考え内へ入るのを躊躇する。
その瞬間に放たれた威圧で、後続は完全にペースを落とすことになった。シンボリルドルフに翻弄されてはスタミナがどれだけあっても足りないからだ。
後ろの雰囲気が変わったため、逃げウマが片方、競り合いを仕掛けるのをやめて様子見に入る。すると余裕を得たもう片方の逃げウマが、自分に有利な展開を作ろうとレースをローペースに調整する。
そして、シンボリルドルフ以外の先行が彼女による仕掛けを警戒して外側へ逃げた。
ほんの一瞬のアクションで、シンボリルドルフは完全にレースを支配してみせた。それぞれの優駿たちがなんとか主導権を取り戻そうと藻掻くも、そのことごとくが彼女たちをより深い
(はは……相変わらずじゃないか、ルナ)
スズパレードは笑う。破滅しかないシンボリルドルフの支配から抜け出そうと革命を目論むレジスタンスのように、シンボリルドルフの支配の網の穴を、それがシンボリルドルフによって用意された穴だということを知りつつも探し続けながら笑う。
シンボリルドルフが体を傾ければ差しウマが掛かる。シンボリルドルフが目線を鋭くすれば逃げウマが怯む。必死に裏をかこうと進路を探す追込が、シンボリルドルフによって仕立て上げられた舞台へ上がる。
シンボリルドルフの絶対帝政に抗うには、それを上回る智慧か、強靭な意志か、あるいは厄災さえ味方につける運がなければならない。
(しかし、シリウスは嫌いそうだ……まったく我らが皇帝陛下は、表面をいくら繕っても
最終コーナー、シンボリルドルフが動く。全体を通して外側に寄るように動かされていた先行ウマ娘たちが、それに抗いながらも散らばっているその
抜かれたら追いつけない。逃げウマ娘ふたりはシンボリルドルフに躱されまいと死力を振り絞り速度を上げる。その結果、最終コーナーで大きく膨らむことになる。
大外に進路を取っていた追込ウマ娘が、膨らみながら垂れてくる逃げウマ娘にブロックされて仕掛け時を失い、シンボリルドルフが完全にフリーになる。
『最終直線! 早くも抜け出してきたシンボリルドルフが、すぐ後ろに後続を引き連れながらもハナを突き進む!! モニターの前の皆様は誠に残念ながらご覧いただけないでしょう!! しかし、現地で実況しております私の目の前には今、
仁川の最終直線が赤に染まる。主を出迎える赤絨毯へと。白亜の壁、射し込む陽光、その瞬間、阪神レース場にいる全員がその光景を共有した。
そして訪れる雷鳴。人の手によって文明の奴隷に堕とされた今、それでも神の権能と畏れられる雷を纏い、皇帝は堂々と、決して速くない歩みを進める。
『さぁ、今! 汝、皇帝の神威を見よ!! これこそが"絶対"なる皇帝、シンボリルドルフであります!!』
シンボリルドルフを追う後続。背中に手が届くその距離にいるのに、届かない。あと一歩が追いつけない。追いつけても追い越せない。自分の鼻より前に皇帝の軍靴が置かれている。
桜花賞、テスコガビー、約10バ身。
朝日杯
海外に目を向ければ、ベルモントステークス、セクレタリアト、31バ身。
歴史を見れば、人々を魅了したのは他の追随を許さぬ圧倒的な着差だ。しかし、シンボリルドルフはそれをつけない。必要以上の着差をつけない。
つまらないとさえ形容された完璧なレース。演出など欠片もない、徹底された支配の上に転がる勝利を拾う、そんなレース。
だから観客も、もはやレースを楽しんでなどいない。
気がつけば、ゴール板はとっくに通り過ぎていた。
1着、シンボリルドルフ。着差、1バ身半。
「
スズパレードの呟きは歓声に消えた。
◆◇◆
ドカッと鈍い音が響き、スズパレードは目を覚ます。眠気眼を擦り、自分の頭の横から生えた脚の主を見上げる。
鋭い視線を投げつける鹿毛の少女が、不機嫌そうにスズパレードを見下していた。
「レド。模擬戦だ。来い」
「せめて模擬レースって言いなよ……まったく」
抉れた地面から脚を引き抜いて、少女はさっさと先を歩いていく。後ろに縛った手入れも手抜きだろう髪が揺れるのを見ながら、スズパレードは二度寝をして痛い目を見るのは避けようと重い腰を上げた。
走ることになったのは東京レース場。家の力で使っていない時間帯に使えるようにしたのだろう、観客のいない府中のターフに集まった未来の優駿たち。
シリウスシンボリ、メジロモンスニー、トウショウレオ、ニシノライデン、サクラユタカオー、ビゼンニシキ、ミホシンザン、一癖も二癖もある者ばかり集まっている。いや、正確に言えば、まともな気性を持つウマ娘であれば、
彼女は隣を通り過ぎることさえ赦さない、文字通りの気性難、暴れ獅子なのだから。
「ボサッとするな。さっさとゲートに入れ」
重く、静かに、体の内側へ突き抜けるように響く声。ニヤニヤと笑っていたシリウスシンボリがたまらないといった様子で喉を鳴らして笑う。ガンガンとゲートを蹴っているのはニシノライデンで、「
皆が避けた1枠2番――1枠1番に入った
告げられた距離は、東京1600m。まだ体が未完成な今、それは長すぎず短すぎず、クラシック級で走るミドルレンジと同じくらいの負担だ。
ゲートが開き、飛び出したのはニシノライデン。続いてサクラユタカオーとスズパレード、
なんの面白みもなく淡々とレースは続き、最終直線で盛大に斜行し大外へすっ飛んでいくニシノライデンを
当然、独走など許す気はない。全員が各々の全力で
少女の鹿毛に唯一映える白の流星――いや、大きくカーブしたそれは星ではなく月と呼ぶべきだろうか――が揺れる。
そして、誰ひとり例外なく、両脚と心臓を
目の前には赤い道。舞い落ちた紅葉で以て彩られた府中の最終直線。薄暗い月下の山中に光る双眸が、森に潜む獣のごとく後続を睨みつけている。
膝をついてしまいたくなるほどの暴威。無論、そんな無様な真似をするような者はここにはいない。そんな弱者は、そもそも彼女と並び走ることを許されない。
興味を失ったかのように前を向き直り走り去る背中を、それでも懸命に追いかける。しかし、差は縮まらないまま、ゴール板を駆け抜けた。
スズパレードは、
「いやー、やっぱ強いね、あの娘は」
「そうね」
「負けてられないさね、わたしらも」
「……そうね」
答えるビゼンニシキの目の奥にある鋭い光は鈍っていない。見てみればニシノライデンも。そして、スズパレード自身も。ここにいる中で
たとえ
「何が『
「せめて『
「Lしかあってねえよ」
スズパレードは欠伸をひとつ漏らし、目を閉じた。
◇◆◇
「あの……すみません?」
声が聞こえて、スズパレードは顔を上げる。
目の前にいる、まるで『A』のような形の流星を持つ鹿毛の少女の顔を見て、自分がうたた寝していたことを思い出したスズパレードは、少女に手元にあったそれを手渡して言った。
「そんなら、いっそのこと
「は? え、えーと……ほ、本当に……?」
「多分、Maybeね。占いなんて当たるも八卦当たらぬも八卦さね」
「占い師が言うのそれ……?」
狐につままれたような顔をして去っていく少女を見て、スズパレードは「菊花賞、頑張りな」と声をかけてから欠伸をひとつ漏らした。全く今日は運がいい。水晶玉の処分先が見つかったと、少女が持っていった水晶玉にはもう目もくれないで、簡素な台を片付け始めるのだった。
一等星も、鈴も錦も雷も、地に落ち冠を戴いた月を再び輝かせるには足りなかった。
願わくば、月の光を取り戻す太陽が現われんことを。