トレセン用務員のおっちゃん   作:魔女っ子アルト姫

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第64話

「あの日、俺は家の用事で外せなくてアスムのレースに同行出来なかった。一緒に居れたら……いや、何も変わっちゃいないだろうけど……」

 

如何しても外す事が出来ない用事があった、雷電一家としての役目もあったのでレースには行けなかった。その時に舞い込んできた凶報に頭が真っ白になった、アスムが運ばれた、頭に蹄鉄を受けた、その後に派手に横転したなどの情報を伝えられるがうまく処理できずにいた。そんな時に、自分を殴って正気に戻してくれたのが斬鬼こと蔵王丸だった。

 

「確りしろ響鬼!!お前は早く病院に行け、俺達の事は気にするな」

「えっあっ……」

「恋人に寄り添え」

 

その言葉を受けて、響鬼は直ぐに病院へと向かった。焦る気持ちを抑えつけながら、病院へ飛び込んだ。そして、案内された病室に居たのは……全身傷だらけになった身体を包帯で隠しながら静かに眠っているアスムの姿だった。

 

「アスムッ……」

「響鬼、さん……如何して……」

 

思わず口にした言葉に反応するように、目を覚まして此方を見つめて来たアスム。彼女は信じられない物を見るような顔を作っていた、それに安心させようと出来る限りの笑みを作りながら椅子に腰掛けながらその手を取った。

 

「お前の事なんだ、俺が来ないなんて事がある訳ないだろ」

「……うんそうだね」

 

視線を逸らすようにしながら頷いた。逢いたかった、逢いたくなかった、そんな複雑な心境にあったアスムは素直に顔を見る事も出来ないような精神状態だった。

 

「悪かった、やっぱり無理してでもお前の傍に居るべきだったよ」

「無茶、言っちゃだめだよ……鬼としての事もあるんだから……」

「そうだな」

「それに―――響鬼さんが居ても、何も変わらなかったよ」

「……」

 

何処か、鋭い言葉に何も言えなくなった。あの場に自分が居て何か変わっただろうか、いや何も変わらなかった筈だ。不幸な巡り会わせとしか言いようがない事故を如何やって響鬼の力で回避しろというのだろうか、出来ない事を言うなと言いたげなそれに僅かに胸が痛くなった。

 

「聞いた時、心臓止まるかと思った。何で止まらなかった」

「……走りたかったから、それだけ」

「嘘つけ」

「ホントだよ」

 

そっぽを向いたまま、走りたかった走ったと応えるそれを嘘だと一蹴する。いや、本当ではあるのかもしれないが恐らく違う、きっと自分の為に走ろうとしたんだという事は分かっている。何年も一緒に居るのだ、この位分からない訳が無い。

 

「寝かせて」

「寝ていいよ」

「一人にして」

「俺が居ちゃ邪魔か」

「邪魔」

 

嘗てないほどに荒れている。当然か……と思わず視線を落とす、その先にあるのは入念に処置が成されて動かないようにされている両脚がある。両脚共に粉砕骨折、両脚へのダメージは尋常ではなく日常生活は送る事は出来るが……走る事は絶望的だと言う話を此処に来る前に担当医師から聞かされた。

 

『走る事が絶望的って……』

『単純に走る事が出来ません、ウマ娘としての走りではなく我々のような一般的な人間の走りさえも……出来て早歩き位でしょうか……』

 

其処まで酷いのか、それじゃあもうアスムは走れないじゃないか、何より好きだった走るという行いそのものを剥奪されてしまったという事じゃないかと放心状態になってしまった。そしてそれはアスムも当然分かっている事……あんな事になったのだ、自分の身体がどんな状況になってしまったなんて分かり切っている。

 

「分かった、アスム今日の所は帰るよ。今は良く休むんだぞ」

 

気持ちの整理も必要だろう、何時の時代も心の傷を癒す事が出来るのは時間と決まっている。家族や恋人というのは切っ掛けに過ぎない、今の自分はそれになれない事は唯分かった。故に立ち去ろうとした時―――上着の袖を摘まむようにしてアスムが止めた。彼女を見ると……くしゃくしゃになった顔のまま、涙を流したまま無理矢理で作った笑みで問いかけてくる。

 

「私、響鬼さんみたいになるから―――鬼になるから、だから……」

 

今、此処で離れたらもう会えなくなると思っている。だから必死に言葉を紡いでいる、隣に居たい、そんな思いを形にして必死に問いかける中で―――猛烈な自己嫌悪に襲われながらアスムは手を放して……

 

「ごめん響鬼さん……私、走れなくなっちゃった……」

「―――心配するな、だから……今は確りと休むんだ。いいな」

 

子供に言い聞かせるように、頭を撫でてやりながら響鬼は額にキスを落とした。そしてアスムにまた今度、見舞いに来ると言い残してその場を去った。兎に角、彼女には心の整理を付ける時間が必要だと思った。幸いにも入院なのだからそんな時間はある、だから今はその流れに乗せてやろうと思った。

 

「―――さぃてぇだ……私って……」

 

残されたアスムは唯一人残された病室の中で涙を流し続けていた。自分は先程なんて言った、鬼になる?ふざけるなそんな軽々しく言っていい言葉なんかじゃない、あの人に邪魔だと言っておきながらその次に出た言葉がそれかと、次々と自分を自分で責め立てていく。

 

「もう走れない……もう響鬼さんと一緒に走れない……響鬼さんの好きだった、アタシになれない……アハハッだからあんな事を言ったの……」

 

涙に紛れながらの言葉は酷く、重く、冷たく、自分の心を抉っていった。ウマ娘としての全てを失い、愛する人の好きだった自分にも戻れない、それでいながら愛する人が至った鬼という物すら侮辱した……何て愚かで卑しくて、寂しい事をしてしまったんだろう……。その時から、アスムの世界から色が消える。そして同時にまだ無事であった筈の両腕にも痺れを感じるようになってきた。

 

「滑稽ね……走れればいいって思ってた結果がこれなんて……そんな私が―――あれ、今なんて思って、あれ……えっ……如何、いう事……?」

 

何かを失った、今そんな実感があった。記憶が収められたページ、その一部が欠けたかのような感覚に陥った。身体が奥底から冷えていく感触を味わった直後、何を忘れていたかを思い出した。鬼、鬼とは何を指すのかを今……忘れていた。

 

「ぃゃ……私が、私じゃ無くなってく……?」

 

絶望は連鎖していった。頭部に蹄鉄を受けた直後に転倒した事によってアスムはセカンドインパクト症候群*1に陥っていた。身体の痺れや記憶障害がその身に起き始めていた。そして記憶障害はアスムのこれまでの人生を奪い始めていった。

 

「ァハ……響鬼さんを忘れるなんて、絶対に嫌……絶対に……」

 

既に彼女の精神はボロボロになっていた。正常な思考力も殆ど失いかけていた、何時、記憶が消えるかも分からない状況がこの先も続くのかという事がアスムの精神を一気に破壊していく。そして彼女は―――

 

「私の事は、忘れて……自由に生きてください」

 

自ら命を絶った。愛する人の事を唯只管に思える自分のままで。

*1
脳震盪を起こし、回復しないままもう一度脳震盪を起こす事で起きる症状。

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