任務を終えた明は、ざくざくと山道を歩いていた。
見覚えのない岩が視界に入り、明は深く唸った。行きの道では見かけていない岩だった。どうやらどこかで道を間違えたらしい。
明は立ち止まって天を仰いだ。頭上には枝葉が重なり合って空を覆っている。明の歩く道の上だけが、ひび割れのような隙間になって青空が垣間見えていた。
討伐報告のために先に晴彦を帰したので、道を聞ける相手はいない。
──一度登って、道を探し直すべきか。
ため息をついて降ってきた道を引き返そうとした時、さして遠くない場所から鶏の鳴き声が聞こえた。
明は足を止めた。
再度、鶏の短い声が木々の間を抜けていく。空耳ではない。
歩いてきた時間からしても、村まではまだ距離があるはずだった。妙な事だ。明は首を捻った。
しかし、そもそも道を間違えていたのだから、時間感覚もあまりあてにはならない。近くに民家があるなら幸いと、明は声の聞こえた方向に足を向けた。
しばらく歩くと、いきなり空が開けた。その中央に巨大な屋敷が鎮座している。
立派な門が明を迎えるかのように開かれている。山中に忽然と現れた、煉獄の家よりも大きな屋敷に、明はしばし唖然とした。
屋敷の周りは木々に囲まれている。どう見てもここはまだ山奥だった。この屋敷に続く道はか細い獣道しかない。
──血鬼術の類か。
鬼殺という仕事をしている者は、不可解な事態を目の当たりにした時に、真っ先に鬼の関与を疑うものだ。
しかし、その家からは鬼の気配は全くしていなかった。それどころか、人の気配すらもない。鶏などの家畜がいるばかりで、全くの無人だった。
それに、もし血鬼術であるならば、この日の高い時間帯に燦々と降り注ぐ日差しの中で消えないのは異常だ。
しかし、尋常でない物を目にしたからには、隊士として調べないという選択肢はない。日光に耐性のある鬼や血鬼術がいる可能性が浮上したとなれば尚更のことだ。
明は努めて足音を消して門を潜った。
やはり、人の気配はない。
──今は全員が出払っているだけか?
ありえないとは言い切れないが、帰ってきたとしても、顔を見られる前に逃げれば問題ないだろう。
屋敷の庭には赤い鶏が放し飼いになっていた。厩舎には葦毛やら栗毛やらの沢山の馬が首を揃えて並んでいる。
門と同じように、玄関は訪問者を招いているかのように開け放たれていた。
──探るならば屋敷の中だ。
玄関には履き物が一つもなかった。だが、誰も家にいないのだからさほどおかしなことではない。山奥の屋敷という異常の中で、この程度は違和感として些細なことに思えた。
明は草鞋を脱いでベルトに挟んだ。汚れた足で歩くのが申し訳なくなるほどに磨かれた床板だった。少なくとも、そう長い事放置された家屋ではない。
襖を開けると、そこは朱膳朱椀の並ぶ空間だった。
明はぎょっとして、しばし動きを止めた。
食べ物の良い匂いが部屋中に充満していた。膳に近寄れば、作りたてらしく、湯気が立ち昇っているのが見えた。
異臭はしていなかったが、手をつける気にはなれなかった。豪勢な食事の並ぶ部屋を通り抜け、今しがた開いた襖の真向かいにある襖に手をかける。やはり、いかなる生物の気配もない。
明は慎重に襖を横に滑らせた。
二つ目の部屋は財宝で溢れかえっていた。大判小判の溢れかえった櫃、豪華な調度品、華美な装飾の施された刀剣類。贅の限りを尽くしたかのような物品で部屋の中は埋め尽くされていた。
それを見た瞬間、先日泊まった宿屋の女将から聞いた話が思い起こされた。
──『迷い家は、山中に現れる屋敷の怪異のことです』
実在する「胡乱な存在」である鬼を追う以上、鬼殺隊は必然的に、怪しげな噂や伝承を積極的に聞く事になる。聞き込みをする中で聞いた伝承の一つに、目の前の異様な光景と合致するものがあった。
彼女から聞いた「迷い家」というのは、山中に突然無人の屋敷が現れ、訪れた者をもてなすという、無害な怪談だった。
──鬼などという超常のものがいる以上、他の妖怪やら何やらが実在したとしてもおかしくはない。
目の前の光景を説明するのに、他の方法を思いつかなかった。納得する事にした──というよりは、自分に言い聞かせた。自分の正気を疑うよりは、異常事態を認める方がまだましなように思えた。
その部屋は食事の並ぶ部屋よりも、物が多くて歩きにくかった。無闇に触らないように慎重に通り抜けて、明は三つ目の襖に手をかけた。
──次は何が出るのだろうか。
ここに至るまで、全く危険がなかったためか、気味の悪さに加えて少しばかりの好奇心が湧いてきていた。
明は躊躇なく、三つ目の襖を開いた。
その部屋は前の二つよりはこじんまりとしていた。目の前には長い卓が一つ。並べられた何枚もの巨大な皿の上に、人間のお造りが拵えられていた。
左端には有田焼の絵皿の上に、女の生首が乗っていた。結い上げられた髪には乱れ一つなく、切長の目を閉じた顔は眠っているように見えた。
首から右には刺身のように薄く切られた生の肉が並ぶ。艶のある白い肌と血の滲みそうなほど真っ赤な肉の断面の対比が毒々しい美しさを生み出していた。
見た目にも美しい、色とりどりの皿の群れ。ただの馬刺しにしか見えないもの、原型を留めている手指、足、骨盤その他。
盃は赤黒い液体で満たされていた。血の臭気が明の鼻をくすぐった。
嫌悪感で背にどっと冷や汗が湧いた。
「……やめろ」
それまでに感じていた気味の悪さと好奇心の、どちらもが失せていた。血の気の引いた唇を震わせる。
「いらない」
どこか懇願にも似た声が零れ落ちた。
「いい加減にしてくれ」
ばくばくと激しく鳴る心臓が痛い。
明は右脇の障子を乱暴に開け、庭に飛び降りた。勢いのままに塀を飛び超え、足袋一枚のまま山を駆け降りた。
──吐き気はしなかった。
しなかったから問題だったのだ。
あの光景を見て、あろうことか食欲をそそられた。
明は立ち止まり、右手で顔を覆った。その場に蹲る。
──あの屋敷は何がしたかったんだ。
わかっている。──あれはただ、明をもてなそうとしただけだ。
『鬼』をもてなすために、金銀財宝を作り、人肉の料理を拵えた。
溢れそうになった言葉を喉の奥ですり潰す。代わりに呻き声が漏れた。
──早く、この山を出なければ。
ふらりと立ち上がろうとした途端、背に負っていた荷が妙な音を立てた。
嫌な予感のままに、明は背嚢を下ろした。見覚えのない膨らみが増えていた。胸に冷たいものが落ちた。
背嚢の口を開ける。
見覚えのある狐面と群青の羽織が、中から溢れ出た。
遠くで鶏の鳴く声が聞こえた。