脇腹の傷口から血が滲み続ける。
体を打つ土砂降りの雨が明の体温を奪っていた。濡れて肌に張り付く服と髪。本来なら止血できているはずの傷が、傷口を濡らすそれのせいでまだ塞がらない。呼吸で筋肉を絞り上げて、少しだけでも出血を抑える。それがただの悪あがきに過ぎないにしても。
足が重い。
ただでさえ薄暗い山の中。月が雨雲で覆われた夜ともなれば、足元すらもおぼつかなかった。
しかし、ここで倒れればそれこそ死が自分に追いつく。今の明には、雨宿りできる場所が必要だった。ここで意識を手放したら死ぬと、明の直感が告げていた。
山小屋などとは言わない。雨を凌げるほどに大きな木はないか。熊が冬眠した跡でもいい。風雨を凌げる場所を──どこか。
薄れかける意識を気力だけで引きとどめながら、明はどうにか二本の足を交互に動かし続けていた。
──ふと、視線の先に灯りが見えた。
明は睨むように目を細めた。疲労と苦痛が生み出した幻か。
雨で霞む視界の中に、明かりの灯る山小屋が見えた。
──とうとう、幻覚まで見え出したのか。
明は弱々しい苦笑を浮かべた。諦念がじわりと体を冷やしていく。いよいよ死が近いらしい。……呆気なかったな、と思った。母も、遠藤師匠も、きっと呆れるだろう。もし会えるのならば、だが。
しかし、明の足は吸い寄せられるように山小屋へと向かった。
歩けば山小屋は近づいた。山小屋の前に立っても、幻覚はまだ消えなかった。戸に指先で触れる。濡れた木の手触り。
──幻覚ではない?
この家は現実の物なのか。
頭を、肌を、隊服を、雨粒が叩く。血の気のない濡れた手を握りしめた。
明は息を吸い、戸を叩いた。
「失礼いたします。この雨の中で途方に暮れています。一晩の宿を貸していただけませんか」
張り上げた声は雨音にかき消されなかったか。
不安に思ったのも束の間、戸が軽く開いて中から光が漏れた。
「なんと、まあ。早く上がりなさい」
逆光で顔が良く見えない老爺は、明を見るなり、戸を大きく開いて迎え入れた。明は人の声を聞いた瞬間、ほっとした体が崩れそうになった。
「失礼します」
消え入りそうな声で明は家に入った。ぼたぼたと全身から滴る雨水が玄関に水溜りを作った。
「少し待ってな。着る物を出そう。濡れたままだと風邪をひく」
老爺はいそいそと部屋の隅の箪笥から襦袢を引っ張り出した。その間に、明は刀を床に置き、かじかんだ手で釦を外して隊服を脱いだ。
脇腹の長い傷口が露わになる。白い肌の上の赤色が鮮烈だった。
腰に差していた刀と、明の隻腕と真新しい傷を見た老爺は絶句した。まじまじと見つめる老爺の表情を尻目に、明は懐から取り出した包帯をきつく腹に巻いた。油紙に包んでいたおかげで、包帯は多少湿るだけで済んでいた。
老爺から差し出された白い襦袢を、感謝を述べて受け取り、身に纏う。乾いた服の肌触りが心地よく、暖かかった。
邪魔にならないように部屋の隅に蹲ろうとすると、老爺は自分が座っていた茣蓙を開けた。
「あの雨の中にいたんだ。火の近くで暖まった方がいい」
言われるままに、明は囲炉裏の側に敷かれた茣蓙の上に座った。少しささくれた茣蓙が、ざらりとした感触を素足に伝えた。
「何か食えそうか?」
老爺は竹籠の中から柘榴を取り出した。
「いえ……おかまいなく」
明は首を振った。今は物を食べるよりも、体を休めて傷を塞ぐのに注力したかった。
「そうか。ならせめて、温かい飲み物でも作ろう」
そう言って老爺は囲炉裏鍋に水を注いだ。
明は膝を抱えて目を閉じた。酷使された肉体が鉛のように重かった。
「……お前さんは鬼狩りの剣士か?」
迷うような問いかけに対し、こくり、と明は首を縦に振った。声を出す気力はなかった。
「……妙な縁もあるものだな。随分前のことになるが、儂は鬼狩りと会った事がある。湯が沸くまでの間、その話でもしよう」
老爺はもう一枚、明の肩に着物を着せかけた。
「少し前まで、この山の麓には村があった。さほど大きくはないが、実りの豊かな良い村だった」
ぱちぱちと囲炉裏で火花の爆ぜる音がしていた。
「村はある晩、ひとりの鬼の襲撃によって壊滅した。村人は瞬く間に食い尽くされ、鬼狩りの剣士が鬼を討った時に生き残っていたのは四人だけだった。そのうちで最も幼かった少年は、『自分も鬼狩りになる』と言って他の三人と袂を分かった」
老爺は深く息を吐いた。
「少年は老いた剣士に師事した。一年の鍛錬の末、少年は剣術を身につけた。そして鬼狩りの剣士となるために、最後の試験に挑んだ」
濡れた髪がじわりと襦袢の肩の辺りを湿らせていく。重苦しい息苦しさには覚えがあった。──老爺の話の先が、明にはわかってしまっていた。
「お前さんも鬼狩りの剣士なら、知っているだろう。少年は、鬼のいる山へ向かった。そこで七日七晩を過ごすことで鬼狩として認められるという。……少年はその山で命を落とした」
痛ましげな老爺の声が明の胸を刺した。
「たった十四の少年だった」
あの選別を生き残って剣士をしている自分のことを、この老爺がどう思っているのかが分からなかった。それが恐ろしかった。
「儂はあの子を、哀れに思う……」
老爺は明を見てはいなかった。小屋の戸を見る老爺の目は遠い。身動きするのも躊躇われ、明は体を固くしていた。
「あの村で殺された人々も、少年も、そして村を離れた三人も。儂は誰も、救えなかった」
老爺は煮立った湯を急須に注いだ。
「……だが、きっと、お前さんの道はあの少年よりも過酷なものになるだろう」
明は目を瞬かせ、膝を抱えたまま老爺を見上げた。
「このまま生きていても、救われることはないかもしれない。報われずに苦痛の中で死ぬ相が色濃い」
囲炉裏の火を挟んで明を見る老爺の眼は、濡れた黒曜石のように光って見えた。
「火の上を歩くような道だ。足裏を焼く痛みが絶えることはないだろう」
揺らめく火が生み出す影が、老爺の顔の上に踊る。老爺は湯呑みに茶を注いだ。
「儂は、お前さんに楽になる道を与えたい」
脇腹の傷のじくじくとした痛み。かじかんでいた手には血がめぐり始めて軽く痺れていた。重い体の深い虚脱感が喉と肺を麻痺させている。朧げな現実感の中で、明は首を横に振った。
「このままでは、その腹の傷の痛みを遥かに越える苦痛と苦難が待っているだろう」
「いりません。……それが、私の行くべき道ですから」
老爺は黒々とした眼で射抜くように明を見つめた。明はその視線を受け止めて、見つめ返す。
老爺は溜息を吐いて、湯呑みの茶を口に含んだ。そして、すぐに吐き出した。
「……すまんね、水が悪くなっていたらしい」
その声は遠くから響いているかのように霞んで聞こえた。
「しばらく火を絶やさずにおこう。お前さんが体を冷やしてはいけないから」
疲労が明の体を襲った。老爺への恐れは消え失せていた。彼はただ明を気遣う気配だけを纏っていた。ゆっくりと薄れていく意識の中、ぱちぱちと爆ぜる火花の音だけが最後まで耳の奥に響いていた。
鳥の声が聞こえた。
目を開くと、剥がれかけた壁板の隙間から明るい緑色が見えた。くっきりとした影を産む日差しは快晴を告げている。吹き抜けた風には過ぎ去った雨の匂いが混じっていた。
身を起こした明は、周囲を見渡し、昨晩の事を思い出そうとした。
──任務で負傷して、雨に降られて……確か、山小屋を訪れたはず。
明は襟元に触れた。着ているのは襦袢ではなく、湿り気一つなく乾いた隊服。
部屋の中には、囲炉裏などない。一面に床板が張られている。部屋の一辺だけが、一段高くなっていた。
体の脇に置かれていた刀を手に、明は立ち上がった。
床は土埃でざらざらとしていた。一部の板は剥がれかけている。家具ひとつ置かれておらず、とても、人が住んでいるとは思えない。
──あれは、生死の淵で見た幻だったのか。
自分の記憶とは似ても似つかない屋内の様子に、明は首を傾げた。
──それに、この内装は……
明は建物の外に出た。
振り返ってその建物の外観を見てみれば、それは明らかに廃神社のものだった。
はじめに頭をよぎったのは、自分が犯しただろう禁忌だった。
──申し訳ない。
鬼殺を生業とする自分は、神道の嫌う死穢に塗れている。いかに廃れた神社と言えど、自分が立ち入って良い場所ではない。その上、傷口から血が流れており、血穢までも重なっている身だった。尚更、神の怒りに触れかねない所業。
明は無意識に脇腹に手を当て、その手触りに眉を顰めた。包帯以外の膨らみがある。──否、それだけではない。
すぐさま、釦に手をかけて隊服の前をはだけた。途端に、青臭い匂いが鼻をつく。
包帯を巻いた記憶はある。──しかし、これは。
包帯の下に、揉まれた草が挟まれていた。草を取り除くと、深く抉れた傷口があるはずのそこには、完全に塞がった傷跡だけが存在していた。