父の仕事の都合で住居を移す前は、
子供の頃──学校の終わったあとなどは、近所の同年代の子供達とよく遊んでいたのを覚えています。荏原にいたときは、女の子よりは男の子と遊ぶ事が多かったように記憶しています。今の私からは想像しにくいかもしれませんが、なにぶん、活発な子供だったので、よく追いかけっこやらをしていました。
その、よく空き地で遊んでいた近所の子供の集団の中に、今思えば奇妙な子供がいました。
白い髪に赤い眼をした女の子でした。名前は……まだ、思い出せていません。もしかしたら男の子だったかもしれません。あの年頃の子供というのは、男女の区別がつきにくいものでしょう。あまりものを知らない子供の頃だったので、その子の眼と髪の色合いについて、特別どうこう思ったりはしませんでしたし、周りの子供も何も言っていませんでした。今にして思い返してみると、随分と目立つ色をしていたはずなのに、不思議なものです。
その子と特別仲が良かったわけではなかったと思います。記憶が確かなら、私がよく遊んでいたのは、シゲくんとかっちゃんという別の二人でした。その白い子とは、よく同じ空き地で遊んでいて、たまに鬼ごっこなどで大人数で遊ぶ時には話したりするような、その程度の関わりだったはずです。それでも、記憶に残っていることが一つ、二つあります。
まず、その子はとても足が速かった。さっき言ったような鬼ごっこでは、一度もあの子を捕まえる事ができませんでした。年上の子を含めても、かけっこでその子に勝てた子はいませんでした。それどころかその子は、他の子と遊ぶ時、いつも手加減していたように思います。まるで相手に合わせて走る速さを抑えているような、そんな感じがしていました。馬鹿にされているようで悔しかったのを覚えています。
……そうそう、あの子は木登りも上手かった。枝の間を跳ぶようにして、まるで猿か何かのようにするすると登っていくのです。あの子が登るのを見た後、自分も登れるような気がして、同じ道筋を辿ろうとしました。あの枝に手をかけて、あの節に足を置いて……って。
でも、当然、そう簡単に登れるわけがありません。見るのとするのでは全然違いました。途中まで登った時点で、私の腕は止まってしまいました。あの子は跳んで枝を掴んで進んでいましたが、私にできるはずがありません。降りようにも、先程までどこに足を置いていたのか、足の感覚で探そうにも見つけられなくなっていました。
困り果てて中途半端な姿で枝にしがみついているうちに、手足の限界に達しました。腕が震えて、力が入らなくなり、──落ちる、と。この高所から……と、言っても、せいぜい背丈より少し高い程度からですけども、この高さから落ちたら、そして打ちどころが悪ければ、大変な怪我をするでしょう。その瞬間、私は冗談ではなく死を覚悟しました。「肝が冷える」という意味を、あの時、初めて理解したのです。枝から手が離れ、背中から落ちた時の、──内臓がねじれるような、背に熱さと寒さを同時に感じるような、あの時の感覚は今でも忘れられません。
でも、私は地面に落ちませんでした。固い地面にぶつかる前に、私の体は抱き止められていました。──あの子に、です。
その時のあの子は……どう言ったらいいんでしょう。まるで、体が岩か鉄ででも出来ているかのように、あの子は小揺るぎもしませんでした。受け止めてくれた腕の硬さと、子供の時分の私よりも更に高い体温、そして至近距離から聞こえる、奇妙な息の音──そう、まるで、ふいごか何かのような音が、あの子の喉元から漏れていました。
そして、あの子は赤い眼を目一杯に見開いて、私に怒鳴りました。
「危ないじゃないか」、と。
その時の私は子供だったので、納得がいきませんでした。だって、そもそもが、あの子と同じことをしようとしていたんですから。それをあの子に「危ない」と怒られるのは納得できません。
そう言うと、その子は押し黙って、渋々、「なら、私ももうやらない。だから君もするな」と言いました。その言葉通り、あの子はそれ以降、一度も木に登ることはありませんでした。それを少し残念に思っていたような気がします。あの子の身のこなしはとても見事なもので、見ていて気持ちの良いものだったので。
あの子との会話で、もう一つだけ覚えている事があります。他にも、何度も言葉を交わしたことはあったのでしょうけど、覚えているのはこれだけです。
多分、引っ越しが決まった後のことでした。たまたま、いつも遊んでいる二人がまだ空き地に来ていない時、あの子がいたんです。あの子は私に、どこに越すのか尋ねました。それに答えると、その子はこういいました。
「夜に出歩いてはいけない」
私は何故かと聞きました。あの時だってそもそも夜に外を歩いたりはしませんでしたし、引っ越し先の治安が悪いという話も聞いていなかったので、わざわざそのような事を言われる理由が分かりませんでした。すると、あの子は「夜は鬼が出る」のだと言いました。
私は馬鹿にされているのだろうかと思いましたが、あの子は至って真剣な様子だったので、それを信じたふりをしました。
引っ越した後、私はすっかりその子のことを忘れていました。勉学で忙しくなりましたし、子供の時の記憶は曖昧になるものなので、当然と言えば当然です。
けれども、高等女学校の四年の冬に、ある噂が流れました。とある生徒──名前は思い出せません──が、夜道で鬼に襲われたというものです。私の学年の子で、同じ学級になったこともあった子でした。
それを聞いた時、唐突に、あの子のことを──幼い時分に言われた言葉を、思い出しました。
だから、つい、話を聞きたくなって、私はその子を探しました。その子はあまり話したがりませんでしたが、鬼に襲われた時、刀を持った人が守ってくれたのだとだけ教えてくれました。
他の子たちは、その子の話を信じていないようでした。鬼を見たと言う話だけでも馬鹿げているのに、帯刀が禁じられたこのご時世で、刀を持ち歩いている人が助けてくれただのとは、信じられるわけがありません。
けれども、私には、かつて言われた「夜は鬼が出る」という言葉を切って捨てることが出来ませんでした。改めて考えてみると、あの子そのものが、どこか、不思議で奇妙な存在でした。だからこそ、その言葉は何やら説得力のようなものを帯びてしまっていたのです。
荏原にいた頃の友人とは、住所などを交わすこともしていなかったので、今となっては会うこともできません。あの白い子供は今どうしているのか、そもそも、本当に
ただ、今になってあの子のことを考えていると、あの子自身も、鬼か物の怪か、そういう類の存在だったのではないかと、思えてならないのです。