朝一で遠征に出発するウマ娘取材を終えて、私は東京の外縁を──今となってはそうでもないが──ぐるりと回る電車に乗り、府中のトレセン学園から都心を躱して反対側にやってきた。
正式名称・日本ウマ娘トレーニングセンター学園。
大都市圏の主幹校を始め、全国各地にその系列校があるが、なかば『専門学校』に近い立ち位置のここは、雰囲気も独特だ。
「まあ、それは当然だろうナ」
顔に傷跡のある瘦身の男が、少し苦笑いを浮かべる。
眼光鋭く──ありていに言えばあまり人相は良くないが、その大きな原因となっている頬の傷は、担当しているウマ娘と戯れに並走し、その時に竹柵に突っ込んでしまった時にできたらしい。
──中山、トレセン学園障害専門校。
時折、専門校の制服ではなく、近々レースがあるのか、それともウイニングライブの練習にでも行くのか、勝負服を着たウマ娘ともすれ違うのは府中の本校と同じだが、少しだけ異なるのは、華美な装飾も少なく、おおよそパンツルックがほとんどなことだ。
そしてまた、晩秋の中山はもうだいぶ冷え込んでいるが、制服のスカートの下にジャージやタイツを履くでもなく、脚をむき出しにしている。
「ここでのトレーニングメニューは大きくふたつ──障害をクリアする練習と、長距離を走る練習だ」
担当ウマ娘に引き合わせるべく前を歩く男は、廊下の途中で急に立ち止まった。
私は何か気に触ることをしたかと、少し吃驚してしまったが、どうやらそうではないらしい。
手帳に落としていた視線を前に戻すと、そこには緑色の観葉植物──ヒト一人分のスペースを端に残して、まるっきり廊下を塞ぐように。
「……?」
少し思案して、私がその答えに辿り着いたころ、向こうからやってきたウマ娘が、それを実演してくれた。
「ほっ」
気の抜けた掛け声とともに、柔らかい枝葉を押し退けた右脚が、淡いベージュのリノリウムを叩く。
勢いあまってつんのめることもなく、左足をすっと引き付けて彼女は立ち止まる。
「──クルフュルスト」
それが、今日の私の取材対象だった。
月間トゥインクルの特集分冊として、障害競走──ハイステッパーシリーズ──を取り上げることになった私は、一通りの下調べをする中で、このウマ娘にスポットを当てることにした。
ある程度の知識は持っていたにせよ、普段扱っている平地やダート競争とは、あまりにも毛色の違うレース体系である障害競走を、あまねく深掘りするのは記事として完成度が上がらないと思ったからだ。
実際のところ、最初に担当トレーナーの言った言葉の意味も、私はピンと来ていなかったが、今目の前でストレッチをしているクルフュルストを見れば、なんとなくわかる。
彼女は、彼が指導している数人のウマ娘の中でも『実戦経験』がダントツに多い。
中央の本校での超強豪ウマ娘──特に短距離系のタイキシャトルやサクラバクシンオーなども凄まじいトモの主張があるのだが、今クルフュルストが確かめるように撫でまわしているそれも、全く引けを取らないものだ。
中央の彼女たちと違うのは、その足が傷だらけであること──。
そういうものに弱い人にしてみたら、ややもすると直視が憚られるほどのものだが、彼女はあっけらかんとしている。
「いや、別に……終わって風呂入る時は痛いっスけど」
走れば傷がつくのは当たり前だと言わんばかりに、幾分それを誇る部分もあるようだ。
今日はこれからウォームアップをした後にルーティンの飛越練習をして、それから中山競バ場に移動し、グランドジャンプの模擬レースをするらしい。
通常の平地競争でも時折、レースのない平日にコースを体験走行することはあるが、彼女たちのそれはもっと切実だ。
先刻廊下で彼女が飛んだ観葉植物も、私の肩ぐらいまでの高さはあった。
本番のレースではあんなヒラヒラした葉っぱではなく、後傾しているとは言え生け垣や竹柵を飛越していくのだ。
平地よりはるかに長い、三〇〇〇メートル、四〇〇〇メートルを走りながら。
「ちゃんと見とかないと、コケるんでね」
「全くだ」
手に一枚の紙きれを携えて、トレーナーが部屋に戻ってくる。
それを受け取ったクルフュルストは、口角を引き締め、眉間にきゅっと皺を寄せた。
「テラダイナスティ……アイツかぁ」
紙を突き返すと同時に、苦虫を嚙み潰したような顔で呟いたクルフュルスト。
私も、その名は聞いたことがある。
香港の財閥令嬢で、今年の春先に行われた阪神スプリングジャンプを勝利したウマ娘だ。
そういえば、と鞄から取材資料のファイルを取り出し、クルフュルストの戦績を探す。
そのレースで彼女は競争中止──コケたというのはこの時の事か。
「まあ、なんとかなるだろ」
「そうスかね」
「阪神は超高速ステージだからな。こっち(中山)は高低差もあるし、柵も高い──同じ距離でも障害が多ければ、お前に勝機は十分だし……」
「でも次って三五〇〇じゃなかったっけ?」
「それはイルミ。中山大障害は四一〇〇だぞ」
「あ~」
また穏やかな表情に戻ったクルフュルストは、立ち上がって、調子を確かめるように軽く飛び跳ねている。
『イルミ』とは、十二月の頭に同じ中山で行われるイルミネーションジャンプステークスのことだ。
ここで超新星が現れない限りは、年末の中山大障害でクルフュルストの勝利も可能性大らしい。
なるほど、と私は頷く。
阪神競バ場の代名詞ともなっている『仁川の坂』だが、言い換えればそこしか地形的な障害はない。
飛越すべき障害のどれをとっても、中山よりハードルは低く、超が付くかは別にして、高速ステージであることは間違いないだろう。
造成地である宝塚とは違い、武蔵野台地にある中山競バ場は自然の地形をそのまま生かした深い谷、バンケットがあるのも特徴だ。
「じゃあ飛越いってきま」
「おう──今日は二〇、二〇でいい」
「……少なくない?」
「その後中山走るんだぞ」
思い当たり、そして納得した、という風に笑って、クルフュルストは部屋を出て行った。
椅子の背もたれから上着を翻し、トレーナーも後を追う。
道すがら、私は彼に今後のレースの展望を伺う。
「ところで彼女、イルミネーションジャンプは出るんですか?」
「フムン……」
首を傾げたトレーナーは顎髭をさすり、私と並ぶように歩調を緩めた。
「本人がどうしても出たいなら出すが……グレードポイントは足りてるし、ファン投票になったとしてもまず間違いないからね」
時勢柄、既に日本入りして長いテラダイナスティは別にしても、外国からの参戦も少ないのは予測できる。
一か月前に迫ったこの時期に情報が入ってこないなら、それで枠からあぶれるということもなさそうだ。
イルミから大障害まで、どちらもホームの中山で移動が無いとはいえ、三週間のインターバルで過酷な障害競走を走るのは容易な事ではない。
さきほどクルフュルストから返された暫定の出走表を手に、トレーナーは何人かの名前を指差す。
「クルフュルストの隣、パプリカもウチの子なんだよ」
週明けには発表されるだろうが、現時点では部外秘のそれを私は遠慮がちに覗き込んだ。
ミソノパプリカ──その子は、イルミネーションジャンプも出るらしい。
同じ冠のついたミソノスピニッチは、遠縁の親戚だ。
「マル外はテラダイナスティとブーメラン、どっちかと言えばテラダイナスティの方が強敵だな」
最大のライバルは三枠二番、こちらの──肩入れするほど良く知る仲でもないが──クルフュルストは四枠二番だ。
といっても、八の字の中山障害コースでは、内外の有利不利もあまり関係なくなるらしいが。
グラウンドに出ると、冬の冷たい風が出迎えてくれた。
見回してみれば、そこかしこで湯気を立ち昇らせるウマ娘たち。
この光景は、どの学校でも変わらないのだが、少しばかり、疲労困憊と言った面持ちで肩を上下させているウマ娘が多くいるのは、それだけ練習が──そして、彼女たちが戦うステージが過酷だということなのだろう。
「あの、二〇、二〇というのは……」
「ああ──あそこでやってるよ」
トレーナーが示した先では、クルフュルストがちょうどスタートを切るところだった。
およそ一五〇メートルほど離れているだろうか、今から飛び越えるべき障害を確かめるように見つめ、ひと呼吸おいて走り出す。
助走はわずか数完歩。
その練習コースはずいぶん使い込まれているのだろう、蹄鉄が砂を砕く音を響かせて、クルフュルストは一気にトップスピードに入り、私の視界を横切っていく。
歩幅を測る躊躇いもまるで見せず、彼女は聳え立つ生け垣を飛越した。
派手に枝葉を蹴散らすでもなく。
そこには過去に感じたのと同種の凄み──正確に言えば、かつて見たあるウマ娘は『飛ぶように走っていた』──。
しかし今見たのは、言葉にすればその逆だ。
走るように、障害を飛越する。
一・六メートルの生け垣をクリアした余勢をそのままに、クルフュルストは再び、今度は反対側へ一五〇メートルほどの距離を取り、身を翻すと間髪入れずに先ほどと同じ動きに入った。
「これを二〇本ですか?」
さも当然のようにトレーナーは頷いたが、単純に考えれば、それだけで三〇〇〇メートルの距離を走ることになるのだ。
それも、『本番』の倍以上の障害を飛越しながら。
「あとの二〇本は、あっち」
どうやらそれが最後の二〇本目だったらしく、クルフュルストは飛越した勢いそのままに、トレーナーが指差した小高い丘の方へ走っていった。
ここは流石に全力疾走ではないが、それでも六割、七割か。
それでも、彼女にとってはじゅうぶん呼吸を整えられるらしい。
──と、再びトップスピードに入った彼女が、ぐらりと前に倒れ込んだ──ように見えた。いや、見えなくなった。
「!」
すわアクシデントか、と身を乗り出すが、隣にいるトレーナーは何でもないように歩き出す。
数秒後、やや茶色を含んだ黒い尻尾が、風にたなびいて再び現れた。
「バンケット……」
近づいていくと、ひとつの大きな丘に見えたそれは内側で仕切られていて、向こう側にも同じような平地があった。
隠れていたバンケットの傍に立つ看板には、手間から1/8、1/9、1/10と分数が書いてある。
四列ほどあるが、一番奥は数字が一つ飛んで、1/12となっていた。
反対側の平地までは、六、七〇メートルほどだろうか。
歩くのなら、山の手の方によくあるちょっとした坂程度だが、ここをウマ娘が全力で走り抜けるとなれば話は違う。
「もっと勾配が緩いのは、本コースにあるし、学園の外を走ればそのぐらいの坂はあるから。ここでやるのは、バランス感覚と姿勢制御の練習だね」
「なるほど……」
クルフュルストはここでもまた、前後に一〇〇メートルほどの走行を挟んで折り返しながら、バンケットを次々とクリアしていく。
流石の彼女も、ここでの折り返しではかなり流し気味だが、勾配に差し掛かるとすぐに、脚の回転をトップギアに上げる。
そのたびに耳をキュッと絞り──しかしあくまで、表情は平静だ。
「阪神では──」
「ん?」
私は、先ほどクルフュルストが言っていた『コケた』レースの話を振ってみる。
今目の前で、本番よりもきつい障害を飛越し、バンケットを易々とクリアしている彼女を見ていると、『コケた』のが想像もつかないほどだからだ。
「あれは、そうだな……テラダイナスティの作戦にやられた部分が大きい」
「作戦?」
ううん、と唸って彼は、手に持ったバインダーの紙を一枚裏返し、そこに少し歪んだオーバルを描いた。
「阪神スプリングジャンプは、芝の本コースをスタートしてダートを横切って障害コースに入っていく──」
オープンや未勝利クラスの障害レースはたいてい三〇〇〇メートル級のコース設定だが、G1レースになるとその距離は大きく伸びる。
阪神スプリングジャンプも例によって三九〇〇メートルの長丁場なのだが、阪神競バ場において、三八〇〇と三九〇〇で設定されるレースでは、スタートラインが芝の本コースに設定されるのだ。
「そこがミソだ。もともとテラダイナスティは平地でデビューしたウマ娘だが、香港でもっと強いウマ娘が同期にいたせいで、ダートから障害へと渡り歩いてきた経歴を持つ。レイズアネイティヴ系のお家芸だな」
「ん……」
確かに、テラダイナスティは香港で芝の未勝利戦を突破している。
ところがその後は、同期のグリフォンネイルが頭角を現してきたせいで、香港のG3,G2はまるで勝てなかった。
どちらのウマ娘も現地トレセン入学時の遺伝子検査ではネイティヴダンサー系の血統を示しているが、その血統にはおおよそ『底知れない』、あるいは『非凡にして万能』といった評価が付く。
「レイズアネイティヴ……そういえば、あれは確かネイティヴダンサー系列の濃度が高い……」
早くに故障で引退したレイズアネイティヴだが、その血統を色濃く受け継ぐウマ娘はバラエティに富んだ競争能力の持ち主が多い。
ウマ娘の競争能力と血統系列には、倫理的な原因と、科学的な原因の二つのおかげでいまだに謎の部分が多いが、ある程度は『ブランド』ごとに、その競争能力を最も発揮するステージは判明している。
しかしこれは、突き詰めていけば『遺伝子の選択』につながりかねない、極めてセンシティブなものだ。
現在の法制度ではどの国においても、本人の希望なしには遺伝子検査を行わないことが厳格に定められている。
「テラダイナスティが遺伝子検査を受けたのは、ダートで2戦連続連対を逃した時だ。芝もダートもそれなりに走るウマ娘だったらしいが……」
心機一転、マル外扱いでも制約の少ない日本の障害競走に戦いのステージを移し、彼女はそこでまずひと華を咲かせた。
それが今年春の阪神スプリングジャンプだったのだが──。
「日本だと、平地は平地、障害は障害で入りから分かれてるようなところがありますよね」
「あぁ、まあな……」
つまるところ、テラダイナスティは昔取った杵柄を活用したということだ。
ふつう障害レースでは、いざ本番というところでの自分の調子を見極めるために、スタート直後はややゆったりと走ることが多い。
そこで彼女は、仁川の坂を駆け降りるところから始まる阪神三九〇〇のスタート地点の芝、そしてダートで序盤の逃げを打ったのだ。
つられたバ群は速いペースで最初の障害へと差し掛かる──クルフュルストもやや前目の位置をキープして、中団の外に構えていた。
それ自体は阪神のセオリー通りだったのだが、普段よりもわずかに急いた脚のせいで、直線にある一つ目の障害の踏み切りをわずかにズラしてしまう。
「そこからはグダグダ……その時点で仕切り直しても間に合ったかもしれないけど、クルフュルストはミスというか、不安要素を無理矢理ねじ伏せようとする性格だからな」
「……」
芝からダート、そして障害コースの3角手前の障害と、連続して足場の変わるコース設定であることも災いした。
その四番障害をなんとか飛越したクルフュルストは、直後のきつい3コーナーで外に振られる身体をなんとか押し留めようとした右脚が芝を噛まず、転倒。
股関節の違和感がしばらく続き、故障明けでターフに戻ってきたのは八月の終わりだった。
小倉に遠征して重賞を戦ったのだが、ここではスピードの維持は二の次として、努めて丁寧に飛越をこなすことに集中したこともあって、またしてもテラダイナスティの後塵を拝し、古株のライデンゴッツにも離れての三着。
年間二勝で早々に年末の一枠を確保したテラダイナスティがちょっとした体調不良──おそらくは月のもので回避した東京ハイジャンプを勝っていなければ、先ほどから話に出ているイルミネーションジャンプステークスに出走しないと年末の中山大障害出走が危ういところだった。