第一話 きみが生まれた日のこと
五大国の一つである、火の国に存在する木ノ葉隠れの里。
木ノ葉最強と謳われている一族の元に生まれてきた俺の名は、うちはスバル。
一族に恥じない忍になるべく幼い頃から厳しい修行を積んできたが、両親は俺には何の期待もしていないだろう。
何故なら、俺は生まれてから一度も口から音を出せたことがないからだ。
両親によれば生まれた時も産声一つ上げなかったらしい。声で意思疎通をとれない忍なんぞ論外、父さんの落胆ぶりは言葉にされずとも伝わってくる。
どうして俺は喋ることができないのか? これには里の優秀な医療忍者も首を傾げるばかり。喉や肺は勿論のこと、その他身体的機能に問題は一切見つからない。念のため受けた心理カウンセラーでも原因は見つからなかった。
「もし心理的なものだとしたら、お母様の胎内にいた頃からメンタルにダメージを受けていたことになりますよね」
などと指摘してきた相談員の顔は今でも忘れられない。真顔だった。隣にいた母さんなんて絶句してた。そんな赤ちゃん嫌すぎる。
結局は先天的なものだろうと結論づけられた。
「スバル。買い物に行くから荷物持ちをしてくれないかしら」
自分の部屋で雑念だらけの瞑想をしていると、随分と膨らんだお腹に手を置いている母さんが部屋の前に立っていた。
「はぐれるといけないから手を繋ぎましょう」
こちらに差し出された手を掴み、顔を上げる。母さんは困ったように眉尻を下げていた。
「アナタはまだアカデミーにも入学していないのだから、少しくらい忍術や幻術が上手くできなくたっていいのよ」
俺が自分の部屋で瞑想なんて柄にないことをしていたのは、他でもない父さんの言いつけだったからだ。俺は声を出せないどころか、忍術や幻術の才能は一般人以下だった。体術はそれなりに得意なんだけど、父さんは気に入らないらしい。
チャクラ消費を抑えられるし、体術も十分強いと思うんだけどな。相手がのろのろ印を結んでいる間に懐に潜り込めたりするし。
悪いところっていうと、地味? 忍術幻術が派手すぎるってのもある。
俺と母さんは無駄に広い家の敷地を抜けて、集落内の商店街に繰り出した。
ここにいるのが全員身内ってすごいよね。オーソドックスな忍具専門店から角にある豆腐屋まで、全て一族の人間が切り盛りしてるっていうんだから驚きだ。
「……いらっしゃい」
どこか不機嫌そうな豆腐屋のお婆さんが気怠げに椅子から立ち上がる。母さんが豆腐を三丁注文すると、お婆さんは俺をひと睨みしてから裏に行ってしまう。
エリート一族に爆誕してしまった落ちこぼれへの対応はこんなもんだ。最初はそれなりにショックだったけど、今はこれくらいの精神的村八分は全く気にしてない。
「ほら。さっさと行きな」
「ありがとうございます」
豆腐を受け取った母さんがにこっと微笑む。お婆さんが怯んだ。母さんの太陽のような笑みはアンデッドモンスターに効果抜群である。
商店街に付き添ってから一ヶ月後。入院していた母さんが、小さな赤ん坊を抱いて帰ってきた。
「ほら、スバル。弟のイタチよ」
赤ん坊の瞳は硬く閉じられており、未だに母親のお腹の中にいるかのように穏やかに眠っていた。
なんだこの生き物は。あまりにも小さく、この世のものとは思えない。恐る恐る頬を指で突いてみたら想像以上に沈んで戦慄する。
マシュマロみたいにぷくぷくしてる。永遠に触っていたい。舐めちゃいたいくらい可愛いって、こんな時のためにある言葉だったのか!
戦々恐々と抱き上げた小さな弟はずっしりと重く、そして温かい。――生きている。そんな当たり前な事が何度も何度も頭を巡った。
ぱちっと開いた小さな瞳と目が合う。どうやら起こしちゃったみたいだ。
ほら、俺がお兄ちゃんだよ。はじめまして!
イタチはキラキラと目を輝かせ、花が綻ぶような笑みを浮かべた。その瞬間、俺の中で何かが音を立てて崩れていく。
「…………スバル?」
真正面に立っていた母さんが、ひどく驚いたような顔をしてこちらを見ていた。
少し離れた場所で待機する俺と、こちらにハイハイで向かってくる弟。
この胸のときめきを誰かと共有したい。
生後四ヶ月でハイハイをマスターしてしまったイタチは、こうやって一日に何度も俺の後を追いかけてくるようになった。
ああ、今すぐにでもその小さな体を抱きしめたい。しかし俺は他でもない弟のために、心を鬼にしてその場から動かないと決めている。兄が弟の成長を妨げるなんてあってはならないからだ。
そうなるくらいなら舌を噛み切って死んだ方がマシ。なんなら火遁という地獄の業火に焼かれて死にたいし、あわよくば弟に遺灰を撒かれたい。
三歳児とは思えない思考力が唯一の自慢な俺だが、イタチに関してはIQが一桁になってしまうのはチャームポイントだ。もちろん欠点じゃない。
部屋に置かれた大きな姿見鏡に映る俺は完全なる無表情かつ冷めた目で弟を見ていたが、心の中はフィーバーしていた。
「にぃ、に」
無表情のまま、こくこくと何度か頷く。
イタチは俺から反応があったことが嬉しいのか、ぱあっと顔を綻ばせていた。
「またイタチと遊んでくれていたのね、スバル」
エプロンをつけた母さんが、隣の部屋から小窓越しに覗き込んできていた。
イタチの部屋と母さんの部屋は隣同士になっていて、小さな窓からいつでもこちらの様子が確認できるようになっている。
元々ここは俺の部屋だった。喜んでイタチに献上した結果、今はここから少し離れた物置部屋を自室として使っている。
どうせ寝る時しか使わないし、イタチの健やかな成長のためなら外で寝たって構わない。
「あーう!」
ぷにっと柔らかい何かが触れた。その場で正座していた俺の膝にはいつの間にかイタチの手のひらが乗っていて、さらに体を乗り上げて俺の胸の中に飛び込んできていた。
「あらあら。本当にイタチはお兄ちゃんのことが大好きなんだから」
慌てて抱きとめようと広げた腕が、じんっと熱を持つ。僅かに痺れるような感覚ののち、幼児特有の温かさが腕から全身に伝わってきた。
おいおい、俺を殺す気? 幸福過多で心肺停止しそう。
初めてイタチを抱っこしたあの日から、俺の世界は弟を中心に回っている。喋らないせいか滅多に動かない表情筋もイタチといる時は少しだけ柔らかい……気がする。
俺がこの子のためにしてあげられることって何だろうなあ。忍術幻術は絶望的だけど、体術くらいなら見本になれるかもしれない。
俺はこの子にとって良い兄になれるだろうか?
「そろそろご飯の時間よ。お父さんがお腹を空かせて待ってるわね」
母さんがゆっくり立ち上がり、こちらに両手を差し出してくる。
俺は抱っこしていたイタチを窓越しに母さんに預け、その場で大きな伸びをした。
午前中は基礎体力をつける運動、午後はずっとイタチのハイハイ特訓に付き合ってたから全身が軽い筋肉痛だ。
「今日はスバルが好きなビーフシチューよ」
笑いかけてくる母さんにいつものように頷き、エプロンの裾を控えめに掴んだ。
今ではすっかり常時脳内お花畑イタチ大好き状態な俺だが、イタチが生まれる前はそれなりに病んでいた。むしろ闇しかなかった。
豆腐屋のお婆さんには挨拶代わりに睨まれるし、試しに一人で悠々と外出してみたら案の定集団リンチに遭ったこともある。精神的に。彼らに、子供に物理的な暴力を振るって気持ち良くなるという特殊性癖がなくて本当によかった。
おかげで今も五体満足で生きてます。どうも、あの時見逃してもらった鶴です。恩を仇で返すタイプの鶴なので全員の急所を潰して逃げてしまいましたが、今も変わらずお過ごしでしょうか?
今思うと普通に逞しかったかもしれない。目には目を、嫌がらせには股間潰しをモットーに生きてた。やられっぱなしは性に合わないからな。
それでも俺の世界が弟の誕生によって彩られたのは事実だ。イタチは俺が手を伸ばせば紅葉のような小さな手で応えてくれるし、笑顔が見たいなと思えば察したように無邪気に笑ってくれる。
まさに混沌の地に舞い降りし天使。国を挙げて守らなければならない存在である。
「美味しい?」
家族で囲んだテーブルの前。完全に思考をお空に飛ばしていた意識が、母さんの呼びかけによって現実に戻ってくる。
そうだ、今は夕飯の時間だった。
ビーフシチューを一口食べたまま固まっていたせいか、母さんが心配そうに見つめてきていた。こくこくと急いで頷き、さっそく二口目を口にする。美味いの一言も言えない息子でごめん。
イタチは母乳で満腹になって眠気に襲われたのか、母さんの隣のベビーベッドで気持ちよさそうに眠っていた。
「…………スバル」
低い声が鼓膜を刺激する。
父さんが俺の名前を呼ぶのは随分久しぶりな気がする。それも食事中にだなんて。
父さんは相変わらずぎゅっと強く結ばれた口端を僅かに緩めた。
「明日から忍術の修行をしてみないか」
これまで一貫して体力作りや体術の修行だけをしてきたのに、どうして。
それなりに驚いたものの、表情には一切出なかったらしい。
父さんは深いため息をついて「忍としての素質はあるようだが、ここまで感情が表に出ないとな……」と頭を掻いている。
「後継はイタチになるだろう。お前には兄としてイタチをサポートできるよう、さらに修行に励んでもらいたいと思っている」
俺は頷いた。それはもう素早く。
「早いな……本当に分かっているのか? 長男であるお前が後継ではないと言ってるんだぞ」
いくらなんでも心配になったのか、父さんが再度問いかけてきたので今度は素早く、かつ、さっきより深く頷いてみせる。
声も出せない、忍術幻術は不得意。そんな俺がイタチにしてやれることは少ないだろう。
体術だって、優秀なイタチは難なく身につけてしまうに違いない。
なぜ優秀だと分かるのかって? 俺の弟レーダーがそう言ってるからだ。
そんな俺の様子を見ていた母さんが吹き出す。
「ふふっ。とっても分かりにくいけれど、この子もイタチのことが大好きなのよ」
俺のイタチへの感情が正しく伝わっているのは嬉しいけど、なんだか気恥ずかしい。父さんが「……そうなのか?」と半信半疑で俺と母さんを見比べてくるから余計に身の置き場がなかった。
「明日から本格的に修行を開始するから、そのつもりでいるように」
初級忍術が一つも成功しなかったトラウマが蘇りそう。でも他でもないイタチのためなら、たとえ火の中水の中! 俺はやってみせるぞ!
父さんの指導のもと忍術の修行を開始してから、丸二年が経過しようとしていた。
この修行で分かったことは、俺に忍術の才能はまったくないということだった。
まあね、この思考力ですらカバーできない理解力のなさというか才能というか、以前からそんな気はしてた。本当だとも。
今日も今日とて、父さんによる付きっきりの忍術修行に明け暮れていた俺のメンタルはすでにズタボロ。SAN値直送は免れない状態である。
大きく息を吸い込んで、覚えたばかりの印を結ぶ。ぷうっと頬を膨らませた俺の口から飛び出してきたのは、先ほど父さんが見本に見せてくれた炎とは比べ物にならないほどお粗末なものだった。
「…………なんだこれは」
シャボン玉を彷彿とさせる小さく細切れな煙が、歯と歯の間から抜け出していく。
うそ……俺の火遁の性能って、マッチ並み……?
口から噴き出す前に歯茎か何かを燃やしたせいで煙が上がってるんだと思う。心なしかヒリヒリする。やだなー、あとで歯磨き粉が染みそう。
父さんも同じ考えに至ったらしく、あからさまに落胆していた。
「火遁はまだ難しいようだな。……オレがお前くらいの頃には扱えていたはずだが」
ここで父さんの話は関係なくない? 五歳児相手にマウントとってくるなんて大人げないぞ!
父さんは気を取り直すように咳払いをした。
「……アー、そうだな。多少は忍術が苦手だとしても、まだまだ伸び代はあるだろう」
父さんの不器用なフォローに納得したわけじゃないけど、とりあえず頷いておく。いつか絶対に見返してやる。
「お前は体術に関しては飲み込みが早いし、反射神経も悪くない」
父さんは懐から分厚い巻物を取り出し、俺の目の前に広げた。
次に学ぶ忍術に関する指南書だろうか。
軽く目を通してみると、そこには他の巻物とは比べ物にならない量の文字や図解がみっちりと詰め込まれていた。変わっているのはそれだけではなく、その内容も。これまで学んできた分身や身代わりの術とは比べ物にならないくらい、高度で複雑な忍術だというのは明白だった。
「これは……禁術の一つだ」
え? なんでそんなヤバそうなやつを俺に教えようとしてるの? さっき忍術の才能ねーな(意訳)って言ってたじゃんか!
「そう怖い顔をするんじゃない。お前がこれをマスターすれば、声を出せるようになるかもしれないと思ってな」
あっという間に手のひらくるくるした俺は、熱心に巻物を読み始めた。
巻物には《多重影分身の術〜うちは流・改〜》と書かれてあり、元々は二代目火影が考案した術を、うちはの人間が改悪……いや改訂したものだと説明が続いていた。
なんだろ、急に胡散臭くなってきたな。
「影分身は分身の術よりもチャクラ消費が激しく、多用すれば死に至ることもある危険な術だ。一度に複数の影分身を生み出す多重影分身は禁術とされている」
なるほど。つまり、天才と謳われるうちは一族の誰かがそのデメリットを克服したってことね。
「それは改訂版でも変わらない。存分に気をつけるように」
変わらないのかよ。もうこの一族に何かを期待しちゃいけないのかもしれない。
「スバル。お前に一番最初に分身の術を教えた理由は分かっているか?」
俺はそばに落ちていた木の棒を手に取って、地面に文字を書いた。
《分身体なら話せるかもしれないと思ったから》
「その通り。だが、どれだけ修行を重ねても、分身もお前と同じように話すことはできなかった」
つまり、実体に近い影分身の術なら話せるかもしれないってこと? もしそうなら俺にとって最優先で取得したい術になる。実際に取得できるかどうかは別として。
「改訂版影分身の術は、本来の影分身の術と異なる点が二つある。一つ目は分身の性能、二つ目は……術のトリガーそのものだ」
《トリガー?》
「写輪眼だ」
父さんが目を伏せ、もう一度目を開く。
俺と同じ真っ黒な瞳はすっかり影を潜め、鮮やかな血の色で満たされている。
血の海を泳ぐオタマジャクシのように、黒い巴模様が瞳孔の周りに浮かんでいて――生きている人間の瞳とは思えなかった。
「これはうちは一族しか開眼できない血継限界だ。この瞳をもって二代目火影の影分身の術を発動することにより、通常の影分身よりもさらに本体に近い性能と耐久を持つ分身体が形成される」
《この術を会得できた人はどれくらいいるの?》
「いない。この術の改訂者ですら不可能だった」
一体どういうことだってばさ。つい母さんと仲の良い女性の口調が出てきちゃった。
誰も成功したことがない術を、なんで自信満々に指南書として残していったんだよ。せめて自分だけは成功させてくれ。
「理論上はこの仕組みで成功するはずなんだ。オレや歴代のうちはのトップには扱えなかったが、お前にならできると信じてこれを見せた」
改訂者といいその自信はどこから来るんだと白けた目で父さんを見る。そもそもさっき俺に忍術の才能はないって以下略!
「巻物の一番最後を見てみるといい」
とりあえず巻物を全部広げてみることにした。
最後の十行には図式や説明文はなく、どうやら改訂者本人のコメントが載っているらしい。そこには、達筆な字でこう書かれてあった。
《うちは一族の強みは血継限界にある。だが、瞳術の発動と引き換えに心は蝕まれ、二つ目の瞳では世界さえも閉ざされていくだろう。うちは特有の欠点を持たない存在になら、この術を完成させられるのではないかと私は考えている》
二つ目の瞳はよく分からなかったけど、何となく父さんの言いたいことが分かってしまった。
「お前は昔から声を出せない代わりに、心の成長速度には目を見張るものがある。……写輪眼の開眼条件は、愛の喪失や己の未熟さから生じる葛藤。うちはの人間が置かれる状況が厳しいというのもあるが、その苦しみに心を病まない者はいなかった」
うちは一族の者でありながら、うちはの内面的特徴を受け継がぬ者。父さんは俺がそうだと確信しているようだった。
「この術は、写輪眼を用いることによって分身体に幻術をかける。肉体だけでなく心さえも二分し、分け与える。写輪眼を扱えるうちはにしか扱えない術でありながら、精神が脆弱な者が多い我々には取得は不可能だとされてきた」
穴だらけの理論に納得はできそうにない。
とはいえ、これまで学んできた忍術や幻術も、理屈は正しくても基盤となるある一点から一点を繋ぐ線の存在自体が曖昧であったり、ほとんどの術者がそれらを感覚のみで理解し、使用している場合が多いようだった。
『あり得ない』なんてことは『あり得ない』。昔どこかでこの言葉を聞いたことがある。
俺は再び木の棒で地面に文字を綴っていく。
《心を分けるというのは? 通常の影分身も術者の性格や意志を受け継ぐはず》
「改訂版の影分身は……そうだな。分身体ではなく、もう一人のお前みたいなものだと思えばいい。本体よりもやや劣る程度の耐久に、はっきりとした意志を持つ個体。並の忍では、どちらが本体か見抜けないレベルだろう」
ああ、もう一人のボクってこと? 急に分かりやすくなったな。
それにしても、ただでさえチャクラの消費が激しい影分身に精神力を吸い取られた挙句、写輪眼まで使っちゃって大丈夫なんだろうか。写輪眼はそのチート能力を得る代わりに随分と体力を消耗するって、うちは一族しか入れない資料庫にこっそり忍び込んだ時に読んだ気がする。
広げたままだった巻物をくるくる包み直して、スチャッと指を構えた。
「……やる気はあるようだな。では、早速明日から修行を始めるぞ」
改悪だか改訂だか知らないけど、うちは流多重影分身の術、頑張ってみるか!
毎日寝る間も惜しんで修行に明け暮れた結果……ついに! 俺は通常の影分身の術すら会得できなかった。
おかしい。絶対におかしい。この流れは会得できるのが王道じゃないんですか? 友情努力勝利はどこにいった!
「さすがスバルだ。まさかここまでとはな」
なんかもう様々な方向に気持ちよく振り切れてしまった父さんが、俺に向かって緩慢な動きで拍手を送ってきていた。
腹立つ。冷静で寡黙な設定を返せ!
「分身の術で随分と苦労していたお前のことだ。一度高い目標を与えてやればもしかしたらと思っていたが……そんなことはなかったな」
そりゃあ、分身でヒーヒー言ってる俺が影分身、それも写輪眼を使った応用バージョンなんてできるはずがない。禁術にさらなる禁術を重ねたミルフィーユ忍術だぞ。
ここまで来たら意地だ。いつか成功させて父さんをギャフンと言わせてやる。
今日は家の庭で巻物と睨めっこしつつ実践もしてみたが進捗なし。写輪眼が開眼できていない今、とりあえず通常版影分身の術だけでもマスターしようと思ったのにこれだ。流れは合ってるはずなのに一向にできる気配がない。
もはや冷やかし目的で俺の修行を眺めている父さんを無視して、もう一度巻物に目を落とす。
一体どこに問題があるんだろう。そもそも、一族とちょっと毛色が違うだけの俺じゃ条件を満たしていないんだろうか?
写輪眼を開眼した近所のお兄さんが見事な闇堕ちしてたり、隣に住んでる優しいお姉さんが彼氏に振られた翌日に元彼を半殺しにして自殺未遂してたり……。俺はだいぶメンタルがつよ……いや、まともだとは思う。
悶々と考え込んでいると、俺の中のイタチレーダーが反応を示した。
どうやら出かけていた弟が帰ってきたらしい。広げていた巻物を背中に隠す。
幼いながらに知識に貪欲なイタチのことだ。これを見せてしまえば「オレもやりたい!」って言い出すに決まってる。こんな命もメンタルも削るようなクソ禁術を弟に教えたくないので俺も必死だ。
帰宅したイタチはまっすぐ俺達がいる庭へやってきたようで、その息は僅かに弾んでいた。
「とうさんと……スバルにいさん!」
「イタチ、訓練は終わったようだな」
うちは一族の子供達は一定の年齢になると、小さな公園のような訓練場に定期的に集められるようになる。そこでは遊び運動といって、複雑な形のジャングルジムや滑り台の乗り降り、鬼ごっこなどで基本的な身体の使い方を身につけていく。
こういった
イタチは砂場で遊んだのか転んだのか、ズボンも上着も泥だらけだった。
そんなイタチの後ろからやってきた母さんが「先に玄関で泥を落とさなきゃダメでしょう!」と眉を釣り上げて怒っている。
俺の姿を見つけてぱあっと明るくなっていたイタチの表情がしゅんと暗くなってしまった。可愛い弟のそんな切ない瞬間を目の当たりにしてしまった俺のヒットポイントも減っていく。
ああ代われるものなら代わってあげたい……。
俺は背中に隠していた巻物をさりげなく父さんに押しつけ、イタチの前に立つ。
「スバルにいさん?」
イタチがきょとんと不思議そうにこちらを見上げている。その泥だらけの服は、他の子達より訓練に全力投球した結果だろう。さすがイタチだ。
よく頑張ったな。そう思いながら、わしわしとイタチの頭を撫でる。
「もう。スバルはイタチに甘いんだから」
若干拗ねたような母さんの言葉に苦笑する。俺の表情筋は相変わらず仕事をしていないようだが、なんとなく察したのか、足元のイタチは嬉しそうに笑っていた。
イタチが遠慮がちに俺に抱きついてくる。こちらの服にまで泥がついてしまったが、まったく気にならなかった。イタチの脇に手を差し込んで持ち上げる。久しぶりの肩車だ。そのままくるりと背を向けて歩き出そうとして、
「まだ修行の途中だろう、どこにいく気だ?」
さすがに父さんに捕まってしまった。
こんなことも分からないなんてがっかりだよ。
俺は深い深いため息をついて、仕方なく父さんに向き直る。
肩車中のイタチを落とさないよう気をつけながら、両脚につけたホルスターから大量の手裏剣を取り出し、庭に向かって投げつけた。
「一体何の真似…………ふ、ろ……?」
地面に突き刺さった手裏剣によって浮かび上がった文字を読んだ父さんがピシリと固まる。
「おい、今から風呂だなんて悠長なことを言ってるんじゃ……待ちなさいスバル!」
そのまさかでーす! 大正解!
これ以上の問答は不要。俺はイタチと一緒に風呂に入っちゃうのさ。
半ギレで追いかけてくる父さんをあの手この手で躱しつつ、コーナーで大きく差をつけて風呂場に逃げ込む。
さすがに無理矢理こじ開けてまで俺とイタチを連れ戻したりはしない……はず。
俺の予想通り、脱衣所の前まで来た父さんは「まったくあいつは……誰に似たんだ」とぶつぶつ文句を言いながら遠ざかっていく。
父さんに似てると思うんだけどな。消去法で。
「……ふふっ」
頭上から小さな忍び笑いが聞こえてきた。
「あははは! スバルにいさん……また父さんにおこられちゃうよ?」
風呂場には木の棒も地面もない。イタチに何かを伝える手段を持たない俺は、暫くぼんやりと考え込んで……諦めた。せめて表情で伝えられるように顔トレでもしようかな。
肩車していたイタチを下ろして、着ていた服を扉の前に脱ぎ捨てた。このまま洗濯機にぶち込むわけにもいかないし、ここである程度の泥は落としておかないと。
まずはイタチの体を洗って湯船に投入する。次に汚れた服を石鹸でゴシゴシ適当に洗って、最後に自分の体を洗った。イタチにちょっと詰めてもらいつつ、同じ湯船に浸かる。少し熱いくらいの湯が気持ちいい。
しっとりとした湯気が肌に張り付いてきて、今日一日の疲れが癒えていくのが分かった。
やっぱり俺の人生に必要なのは父さんによる鬼のような修行じゃなくて、可愛い弟と十分な休息だと思う。自分自身の為にも修行は続けるつもりだけどね。後でちゃんと指南書も読み込んでおこう。
「アカデミーってどういうところ?」
心も体もぽかぽかになってきた頃、イタチが問いかけてきた。
アカデミーは基本的に六歳にならないと入学できない。俺は来年入学予定だ。戦争も終結してない今のご時世。優秀な子供は規定の年齢に達していなくても、火影の許可があれば早期入学して任務に就くことができる。
イタチは俺がアカデミーに早期入学しちゃうような優等生だと勘違いしてるんだろうか?
それはいけない。兄として、この可愛い弟にこの世の厳しさ、いや、俺がいかにこの荒波に揉まれまくっているかを教えてやらなくては!
「来年から、にいさんとの時間がへっちゃうね」
あっ、そっちね。そう。それならいいんだ。
何となく出鼻を挫かれたような気持ちになった。ぶくぶくとお湯に鼻下まで浸かってるイタチを眺める。……アカデミーねえ。俺も行ったことがないから今とどう変わるか予測できない。ほぼ毎日朝から夕方まで拘束されるのは確実だろうけど、そんなことはイタチも分かってるだろうし。
悩んだ末、右手を湯船から出してイタチに向ける。まず手のひらをグーにして、今度は手の甲を向けて指を三本だけ出す。
最初は不思議そうに目を瞬いていたイタチが、ゆっくりと口を開く。
「さ、み、」
俺は一つ頷いて、さっきの状態から広げていた薬指と親指を入れ替えた。次にもう一度イタチに拳を向けて、小指だけをピンッと立てる。
「し、い、?」
たどたどしく俺の指文字を読み上げたイタチにもう一度頷く。
まさか以前一度だけ教えた指文字を覚えてるとは思わなかった。というか使わなさすぎて俺ですらうろ覚えだったのに。
イタチは俯いて考え込んでいたようだが、ガバッと勢いよく顔を上げる。跳ねた水滴が俺の頬にかかった。
「あ……オレ、」
しかし、その勢いは俺の顔を見た瞬間に一気に萎んでいってしまう。
え? 今の俺の顔がそんなにダメだった!?
「……さみしい、よ。でも、にいさんは……」
そこから先はいくら待ってみても続かなかった。まって。俺の顔、あまりに罪深くない?
「さきに出るね」
ショックを受けて固まっている間に、イタチはそそくさと風呂を出ていってしまう。
残された俺は脱衣所からイタチの気配がなくなるまで動けなかった。