ついにろ班としての活動も本格的に始まり、それなりに忙しい毎日を送っていた。
ダンゾウからのラブコールは掛かっていないものの、実家にはほぼ寝るために帰ってるようなものだ。
つまり弟摂取がまったく捗ってない。辛い。
むしろ最近はナルトの家で過ごしてる時間の方が多いかもしれない。何回か泊まってるし。
「イタチにいさん、今日こそ手裏剣術をおしえてよ!」
そんなわけで今日は随分と久しぶりに手に入れた休暇だ。
まだ太陽も昇っておらず薄暗い時間帯だというのに、社畜生活の影響か、いつも同じ時間に目が覚めてしまう。
欠伸を噛み殺しながら部屋を出れば、玄関の方角からサスケの明るい声が聞こえてきた。
ふらふらとおぼつかない足取りで、血に飢えた吸血鬼のように玄関に足を向ける。
弟レーダーに反応は二つ!
「これから任務なんだ」
「でも、約束したのに」
俺が玄関に顔を出した時には、サスケがイタチに額を小突かれているところだった。
「許せサスケ」
少し痛かったのか、サスケが少し涙目になって額を押さえている。
そんなサスケを困ったように見つめていたイタチが俺の存在に気づいて顔を上げる。
「スバル兄さん」
「…………」
ああ、俺が地位もお金もある大名だったら、この素晴らしい光景を高名な画家に描かせて国宝扱いにしてるのに。
「スバルにいさん、聞いてよ! イタチにいさんが約束破ったんだよ!? 針千本だよね!」
「…………」
サスケがこちらを振り返って同意を求めていたが、画家に絵を描かせることができない今、両目にこの光景を焼き付けるしかない俺はそれどころじゃなかった。
俺の目は今だけ高解像度で保存が可能となっている。
「兄さん?」
困ったような表情から心配そうな顔つきになったイタチが再度俺を呼ぶ。
よし、俺の心のアルバムに永久保存した。
すでに靴を履いて扉の前に立っているイタチと、未だにぷんぷんと怒っているサスケに、ちょいちょいと手招きをする。
二人は同時にこてんと首を傾げて、俺に近寄ってきた。
天使二人、時々こうして動きがシンクロしてることがあるから油断ならない。君たちはそうやって軽率に俺を喜ばせる!
二人が射程圏内に入った瞬間、俺は翼のように広げた両腕で彼らを捕縛した。ただの愛情たっぷりなハグである。
「ちょっと、スバルにいさん! 急になに!?」
「スバル兄さん……」
「…………」
もうちょっとだけ我慢してくれないか? 充電中なんだ。
イタチの声に呆れが混じってたのは聞き間違いだと思いたい。許して! もう限界なんだよ!
昔から何かあるとすぐにイタチを抱きしめて充電させてもらっていたせいか、イタチはそれほど動じることなく大人しくしてくれている。
サスケは「どこか痛いの?」としきりに心配してくれていた。
懐かしい。昔はイタチもこんな反応だったなあ。
きっちり五分。フルパワーになった俺は渋々ながら二人を解放した。心なしか肌ツヤが良くなった気がする。
「サスケ、スバル兄さんの“これ”は昔からだ」
「!?」
イタチから衝撃の事実を聞いてしまったサスケの背後に宇宙が広がっている。
ごめんな、勝手に二人を俺の生命維持装置に任命してて。
すっかりこれまでの疲れも吹き飛んで、上機嫌で指文字を綴った。
《すきだから しただけ》
「…………」
「…………」
むしゃくしゃしてやった。それだけです。
サスケが無言で俺の腰に腕を回してべったりとくっついてくる。
えっ……かわいい。今日って何? 命日?
「サスケ…………“これ”も昔からだ」
「…………」
「…………」
なんだか妙な空気になってしまった。もしかして俺のせいですか?
朝から任務に出て行ったイタチの代わりに、俺がサスケの手裏剣術を見ることになった。
比べる対象が少なすぎてハッキリとは言えないが、同じ年頃の子どもたちより随分と上達が早い気がする。
俺はイタチの修行もほとんど見られなかったから、基本的に幼少期から忍としての訓練を積むうちは一族の平均値を知らない。
今の木ノ葉でうちは以外でこの歳からきっちり修行してるのって、日向とか一部の一族だけだろうけど。
俺もイタチもカカシ達の時代と比べると程度は軽いが、戦争や九尾襲撃事件の影響を受けた世代だ。今はもう時代が違う。
サスケやナルトがアカデミーに入学する頃には、どんなに優秀でも早期卒業はできなくなると聞いているし(よほど優秀なら例外もあるかもしれないが)そういう意味では四代目の理想としていた世界に近づいていると言える。
少なくともほとんどの子どもがアカデミーを満期で卒業するまでは、任務等で命を落とすリスクが減ったからだ。
「にいさん、どうだった?」
全ての的に刺さってる手裏剣を見て目を細める。サスケはそわそわと俺の顔色を窺っていた。
《おれが おしえることは ないな》
「……そんなこと言って、教えるのが面倒だからとかじゃないよね?」
《まさか》
本当だってば。ぐりぐりと頭を撫でてやると、やっとサスケは安心したように笑った。
よく見ればサスケの両手はマメだらけだ。
イタチは任務で忙しいし、父さんは警務部隊と会合で家を空けていることが多い。きっと、一人でもたくさん練習したんだろう。
「オレも、にいさんの自慢の弟になれる?」
「…………」
ぎくりとした。そのようなことを言わせてしまうような態度を、俺はとっていたんだろうか。
もしもそうだとしたらお詫びに腕の一本でも二本でも差し出したい。
そりゃあ、できれば幸せになってほしいとかいつも笑顔でいてほしいとか、言い出したらキリがないけど。
いつどこで誰が死ぬか分からないこの世界で、俺が望むのはたった一つ。
《うまれてからずっと じまんのおとうとだ》
生きてるだけで花丸満点。これ以上を望んだらバチが当たる。
さては、俺がどれだけ二人の存在に助けられてきたか知らないんだな?
いや、以前イタチとすれ違ってしまっていた時のように、俺の伝えようとする努力が足りないんだろう。
イタチが生まれた日、サスケが生まれたと手紙を受け取った日。
それほど記憶力のない俺でも、絶対に忘れない自信がある。
あの時胸の奥底から湧き上がった感情の一つ一つに名前をつけることは出来ないが、全部覚えてる。
今の俺があるのは二人のおかげだ。
《どうすれば つたわる?》
サスケの頭を撫でながら問いかける。表情や声で伝えられない分をどう補うのが正解なんだろうか。
背中のうちはマークの上に弟ラブ! の文字を付け足して毎日木ノ葉の大通りを練り歩けばいい?
「……伝わったよ」
サスケが小さく呟いた。その顔はなんだか不服そうだ。まったく言葉に説得力がない。
《そうは みえない》
俺はサスケの両頬を掴んで痛くない程度に引っ張った。
さあ、観念しろ。俺の弟愛は世界一だと言え!
「いひゃいよ、にいさん!」
「…………」
ま、まあ、今日はこの辺にしといてやってもいい。
絶対に痛くないはずなのに、痛いと言われると小心者な俺は引き下がるしか無くなってしまう。
本当に痛かったらどうしよう。腕二本じゃ足りなくなる。
フィールドに召喚された俺の心臓を生贄に捧げ、サスケのライフポイントを一万回復して、ターンエンドだ。
解放したサスケの頬が赤くなっていないか念入りに確認していると、サスケが「……もしかして」と口を開く。
「心配してるの?」
「…………」
どこにこの状況で可愛い弟の頬を心配しない兄がいるんだ? 俺ですか?
手裏剣術の次はかくれんぼをしていたら、あっという間に時間が経っていた。
そろそろ一旦家に帰らないと、母さんが用意してくれているであろうお昼ご飯を食べ損ねてしまう。
「…………」
「どうしたの?」
演習場から出ようとしていた俺は、不自然な形で足を止めることになった。手を繋いでいたサスケが首を傾げる。
《さきに かえって》
「え?」
どうして、と続けそうになったサスケが口を閉じる。聡い子だ。
サスケの頭を数回撫でて、もう一度寄り道せず家に帰るようにと念押ししてその場を離れる。
ああ。さようなら、俺の幸せ時間。
「珍しいな。お前がオレの気配にこんなに早く気づくとは」
演習場から少し離れたところでモズが立っていた。暗部の面をつけている。
オレも懐からお面を取り出して被った。鳥ではなく猫のデザインのものだ。
「さすがに服はないだろ。これを」
モズが投げて寄越してきたのは暗部の忍装束だ。
ここでうちはスバルの生着替えコーナーを開始するのは少し気が引けたが、素早く着替えて背中に忍刀をさした。
『任務ですか』
「ゆっくり話している時間はない。走りながら説明する」
『…………』
彼がここまで焦っているのは珍しい。よほど状況が悪いようだ。
モズは里を抜け、火の国へと通じる道を走っている。しかも、このルートは大名やその側近たちがお忍びでよく利用する道だ。
俺の脳内で
今日のイタチの任務が火の国の大名たちの護衛だということは知っている。
本人から聞いたわけじゃないし、そもそも真面目なイタチが実の兄とはいえ俺に任務内容を漏らすことはない。
だが、俺は火影直属の暗部の一人として任務内容をすでに三代目から聞いていた。形式上の護衛をイタチのいるフォーマンセルが担当することも。
以前はそのような任務を下忍が担当するなど考えられなかったことだ。
今は戦争が終結し、表面上訪れている平和のおかげで最小限の人数で護送できるようになっている。
実際は下忍だけでなく暗部が数人裏で任務についているし、そもそも大名は独自の警務部隊を持ってる。
毎年木ノ葉隠れの里を訪問する際には彼らも同行していたはずだ。
『……モズ隊長』
だから、大丈夫。何も問題は起きない。
そのはずなのに、俺の両手はすっかり冷え切っていて感覚がなかった。
――生きていてくれるだけでいい
たった一つ、それだけなのに。
忍である俺が望むには、あまりにも贅沢なのだろうか。
「うちはイタチ達に関する知らせを受けてるわけじゃない」
『……でも、貴方がわざわざ俺を呼びに来たってことは、危険が迫ってるってことなんだろ!?』
「オレは冷静ではない人間に情報を伝えるようなことはしない。お前もよく知ってるだろ」
『…………』
この状況で落ち着いてられるか! イタチが危ないっていうのに!
俺は大きく息を吸って……吐いた。
落ち着いていられない、いられないけど、今は感情を最優先に動いても良い結果は得られないことはちゃんと理解してる。
『申し訳ありません。もう大丈夫です』
「それでいい。敬語を使わなかったことは不問にしといてやる」
モズは「仮面の男を覚えているか」と続けた。
忘れるわけがない。以前俺とモズ、キノエさんのスリーマンセルで以ってしても取り逃がした屈辱の相手である。
……力の底が見えない、不気味な奴でもあった。
『……まさか』
「そうだ。国境周辺であの男の姿を確認したと根の仲間から連絡があった」
『大名を狙って?』
「その可能性は高いだろうな。なんせ、大名が里を訪問するのは年に一度の恒例行事。それが今日であることは、誰でも簡単に知ることができる」
それなら、大名の一番近くで護衛についているイタチはどうなる?
あの男は異様な写輪眼……南賀ノ神社での父さんの話を聞く限りでは、写輪眼の先をいく眼を持っている。そんな相手にまだ下忍のイタチが敵うはずがない。
根で拘束のスペシャリストとまで言われた俺とモズ、キノエさんの三人がかりでも捕らえることすらできなかった相手だ。
どういう仕組みかは分からないが、物体をすり抜ける能力……あれが“ふたつ目の瞳”の力なのかもしれない。
「根の人間はほぼ出払っている。同行できるのはお前しかいなかった」
『…………』
それはありえない。このような事態に備えて、ダンゾウは常に手元に人を置いている。
『…………ありがとうございます、隊長』
モズは敢えて俺を選んでくれたんだ。その事に気づかないほど鈍くない。
「そろそろ大名を乗せた駕籠が見えるはずだ。急ぐぞ」
『はい』
俺は僅かにズレた猫のお面をしっかりと被り直して、モズの背中を追い続けた。
***
アカデミーを卒業して下忍となってから一年。簡単な任務がほとんどだったが、常に全力を尽くしてきたと自負している。
任務の報告に向かえば、受付担当者には報告書が丁寧で素晴らしいと褒められ、さらにはオレのチームが同期の中で最も達成した任務数が多いのだとこっそり教えてもらったことがある。
同じチームに所属しているテンマやシンコとは気が合うとはまったく思えない状態ではあるものの、任務に支障はない。
迷子の子猫を探したり、お婆さんの買い物を手伝ったり、二人の力を借りずとも達成できる程度のものがほとんどだったからだ。
幼い頃に戦争を経験した時、このような思いをするのは自分だけでいいと思った。
共に参加した父さんや兄さんのような動じぬ心があればと何度も考えたが、オレはきっとあのようにはなれない。
戦争はつらくて悲しいものだ。忍という運命からは逃れられないと分かっていながら、スバル兄さんやサスケが人を殺し、殺されるようなことがなければどんなに幸せかと考えたりする。
オレの考えは忍が持つものとしては相応しくない。両親や里の人間に伝えれば、否定の言葉しか返ってこないだろう。
オレがこうして忍としての道に立っているのは、この世から争いを無くすためだ。そのためにはもっともっと強くならなければならない。
――第三次忍界大戦を終わらせた功労者と呼ばれていた、四代目火影のように。
だから、正直焦っていた。兄さんはアカデミー卒業と共に暗部として前線で戦ってきたというのに、オレは一体いつまでぬるま湯のような場所に留まっていればいいのだろう。
これだけの任務をこなしていれば、今年の中忍試験に参加できると思っていた。
担当上忍である水無月先生には「中忍試験はスリーマンセルでの参加が基本だ。テンマとシンコの実力がそれに達していないのはイタチも分かっているだろう?」とやんわり断られてしまっている。
しかし、オレは例外があることを知っている。兄さんだ。
兄さんは暗部に所属していた為、通常任務でのスリーマンセルに所属しておらず、たった一人で中忍試験に参加して合格したらしい。
……兄さんはいつもオレの前を歩く。その背中に追いついたことは一度もない。
父さんは忍術や幻術の才能は致命的に無いなどとぼやいていたが、兄さんにはあの体術と――写輪眼がある。オレが持っていないものだ。
「イタチにいさん、スバルにいさん帰ってくるの遅いね」
「……そうだな」
オレの部屋までついてきて、戦術書を読むのを邪魔するように膝の上を占領していたサスケが無邪気に笑っている。その小さな頭を撫でて、頬を乗せた。
一年ぶりに兄さんに会った。記憶にあるより身長が伸びていて驚いた。
オレの身長も確実に伸びて大きくなっているのに、どうしてか兄さんに会うたびに衝撃を受けている気がする。
兄さんは見知らぬ子どもを抱きかかえていて、最初は人違いかと思った。
その子はサスケと同じくらいの年頃で、名前を聞いてすぐに“例の子”だと分かった。
何よりも驚いたのは、兄さんが自ら例の子――ナルトを助けようと動いたこと。
兄さんは良くも悪くも他人に対して無関心な人で、自分とサスケだけに心を割いているのだと思っていた。
自分だけが特別なんてことはあり得ないのに。
兄さんの優しさは平等で、たったそれだけのことが、オレの心を落ち着かせなくしている。
「あっ! きっとスバルにいさんだよ」
玄関の扉が開く音を耳聡く聞きつけたサスケがあっという間に部屋を出ていく。仕方ないなと肩をすくめて、後に続く。
今日から一緒に暮らせるというのは本当なんだろうか。そうだとしたら……。
玄関に向かっても、スバル兄さんの姿は見当たらなかった。靴はあったから帰っているのは確かなはずなのに。
兄さんがいると思って楽しみにしていた反動が大きすぎたのか、サスケの両目にたっぷりと涙が溢れていた。
「すば、るにいさん、いないぃぃ……」
「…………」
サスケの泣き顔を見て、だいぶ前に久しぶりに家に帰ってきたスバル兄さんに泣きながら抱きついた時のことを思い出してしまった。恥ずかしい。
昔から、オレはスバル兄さんに対して恥ずかしいことばかりしている気がする。
勝手に勘違いして拗ねて、随分と困らせてしまったことだってあった。
今だってナルトの件で心の中に留めているとはいえ、思うところはたくさんある。根本的に変わっていないのだと思う。
泣きじゃくっているサスケを抱っこして、トントンと背中を優しく叩いてやる。まるでかつての自分の姿を見ているようで奇妙な心地だった。
「こんなところでどうしたの……まあ、サスケったら。泣いてるじゃない」
「母さん」
母さんが指でサスケの頬を拭ったが、出てくる涙の量に追いつかなくてすぐに諦めていた。
「しゅばるにいしゃんどこぉ……」
くすりと笑いそうになるのを必死に堪えた。こういった時に笑ってしまうとヘソを曲げてしまうからだ。
「……スバルは、お父さんやお母さんと大事なお話があるの」
「やだ! にいさんのとこいく!!」
「サスケ!」
サスケがオレの腕から抜け出して、一直線に父さんの部屋に走っていった。
母さんと顔を見合わせて、同時にため息をつく。仕方なくその小さな後ろ姿を追いかけた。
「スバルにいさんっ!」
勢いよく障子を開いたサスケに、こちらに背を向けていたスバル兄さんがゆっくりと振り返って目を丸くしたのが分かる。
本当に僅かな変化だが、よく観察すれば気がつくレベルだ。
「……サスケ」
父さんが疲れたように額に触れた。
「スバルは父さんたちと話がある。イタチ、サスケを連れていきなさい」
「……うん」
嫌がるサスケを無理やり抱き上げる。
こちらを見ている兄さんは心配そうだった。無表情の中に小さな感情の機微を見つけるのは慣れている。兄さんの目は、少し寂しそうでもあった。
障子をしめて、未だにぐずっているサスケを宥めながら自分の部屋へと戻る。
大事な話ってなんだろう。兄さんが一緒に暮らせるといったことと関係があるんだろうか。
それから数十分経っても父さんたちが部屋から出てくることはなかった。
サスケは泣き疲れて眠ってしまったし、一度様子を見に行った方がいいかもしれない。
サスケを起こさないようにこっそりと立ち上がって、自分の部屋を後にする。
父さんの部屋の近くにまでくると、珍しく父さんが声を荒らげていた。
「お前、親に対してその態度はなんだ」
じわじわと首元を締め上げてくるような心地がした。
父さんが兄さんに怒っていることも、兄さんが父さんを怒らせているということも、全てが信じられないことだった。
――兄さんは父さんに逆らったことがない。
そんな兄さんが、何を言ったかは分からないが、この状況を作っている。
障子の前で座り込んで、ドキドキと鳴る胸を押さえる。オレの知らない兄さんがここにいる。妙な胸騒ぎがした。
「スバル、お前……」
次に聞こえてきた父さんの声から怒りはすっかり消えていたが、そこにはまったく別の感情が隠れていた。
父さんが、兄さんに圧倒されている。
障子の奥で気配が揺らいだ。誰かが立ち上がって、部屋を出て行こうとしている。恐らく兄さんだ。
オレは慌ててその場から離れた。故意ではないとはいえ、聞いてはいけなかった会話を聞いてしまった罪悪感で胸がいっぱいになる。
自分の部屋に戻ると、サスケはまだ夢の中にいた。
火の国の大名警護任務。
戦後の大名警護の任は、その年最も活躍が目覚ましかった下忍の在籍するチームが担当することになっているのだと、水無月先生が誇らしげに笑った。
それが誰を指すのかは、ここにいる全員が分かってる。
テンマとシンコから痛いくらいの視線を感じながら、オレは静かに手元の資料に目を通していた。
この短時間で護送ルートはすでに頭に入っている。危険は少ない任務だと言われたが、これはチャンスだ。
今は少しでも多くの任務を完璧にこなして、木ノ葉上層部に己の実力を示す必要がある。
「やっぱお前は里のお気に入りだな」
何かと突っかかってくるテンマが腕を首後ろに回しながら、にやりと笑う。安い挑発だ。
任務は明日の早朝から。資料を綺麗に折りたたんで仕舞い、なぜか言い争いにまで発展しているテンマとシンコに向けて口を開く。
「また明日」
さっさとその場を後にする。帰ったらまずは忍具の手入れをして、早めに休んで明日に備えよう。
家を出る前に色々あって、予定よりも遅い時間に集合時間に着いてしまった。それでもまだ誰も来ていない。油断していると緩みそうになってしまう頬を手のひらで隠す。
「…………」
スバル兄さんは、すっかりいつも通りだった。
以前のように一緒に暮らすようになってから、まだ幼いサスケを抱っこすることはあっても、オレを抱きしめることはなかった。
子ども扱いがなくなって嬉しい反面寂しく思っていたところにこれだ。オレもまだまだ子どもということらしい。
「相変わらずイタチは早いなあ」
集合時間の五分前に到着した水無月先生が穏やかに声をかけてくる。テンマとシンコはその数分後に現れた。
「よし、揃ったね。まずは大名のところまでノンストップで向かうよ」
水無月先生の言葉に三人一斉に頷く。護送任務開始だ。
駕籠に乗っての移動とはいえ、長距離の移動に慣れていない老齢の大名には疲労やストレスが溜まるものらしい。
道中多くの休憩を挟んだこともあり、予定より大幅に遅れていた。
このままでは夜までに里に着くかどうかも怪しい。
オレの所属する第二班、守護忍十二士が二人、彼らとは別に大名の身の回りの世話をする従者が数人。姿は見えないけれど火影直属の暗部がフォーマンセルで待機している。
最後まで気は抜けないが、遅れていることを除けば順調に進んでいる。そう思っていた。
何度目かの休憩が終わり、ようやく大名が重い腰を上げた時、“それ”は姿を現した。
一人の男がこちらに向かって歩いてくる。
火の国から里へと続く街道。いつもは誰でも通ることができる道ではあるものの、今日だけは封鎖されているはずだ。
一般人が誤って入り込んだ可能性も考えたが、男が着けている奇妙なお面のせいで警戒心を解くことはできない。
木ノ葉の暗部のような動物をモチーフにしたものではなかった。
目も覚めるようなオレンジ色に渦のような模様が刻まれており、右眼の位置にぽっかりと穴が空いている。
守護忍の二人が大名を駕籠に乗せたのを確認してから、オレ達第二班は駕籠の前へと躍り出た。
「あのー」
間伸びした声が、こちらの警戒心を揺さぶる。
「ちょっとお聞きしたいことがあるんですが、よろしいでしょうか?」
水無月先生がホッと肩を撫で下ろす。テンマとシンコもクナイを握る手を下ろしたが、オレだけは警戒を緩めなかった。
「今日この道は封鎖されているはずなんですが……」
「そうだったんですか?」
男が「あれぇ?」と首を傾げる。水無月先生が男を別の場所へと誘導しようとしたその時、男の纏うチャクラが変化した。
水無月先生の動きが止まる。いや、現実とは別の映像を
水無月先生だけじゃない。このような事態だというのに駕籠の中が沈黙を保っているということは、大名や守護忍十二士の二人も……。
最悪の可能性に頭にひりつくような痛みを感じた。
「意外だな」
男の口調の変化と共に、雰囲気ががらりと変わる。
唯一顕になっている右目がこちらの姿を捉えた。
「オレの幻術を見抜いたやつが、二人」
男の視線がオレを通り過ぎて、すぐ隣に向かう――テンマだ。
「シンコたちに何をしやがった!」
テンマが叫ぶ。それと同時に、クナイを握り直して駆ける。
いけない、あの男に無闇に近づいては!
「止まれ、テンマ!」
テンマが一度だけこちらを振り返った。
「二人でかかればすぐだ! イタチ、お前がいれば!」
普段からオレを疎ましく思っているはずのテンマから出てきた言葉とは思えなかった。
テンマは止まらない。余裕そうに立ち止まっている男の喉元に突き出したクナイが……テンマの腕ごとすり抜けた。
「……なっ!?」
男はそれでも静かにテンマを見下ろしている。
男の首は血も出ていなければ、テンマの様子を見るに手応えの一つもなさそうだった。
一体どうなっている。脳が答えを導き出そうとするよりも先に、テンマの足が地面から離れた。
「テンマ…………?」
唖然と呟く。ぽたりぽたりと赤色が滴り落ちていった。
男の腕がテンマの胸元を貫いていた。先ほどのようにすり抜けてはいない。
男の手は真っ赤な血で染め上げられていて、テンマの身体は何度か痙攣を繰り返して……動かなくなった。
「流石だな。お前はこいつのように無闇矢鱈と突っ込んでこないで、冷静にオレの力を分析しようとしていた」
男がテンマの身体を振り払うようにして地面に叩きつける。
目を見開いたまま絶命しているテンマと目が合ったような気がした。
両眼に熱が集まる。それどころか全身が熱い。
「オレの目的はお前の後ろの駕籠にいる大名の命だ。このまま何もせずにいてくれるなら、見逃してやってもいい」
それは無理な頼みだ。体が震える。
死んでしまった……テンマが、あんなに呆気なく目の前の男に命を奪われてしまった。
「オレは木ノ葉の忍だ……任務は放棄しない」
男が首を傾げる。この場にそぐわない動作だった。
「それは、死んでも構わないという意思表示か?」
圧倒的強者から放たれるプレッシャーは正常な思考を妨げ、脳へ届ける酸素を薄くさせる。
こんなところで死ぬわけにはいかない。オレにはまだやらなくてはならないことがある。
しかし、恐怖に呑まれた身体はそう簡単に動いてくれない。
「ならば、殺してやる」
男が拳を振り上げる――オレは、ここで死ぬ。そう思った。
『――誰が誰を殺すだって?』
背後から声がした。
真横から伸びてきた腕が、あっという間にオレの身体を引き寄せる。
硬直して冷え切っていたはずの身体に再び熱が巡っていくのを感じた。
「……貴方は」
『死ぬのはてめーだろ、相変わらず陰湿な面つけやがって』
白い猫のお面から二つの眼が男を鋭く睨みつけていた。
そのお面にも、声にも、見覚えがある。九尾襲撃事件でオレとサスケを救ってくれた暗部だ。
……また会えるとは思わなかった。ずっと、あの時のお礼を伝えたいと思っていたのに。
「……お前がなぜここに」
『それはこちらのセリフだっつーの。うちはの大ファンだとは知っていたが、まさかこんな子どもが趣味だったとは……軽蔑する』
「…………」
うちはの大ファン……子どもが趣味……。
男が黙った。間違いだとは分かっているが、すぐに否定してくれないとこちらも居た堪れない。
猫のお面を着けた男がオレの腰に回していた腕を離す。彼の隣にもう一つの影が現れた。
『遅いっスよ。危ないところだったんですから』
「……お前が早すぎるんだよ」
あの夜に見た面のデザインだ。確か、猫のお面の彼にモズと呼ばれていた気がする。
猫のお面がこちらを向く。二つ空いた穴から真っ黒な瞳がキラキラと輝いていた。
『無事で良かった』
表情など見えないのに、まるで笑っているみたいだ。
『――必ず守る。だから、もう大丈夫だ』
***
やっと大名が乗っているであろう駕籠を見つけたと思ったら、その手前に広がる血の水溜まりに最悪の未来を想像した。あの血が一人分であれば、致命傷だ。
もしもこれがイタチのものだったら……?
「おい、クロ!!」
すっかり耳に馴染んだ名で呼ばれても止まれない。遠目に見えていた駕籠がぐんぐんと近づいてくる。
米粒サイズだった人間らしき影の姿も鮮明になっていき、数人確認できた。どれがイタチかは分からない。
ただ、中央の二人以外は全員棒立ちで、身じろぎひとつしていないようだ。おそらく、幻術かそれに近いものをかけられている。
「…………そ……は、…………か?」
途切れ途切れに声が聞こえる。――見えた。あの後ろ姿、間違いなく仮面の男だ。
男が振り上げた拳は、目の前の影に向かっている……イタチだ。生きている。生きて、あの男に一矢報おうと、震える手に握ったクナイが見えた。
「ならば、殺してやる」
今度は鮮明に聞こえてきた言葉にぷつんと切れた。どこがとは言わない。
全身に纏ったチャクラのおかげで身体が風のように軽い。一瞬で仮面の男とイタチの間に滑り込み、小さな体を勢いよく引き寄せた。
驚いているイタチの名を呼ぼうとして、寸前で止める。
『…………』
あっぶねー、今の俺はスバルでもツミでもなく、クロだった。
正体がバレたらダンゾウの手で豚箱行きになる。断固拒否!
抱き寄せていたイタチを背中に隠して仮面の男と向き直る。
ちょうど遅れていたモズも到着し、数では有利に立った。そう、数では……。
数の暴力を行使しても勝てる気がしないのはなんで? 俺の人生におけるラスボス臭がハンパない。今すぐ退場してくれ。
「…………うちはの……何と言った?」
どうやら聞こえていなかったらしい。
ちょっと耳が遠いと思われる仮面の男に、親切な俺はもう一度言ってあげることにした。
『うちはが好きなのは分かったが、こんな小さな子どもにまで手を出すとはどういう性癖してんだてめー! って言ったんだよ』
「…………」
まさか、違った? もしも俺の勘違いだったら男の反応も理解できる。申し訳ない。
『……そういえば、お前も写輪眼持ってたよな。どっかの誰かみたいに強奪したわけじゃないとしたら、うちは一族の人間ということになる……つまり、同族愛…………ファンなどと一緒にするな……そう言いたいのか?』
「…………」
まただんまりかよ。やめたやめた、犯罪者の考えなんて俺みたいな凡人には理解できないさ。
『いや、例え同族愛だとしても手を出したら終わりだろう……お前、どうかしてると思うぞ』
「もういい。やめろ」
やっぱり納得いかなくて追及を続けたら、ぶつんと会話を切られた挙句、一方的に心のシャッターを閉められる音がした。
しかし、俺は間髪入れずにシャッターを無理やりこじ開けて顔を押し込む。
話はまだ終わってないだろうが!
『そうはいかない。ファンの民度が悪いと、怒られるのは俺なんだから、な!』
言い終わる前に蹴り上げた足は、やはり男の体を簡単にすり抜ける。
再び実体化した腕に掴まれそうになったので、急いで後ろに飛び退いた。
あー!! もう、やりにくいんだよ! どうなってんだあいつの体は!
「クロ」
暫く側を離れていたモズが戻ってきたらしい。
「うちはイタチは駕籠の中に避難させた。大名たちも無事だ」
『あー……そういえばいましたね、大名』
イタチしか眼中になさすぎてすっかり忘れてた。死んでないならヨシ!
ここで大名に何かあるとイタチに任務失敗という不名誉な結果が残ってしまう。イタチのキャリアに傷をつけることは許されない。
「もう一人はどうした?」
仮面の男の問いかけに、モズが答える。
「今日はオレたち二人だ」
『…………』
仮面の男はキノエさん……いや、テンゾウさんのことを気にかけている。
俺たち三人の中で一番童顔なテンゾウさん。
やはりこの男はそういう目的で……? 危険すぎる。
しかし、俺たちはお面をつけているから童顔かどうかなんて分かるはずがない。
奴の写輪眼はお面を貫通して相手がショタかどうかすら見抜いてしまうのかもしれない……すり抜けるのは身体だけじゃなかったということか! 名推理!!
『モズ隊長。こいつ、やっぱり只者じゃないですよ』
「分かってる」
モズが神妙に頷く。そういえば、モズも俺のスリーサイズ把握してたんだよな……信用していいのか? 俺、実は危険人物に囲まれて四面楚歌なんじゃ……?
「木ノ葉には命知らずな愚かな者が多いようだな」
おい、それはイタチのことを言ってるんじゃないだろうな!
「よほど殺されたいらしい」
『死にたがってるのはそっちだろ』
男の指がぴくりと動いた。いつ飛んでくるか分からない攻撃に備えて意識を研ぎ澄ませる。
『命を大事にしてるやつが、単独でこのような危険な行動に出るわけがない。お前の大切な人が泣いてるね、今頃』
大国の隠れ里である木ノ葉に不法侵入したり大名を襲撃したり、火の国と敵対している国でもここまでの暴挙に出ることは少ない。
せめてチームで動くところを、こいつは常にたった一人で行動している。それだけの実力を持っているとしても、リスクがないわけではない。
行動の端々から投げやり感というか、己の身を顧みない姿勢が表れてるというか。
「……大切な人だと」
男の纏うチャクラの質が変わった。どうやら俺は思いっきり地雷を踏んだらしい。
だからなんだ。こっちは大事な弟に手を出されそうになって、それ以上に怒ってるんだよ!
『人の大事なものを踏み躙ったお前が、俺から配慮を受けられると思うな』
可哀想に、イタチは今日のことがトラウマになって一生消えない心の傷を負ってしまったに違いない。
俺がファンの管理を怠ったばかりに……。これもアイドルの
『そこの子どもを殺したのもお前だろ』
俺の足元の血溜まりに倒れているのは、間違いなくイタチの班員の一人。
ここに倒れているのがイタチではなくてホッとしたが、この子の存在もイタチの心の傷の一つになってしまったはずだ。
俺だって、少しでも自分と関わった人間がこうなってしまえばそれなりに思うところがある。
「それがどうした? お前のような人間に、他人を気遣う心があったとはな」
『…………』
俺の名前を知っていたことといい、よほど熱心なファンなのは確かだが……。相変わらずどいつもこいつも、俺を勝手に知ったような気になっていて腹が立つ。
「落ち着け。今日はキノエはいないが、時間稼ぎならいくらでもやり様がある」
モズが俺にしか聞こえない程度の声で言う。
「もうすぐ火影直属の暗部たちも合流するだろう。オレたちはそれまで持ち堪えればいい」
『……あいつを取り逃しても構わないということですか?』
「そうだ。大名の命が最優先。お前、あいつから足手纏いを守りながら勝てる自信なんてないだろ」
『…………』
それはそうなんだけど。なんなら大名の存在がなくても勝てる気がしない。でも、俺にはファンの管理という使命が……!
「ここで無謀な戦いをして弟をさらなる危険に晒したいと?」
『それでいきましょう! 仕方ないですね、時には守る戦いも必要ですから』
イタチの為なら仕方ない。命って大事。
「作戦時間はおしまいか?」
『三分間待ってくれてどうもありがとう! おかげで滅びの呪文を教えてもらえたよ』
「…………」
律儀に俺たちの内緒話が終わるまで待っていてくれた仮面の男。意外にも親切だ。
「お前……さっきからそのふざけた口調は何のつもりだ」
普通に喋ってるだけなのに失礼すぎない? そっちの悪趣味な仮面のデザインよりは真面目なつもりだ。
モズの足元から勢いよく影が伸びていく。俺はそれに触れないように気をつけながら、仮面の男に向かって駆けた。
お遊びは終わり。ここからは永遠に俺のターン!
「相変わらず早い」
俺の拳はやはり男の身体をすり抜けるが、男の身体が実体化しようとしたタイミングを狙ってもう一度蹴り上げる。
俺の拳を掴もうとしていた腕は実体化を中断して、再びすり抜けた。
「小賢しいことを」
お互いに距離を取って、もう一度駆け出した。その間にモズの影が男の動きを制限してくれていた。
『なあ、一つ聞いていい?』
「…………」
男から返事はなかったが、どうしても気になって夜も眠れそうになかったので続ける。
『お前の身体、すり抜けるみたいだけど、なんで服はすり抜けないわけ? 同化してんの?』
「…………」
男はやはり答えない。悲しいなあ。そんな会話をしながらも、俺と男の攻防は止まらない。
『でも助かるよ。露出狂と戦いたくないし』
視界による暴力は根絶せねば。
脳内プロフィール内にあった「露出趣味(疑惑)」に取り消し線が入った。ちゃんと最新版に更新しておいたから安心してほしい。
「無駄な問答はそれまでだ」
仮面の男が俺の腕を掴む。しまっ……!
「!?」
なーんてな!
男が掴んだはずの俺の腕はドロドロと溶け出して――地面に巨大なスライムを作り出した。
こんなこともあるだろうと思って、離れたところにこっそりスライムを作っておいてよかった。あとは変わり身の術で入れ替わるだけだ。
「これは…………」
男の手のひらはスライムの粘液でべとべとになっていて、控えめに言って最高だった。
ちなみにそれ、水で落ちないからよろしく!
「まさか、お前あの禁術を…………」
『?』
男は何やら別のところに気を取られているらしかった。
「クロ!」
モズの声に即座に反応した俺は、すぐに横に飛び退いた。
俺の足元に隠れていたモズの影が一斉に姿を現して仮面の男に襲いかかる。手応えはあった。
『……これもダメか』
完全に不意打ちだったはず。それなのにモズの影は男に触れることもできずに全てすり抜けてしまった。
俺は地面に手をついたまま思案する。
あの男の能力がふたつ目の瞳によるものだとして、あの眼で認識したものを任意ですり抜けたり触れたりするのかと思っていたが……。
まさか、眼で認識どころか本人が察知していない攻撃すら避けられるのか? そうだとすると、あまりにもこちらに分が悪すぎる。
「あの術の“外側”を作れる人間がいたとは」
仮面の男が独り言のように呟いた時、遠くから複数の気配が近づいてくるのを感じた。
そのうちの一つは見知ったチャクラを纏っている――カカシだ。やっと暗部が到着したらしい。
「……はたけ、カカシ」
仮面の男がぽつりと呟く。無意識に口にしてしまったようだった。
「また会うことになるだろうな……うちはスバル」
『次は握手券持ってこいよ』
「…………」
アイドルの握手会に手ぶらで参加できると思ってる時点で烏滸がましい。CDを五十枚は買え。
援軍にビビって退散するのかと思ったが、多分カカシのせいだ。
さすが天才忍者って呼ばれてるだけはある。存在だけであの男に撤退を選択させるとは。
仮面の男はあっという間に姿を眩ましてしまった。
「お前も急げ、オレが上手く言っておく」
『……はい』
カカシに俺が未だに根に属していることを知られると非常に不味い。イタチのことは心配だが、モズとカカシが何とかしてくれるだろう。
俺もその場から離れて、真っ直ぐ木ノ葉へと向かった。
一足先に木ノ葉に戻った俺はモズの代わりにダンゾウに報告を済ませ、家に戻った時にはすっかり空は暗くなっていた。
「おかえりなさい、スバル」
「…………」
玄関で靴を脱いでいる俺を出迎えてくれたのは、母さんだった。人の顔色をよく見て育ってきた俺には、母さんが無理に笑みを浮かべていることなんてすぐに分かる。
靴箱にはイタチの靴が入っていた。もう帰っているということは……そういうことなんだろう。
《ただいま》
「あのね、スバル。イタチのことなんだけど……」
《わかってる》
母さんは驚いたような顔をしたが、すぐに「そうね」と続けた。
俺が暗部としてイタチの任務を把握していることを察してくれたようだ。
「帰ってから一言も話さずに自分の部屋に篭ってしまったの。何も食べてないだろうから、心配で……」
今はきっと一人になりたいだろうから、そっとしておいてやりたいが……。
確かに何も食べていないのは心配だ。任務中は碌に身体も休められなかっただろうし、帰ってからもこれでは体調を崩してしまう。
「サスケも近づけないくらいなのよ。だから、スバル、お母さんの代わりにイタチにご飯を持っていってくれないかしら?」
「…………」
あの癒しに全振りしたサスケでも無理なら俺はもっとダメなんじゃ……? サスケと比べるのも失礼なレベルで癒し要素がないんだけど。むしろイタチの鬱を加速させかねない。
《おれでは……》
「アナタなら大丈夫よ。お願いね」
「…………」
人の話を聞かないことに定評がある母さんが、にっこりと笑う。どうやら決定事項らしい。
湯気の出ている卵粥を持って、イタチの部屋の前に立つ。
俺はここで死ぬのかもしれない。イタチに「一人にしてくれオーラすら分かんねーの? それでもオレの兄かよ」って言われたら死ぬ。
イタチ、こんな口調じゃないけど……。普段のあの口調でやんわり拒絶された方がキツくない? 想像すらしたくない。
「…………」
うん、やっぱりやめよう、こんなこと。イタチも俺も幸せにならない。一人でしか癒せない、どうにもできない痛みだってあるんだ。
本人が一人で耐えることを選んだのなら、外野が軽率に手を出すのは――
「…………兄さん」
引き返そうとした俺の足を引き留める力があった。
障子の隙間から伸びた腕が俺のズボンの裾を弱々しく掴んでいる。ちょっとしたホラー展開に思考が停止した。
「行かないで」
「…………」
行かない、行かないとも。ここにいる。
俺は手に持っていたお盆を床に置いて、その場に座った。こういう時、きっと顔を見られたくないだろうと思って障子を開けることはしなかった。
……イタチの手、震えてたな。
やっぱりあの仮面の男は刺し違えてでも殺しておくべきだった。
むくむくと怒りが膨らんでいく。
なんなんだ、アイツは。一体どのような大義名分があって未熟な下忍を殺し、イタチまでも手にかけようとしたのか。
護送中の大名に何かあったとなると、木ノ葉は責任追及を免れない。
木ノ葉に強い恨みを持つ人物……だろうか。大名への私怨のみだとしたら、以前木ノ葉に侵入したことへの説明がつかない。
カカシ率いる暗部も待機していて警備は万全だったとはいえ、あの男の幻術の精度がイレギュラーだった。
まさか、イタチの担当上忍だけでなくカカシ以外の暗部も一発で幻術に嵌めるとは。
暗部の、対象から離れたところから見守るシステムもどうにかすべきなのかもしれない。
周辺の警戒も兼ねているが、幻術に嵌った仲間の解術をして警護対象のところまで急いで駆けつけたであろうカカシの苦労は相当なものだったはすだ。
「……今日、オレのせいで仲間を死なせた」
部屋の中から感情を押し殺すような声が聞こえてくる。
「オレしかいなかったのに……何もできずに、死なせてしまった」
「…………」
イタチは悪くない。悪いのは全部、あの仮面の男だ。
誰にも予測できなかった……下忍であるイタチが責任を感じる必要なんてないのに。
障子越しでは指文字をイタチに見せることもできない。俺のズボンを掴んだままだったイタチの手を握る。
怖かっただろう、でもそれ以上に――悔しかっただろう。俺もそうだった。圧倒的な力を前にして、己の無力さが嫌になる。
もうちょっとでイタチを失っていたかもしれないと考えるたびに、胸がいっぱいになった。
イタチがこんなに苦しんでるっていうのに、イタチが生きていて、それで良かったと思ってる。……やっぱり俺、イタチの兄失格かもしれない。
玄関の方が騒がしい。どうやら父さんが帰ってきたようだ。
「イタチは大丈夫か?」
父さんが母さんに問いかける声がする。
「今はスバルがついていてくれてる。きっと大丈夫よ」
「そうか」
全然大丈夫じゃないです。イタチの手の震えは止まらないし、俺は泣きそうです。兄失格……。
「アイツも、もう立派な忍だ。任務を受けていれば仲間の死に直面することもある」
なんだか嫌な予感がした俺は、ゆっくりイタチの部屋の障子を開いて中に入る。
できるだけイタチの方を見ないようにして、後ろ手で障子を閉めた。
「あ…………」
「…………」
マジでごめん。イタチが望むなら後で切腹でも何でもしてお詫びするから許してほしい。
俺は顔を逸らしたまま、布団に包まって震えているイタチの両耳を手のひらで覆い隠した。
「…………」
「…………」
無言のまま、暫くそのままじっとしていた。
こういう時、父さんはイタチが聞いているかもしれないと分かっていながら、厳しいことを口にすることがある。
それらは正論だし間違ってないけど、今のイタチにはあまりにも酷だ。傷口に塩を塗るような行為を見過ごすわけにはいかない。
「……スバル兄さんは、優しいね。いつも、オレとサスケのこと……ばっかり」
「…………」
イタチが俺の腕を掴んで、引き寄せるような仕草をした。……そちらを見てもいいということだろうか。
恐る恐る視線をイタチに向けて、息を呑んだ。
イタチの両眼が真っ赤に染まり、暗い部屋の中で歪な光を放っている。
――写輪眼だ。
「ずっと兄さんのように写輪眼を開眼したかった。……知らなかった。兄さんがこの痛みと苦しみを乗り越えてここまで来たってこと」
「…………」
写輪眼の開眼条件は一つや二つじゃない。イタチのように身近な人間の死や、それに伴う悲しみなどの負の感情に触発されることもある。
ただ、俺の場合は……うん。イタチに嫌われたくない一心で開眼しちゃったから、比べるのも申し訳ない。
イタチはゆっくりと瞼を閉じて、再び開いた。その眼はすでに写輪眼ではなくなっていた。
ふらついたイタチの身体を慌てて支える。急にチャクラを消費したせいで身体がびっくりしたんだろう。
「もっと強くなる」
きちんと整えた布団に寝かせたイタチが俺を見て笑う。
その笑みは母さんとそっくりだった。無理して笑うことないのに。似ちゃったんだなあ。
「兄さんも、サスケも、みんな守れるくらいに」
「…………」
不意打ちだったからうるっときてしまった。イタチに泣き顔を晒すなんてもう二度とごめんだ。
《ありがとう》
「…………うん」
他にもっと良い返しがあったはずなのに……。感動のあまり語彙が消失してしまった。
俺から謎のお礼を受け取ってしまったイタチは曖昧に笑って流してくれた。なんか、さっきからごめん。
そのまま眠ってしまったイタチを起こさないよう、こっそり部屋を出る。
障子の前にはすっかり冷めてしまった卵粥が置きっぱなしだった。完全に忘れてたよ。
「スバル」
お盆を持って台所に行こうとしていたら、こちらに向かっていたらしい父さんに呼び止められた。
「イタチはどうだった」
隣にいた母さんが差し出した手のひらにお盆を乗せる。
《もう ねてる》
「……そうではない、立ち直れそうかと聞いてるんだ」
そんなこと聞いてどうするつもり?
思わず眉を寄せた。最近の父さんの言動に思うところがありすぎて、素直に受け取れない。
さっきもイタチを警務部隊に入れるつもりはないだとか、オレなりに考えているとか……。
耳を塞いだイタチには聞こえていなかったと思いたいが、まさか、父さんはイタチを俺と同じように暗部に入れるつもりじゃないだろうな。
イタチは優秀だから、このままいけばいずれ木ノ葉上層部から声がかかるだろう。
イタチの暗部入りに反対してるわけじゃない。父さんがそれを利用しようとしていることが許せないだけだ。
《いたちのやさしさは とうさんもしってるはず》
「…………」
戦争で見ず知らずの他人の死に心を痛めていたイタチが、仲間の死に傷つかないはずがないじゃないか。
立ち直るかどうかがそんなに重要? 俺には、イタチを道具扱いしようとしてるようにしか思えないんだよ。
《でもいたちは つよいから》
どんなに辛くても明日には気持ちを切り替えていつも通り任務に向かう。そういう子だ。
……そうなるように、無理をするように、仕向けてしまった。
「そうだな。イタチなら乗り越えてくれるだろう」
イタチと同じように育てられてきた俺も、ぐっと込み上げてきた感情を押し殺して俯く。
こればっかりは、やはり俺にはどうにもできないように思えた。
イタチの大名護衛任務から数日後。
「ツミ……ちょっといいか?」
本日の任務も無事に終わり、後は報告書を提出するだけとなった時、負のオーラを背負ったカカシに呼び止められた。
そういえば、今日は朝からずっと元気がなかったような。
〔大丈夫ですよ〕
「悪いな……ああ、テンゾウ。オレの代わりに提出してきてくれないか」
「お安いご用です」
カカシから報告書を受け取ったテンゾウさんが姿を消す。
なんだろう、改まって。……もしかして後輩指導!? お前最近調子乗りすぎなんだよから始まる集団リンチ!?
「お前の弟のことなんだが……」
〔…………〕
リンチじゃなかったけど絶妙に反応に困りそうな話題だった。
〔イタチのことですか〕
「……すまない!」
直近だとそれしかないと思ってイタチの名を挙げれば、カカシが勢いよく頭を下げていた。ええっ。
「もう聞いているだろうけど、お前の弟が危険に晒されたのはオレの責任だ」
〔……あれは、仕方がないかと〕
「そうだとしても、だ。悔しいが、根の者たちが予め危険を察知して来てくれていなければ、全滅していたかもしれない」
〔…………〕
責任感が強すぎると、どうしようもなかった状況だとしても思い詰めてしまうものらしい。イタチもカカシももっと肩の力を抜いていいと思う。
そうだよ、どう考えても仮面の男が十割悪いじゃん。アイツが規格外に強くて、規格外に迷惑な性癖を持ってるのがいけない。
〔でも、もう大丈夫ですよ。次はちゃんと握手券持ってくるように言い聞かせといたんで!〕
「…………は?」
〔今のは幻聴です。正しくは貴方が気にすることじゃないって言ったんです〕
「いや……絶対にそんなこと言ってなかっただろ」
カカシは「テンゾウから聞いてた通り、そのお面急におかしくなるんだな」と苦笑いした。
俺の普段の発言をおかしい呼ばわりはやめてくれない? どう考えてもまともだよ。ちょっと思ったことが素直に出ちゃうことがあるだけだよ。
「……まあ、ありがとうな」
〔こちらこそ。例の男はカカシ先輩の姿を見て逃げ出したって聞いてます。先輩は弟の命の恩人です〕
カカシは大袈裟だという顔をしたが、俺にとってはまったくそうではなかった。感謝してもし足りない。俺は本当にいい上司に恵まれてる。
「何度も言ってるがその敬語どうにかならないのか? 前みたいに気楽に話してくれていい」
〔俺がカカシ先輩より出世したら考えます〕
俺がカカシより出世するなんてまず無理だから、その時は一生こないわけだ。諦めてくれ。
「オレは、お前と友のような関係になれたと思っていたんだがな」
〔…………〕
困ったように笑うカカシにいい意味で殺意が湧いた。殺意にいい意味もクソもないとは思うが、本当のことだから仕方ない。
かつて忠実なダンゾウの部下だったテンゾウさんを心変わりさせただけのことはある。
そ、そんな手には乗らないんだからねっ! この人タラシ!
「任務中以外ならいいだろ? お前のことをもっと知りたいんだよ」
もう何なのこの人。距離の詰め方怖すぎ。俺はそういうのに……すこぶる弱いッ!
以前テンゾウさんによる恐怖政治を受けた時と同じような胸のときめきを感じながら、俺はほぼ無意識に頷いてしまっていた。
カカシの顔に喜色が浮かぶ。
やめろ! そんな心の底から嬉しそうな顔で俺を見るな!
「これから飯でも食いにいかないか。美味いとこ知ってるんだよ」
〔悪いけど、俺は今すぐ家にかえっ……〕
「ガイとよく行った店で……って、ガイのこと知らないか」
〔行く〕
ガイ大先輩がよく行った店? そんなの、両足を千切られても行くに決まってる。
「……家に帰るんじゃ?」
〔それは幻聴だ〕
さっきと全く同じやり取りをして、俺はカカシの背中を押して無理やり歩かせた。ああ、楽しみすぎる!