「お前には一度死んでもらうことにした」
ダンゾウに呼び出された屋敷にて、開口一番死亡宣告を受けた俺は、真っ先に「ここから入れる施設ってあるのかな」と思った。
爺さんだとは思ってたけどついにボケたのか。
大変申し訳ないけど、俺みたいな凡人は一度死んだら二度目はないんだよ。
ダンゾウ国ではそうではないって? 非常識な国との国交は断絶ですね、さようなら。
俺の脳内で国外追放されたダンゾウが渋々と自国へと帰っていく。一生戻ってくるんじゃねーぞ。
「ユノ」
俺の隣で頭を垂れていた部下――ユノが顔を上げる。
彼は俺より二つ年上で、ダンゾウによる「お前も三代目の元で一人では心細いだろう」という気遣いの皮を被った監視役だった。
俺の裏切りを危惧しているというより、根の忍は基本的に二人以上で動くことになっている。お互いがお互いを監視し、有事の際にはサポートし合う為だ。
「お前は根の忍の中では背丈もチャクラの質もうちはスバルに最も近い。来たる日には、身代わりとなって死ね」
「はい!」
は?
さらっと言ったダンゾウもダンゾウだし、元気よく、むしろ嬉しそうに即答したユノもユノだ。
『…………』
もう嫌だ、こいつら命を軽んじすぎてて怖いよママッ!
「光栄ですね、隊長の代わりに死ねるなんて」
『…………』
こっちは空いた口が塞がらないけどな。マゾなの? そりゃあ、俺もイタチの代わりに死ねって言われたら喜んで死ぬけどさ。
家族でも友人でもない他人にここまで言わせるとは、やはりうちはは木ノ葉にて最強のアイドル!
ファンに野郎が多すぎるのは一旦考えないことにしとく。
ダンゾウの部屋を下がり、外に出る。
今日の任務はユノと二人でうちはの集落を大まかに監視することだった。
根や火影直属の暗部が監視カメラの映像を二十四時間確認しているし、俺たちの仕事はカメラの死角のチェックくらいだ。
「うーん、指文字って難しいんですね。読む方はすんなりいけたのに」
『問題なく使えてるだろ』
「まだまだ隊長には追いつけないですよ」
確かにユノの指文字は良くも悪くも丁寧でゆっくりだ。俺の指文字は印を結ぶのと同じくらいの速さではあるが、非常に雑でもある。
指文字に不慣れなナルトの前では出来る限り端折らないように心がけているが、家族の前では口で話すのとそれほど大差のないスピードになっている。
家族全員動体視力が常人離れしてるし。
「あの弟くんが一族抹殺するなんて、本当にそうなるんですかね。当初は隊長がやる予定だったんでしょ?」
『…………ダンゾウ様が決めたことだ』
うちは一族のクーデターは止められないという結論に至った時、ダンゾウは俺に一族抹殺を命じていた。
根が動くのであれば、やりようはいくらでもある。うちはに恨みを抱く他国の忍による虐殺と見せかけることだって可能だった。
しかし、イタチの実力がダンゾウの想定よりも伸びてしまった為に、イタチを木ノ葉に置いておく方が危険と判断したのだ。
平和を愛するイタチがダンゾウのやり方に賛同することはない。いずれその思想が邪魔になると判断したダンゾウは、一族抹殺の汚名をイタチに被せて里抜けさせることにした。
これは、俺にとって最大の誤算だった。
『……でも最悪の事態ではない』
「何がです?」
『独り言だ』
イタチに一族を殺させることも、里抜けさせることも、今すぐ屋敷に回れ右してダンゾウにグーパンしたいレベルで腹が立つ。
でも、それは最善ではなくとも最悪ではない。もしも俺が予定通り一族抹殺を遂行していた場合、間違いなくダンゾウは俺にイタチを殺すよう命令していただろう。
イタチとサスケを手にかけろと言われた日がダンゾウに刃を向ける時だと思っているが、まだ早い。今の俺はあの男には敵わない。
“今は”きっと……これが最善。
「ヨル達には上手く言っといてくださいね。オレ、暫くいないので」
『分かった』
「ゴズとメズに聞いたらそこそこ痛いって。あれって大蛇丸様が残したんですよね?」
『……そうらしいな』
ユノは本当によく喋る。気を抜いた時の俺みたいだ。
ゴズとメズは大蛇丸が残した実験の成果を使って“あの顔”を手に入れている。身内が見ても絶対に気づかない……完璧なうちはカゲンの顔を。
うちはの集落を見渡しながら、異常がないと分かれば次へ次へと移動を繰り返す。
「指文字は何とかするとして、隊長って普段どんな感じで家族と接してるんですか? 入れ替わった時の参考にするので教えてくださいよ」
『…………』
俺とユノはちょうど実家が見える位置までやってきていた。家の中から小さな影が出てくる――サスケだ。
これから手裏剣術の修行にでも行くんだろうか。小さめの鞄を肩から下げている。可愛い。
『家に帰ったらまずはサスケを抱きしめてエネルギーを補給する』
「はい?」
『基本的な挨拶は忘れないようにしている』
「あ、ああ……そうですよね」
困惑気味にユノが頷く。そうなんだよ。ただいまのハグがなければ何も始まらない。朝起きてからのコーヒー、それに近い。
『サスケがこちらに両腕を伸ばしてきたら、必ずやってもらいたい事がある』
「……何ですか?」
『抱っこだ』
「…………」
部下とはいえ他人にサスケの抱っこを任せるのは少し、いや、非常に憎らしいが、サスケに寂しい思いをさせてしまうよりマシだ。
黙り込んだユノに構うことなく続ける。
『イタチとは不干渉同盟中なんだ。だから最低限の挨拶だけでいい』
「ふかん……何ですか?」
『ふれあいタイムを設ける必要はないという意味だ』
「…………」
ユノが俯いて「……やべえ、何言ってるかまったく分かんねえ」とぶつぶつ呟いている。
顔を上げたユノの表情はお面のせいで分からないが、唯一見える目だけは疲れ切ってるように感じた。
「隊長クラスになると、オレみたいな凡人には理解が及ばないんですね」
『…………』
なんかそれ、ダンゾウに向ける俺の感情そのまんまじゃない?
うちは一族にとって最も重要な会合に出席していた俺は、そこにイタチとシスイの姿がないことに対して、一族とはまた違った感情を抱いていた。
「クーデターの決行日について意見を募るという時に限って二人も欠席者が出るとは」
ヤシロが憎々しげに呟く。会合はすでに終わっていて、この場に残ったのは俺と父さん、先進派のヤシロ達だけだった。
「フガク殿、イタチはなぜ来なかったのですか?」
「…………暗部の任務だそうだ」
「クーデター以上に優先すべきことなんてないでしょうに。イタチには色々と自覚が足りませんな」
「…………」
俺は一体いつまでこの茶番を見ていればいいんだろうか。
暗部が任務を蔑ろにできるわけないだろうが! と叫んで暴れてやりたい。ついでにここにいる全員に鼻フックしたい。父さんは道連れだ。
「スバル。お前も兄として弟の管理はしなければならないぞ」
「…………」
ヤシロの追い討ちに脳内のヴェスヴィオ山が噴火寸前になった。
管理が必要なのはイタチじゃなくてお前たちの方だから。
「シスイも一体どうしたと言うんだ……あれほど優秀な忍が連絡も取れないとは」
シスイは……どうなっただろう。ダンゾウの企みを知っている俺が、彼の安否を心配することすら罪深く感じる。
せめて、イタチと合流できていればいいんだけど……。
まだ話があるという父さんたちを南賀ノ神社に残して、俺は一人帰路についていた。
「…………」
往来から裏道に入る。少し進んだところで足を止めて、振り返った。
「隊長」
周りに人がいないことを確認してから姿を現したのは、ユノだった。いつものようにお面を被って暗部の忍装束に身を包んでいる。
《なぜ ここにきた》
ユノはダンゾウと共にシスイの万華鏡写輪眼を奪りに行っていたはずだ。こんなところにいる場合ではない。
「ダンゾウ様の作戦が半分上手くいかなかったんです」
どういう意味かと眉を寄せる。
「うちはシスイの片眼は奪えたんですが、もう一つを奪う前に逃げられてしまって…………」
「…………」
あの男はいくつ失敗を経験すれば学ぶんだ。
それでは、今頃シスイは無事にイタチと合流できたのかもしれない。
「ヨウジさんが毒を打ち込んでるので、解毒が間に合わなければいずれ死ぬはずです。……解毒はヨウジさんにしか出来ないから、間違いなく死ぬでしょうけど」
――シスイが死ぬ。油女ヨウジの毒の効果はよく知っている。
「それでですね、オレがシスイの捜索をヨウジさんの虫に任せてここにいる理由なんですが……シスイにオレの顔がバレたかもしれないんです」
……聞き間違いかな?
とりあえず聞き間違いということにして続きを促す。まだ焦る時間じゃない。
「交戦した時にシスイの投げたクナイがお面に当たって……ほら、ここに傷が残ってるでしょ? その時にお面が少しズレてしまって」
「…………」
ユノはすでに俺とまったく同じ顔になっている。これは不味い。非常によろしくない。
イタチと合流したシスイが全てを話してしまったら俺はおしまいだ。
イタチに嫌われるのは百歩譲って……涙を飲んで堪えるとして、クーデター前に俺が根の人間だと見破られてしまうのはこの計画の破綻を意味する。
「オレの不注意ですみません。だから、先に隊長に伝えようと思って」
《わかった おまえは はやくもどれ》
「はい」
ユノの姿が風と共に消える。瞬身のシスイと呼ばれる彼がこのまま根の追手に捕まるとは思えない。
確実に逃げのびて、イタチと会ってるはずだ。
イタチの気配が家に戻ってきたのは、真夜中だった。
シスイが死んだかもしれないのに、イタチが無事だと分かってホッとしてしまった俺は最低な兄だろう。
それでも……良かった。シスイとイタチの合流地点に根の忍たちが辿り着いていれば、そのままイタチを巻き込んで戦うことになっていたかもしれない。
俺はシスイ殺しの容疑をかけられないよう、ダンゾウから必ず家を離れないようにと命令されている。
イタチの無事を確かめる為にここを離れることは許されなかった。
イタチのものと思われる気配が、玄関から廊下へと足を運んでいる。
気配はイタチの部屋を通り過ぎて、何故か俺の部屋の前で立ち止まった。
「…………」
やはり……シスイから全てを聞いてしまったか?
部屋の前の気配は動かない。暫くして、障子がゆっくりと開いていく。俺は目を閉じて眠っているフリをした。
「…………」
障子の隙間から差し込んできた月明かりの一部がイタチの影に遮られている。
光に刺激されて動きそうになる瞼を必死に落ち着かせる。
「…………」
やがて、小さな音と共に障子が閉まる音がした。
ほとんど聞こえない足音が遠ざかっていく。
被っていた布団をはいで、上半身を起こす。
たまらず胸を押さえた。
「…………」
微かに漏れた嗚咽を聞き逃すわけがない。……イタチは、泣いていた。
あれから一睡もできなかった。最後にイタチの涙を見たのは……随分と前のこと。
自己嫌悪でどうにかなりそうだ。俺がやろうとしていることは結果としてイタチの命を救うことになるとしても……この手で、イタチを不幸にする。
俺はこの事実を忘れちゃいけない。
「スバルにいさん、どうしたの?」
「…………」
朝、俺を起こしにきたサスケを布団の中に引き摺り込んで既に十分は経過している。
腕の中でもぞもぞと動いたサスケがぷはっと布団から顔を出す。
「まだ眠い?」
くりくりとした大きな目が至近距離で俺を見つめている。
――俺はずっと、弟を幸せにすることだけを考えて生きてきた。
それがどうして、こんなことになったんだ? それ以上に望むことなんて、一つもないのに。
ああ……そうだな。俺の人生はダンゾウという男に出会った時点で、ここに終着することが決まっていたのかもしれない。
俺はこれからイタチとサスケを不幸のどん底に突き落としておきながら、のうのうと生きていかなければならない。
“いつか”が来るまでダンゾウの元でじっと息を潜めて。
いつまで? いつまで俺は耐え忍べばいい?
答えを求めるようにサスケを抱きしめる腕に力を込める。
「ふふ、くすぐったいよ!」
無邪気な笑い声に肩の力が抜ける。
サスケとの時間をのんびり堪能できたのは、これが最後だった。
「スバルにいちゃん、やっと来たってばよ!」
ナルトの家の前。
扉をノックする前に慌ただしい足音と共に飛び出してきたナルトが俺の胸に飛び込んでくる。
「ほら、早く入って!」
「…………」
腕を掴んでぐいぐいと家の中に誘導してくるナルトに、俺は片足に少しだけ力を入れてその場に留まった。
「にいちゃん?」
きょとんとこちらを見上げてくる目を直視できない。今日は、ナルトに別れを告げなければいけなかったから。
《これから にんむなんだ》
「任務?」
《ちょうきにんむで ほとんどこれなくなる》
ナルトが「なんで!?」と声を荒らげる。膝を曲げてナルトと目線を合わせた。
夕方からは完全にユノと入れ替わることになっている。……ナルトに会うことはもう二度とないだろう。
俺よりも硬質な髪を撫でる。
「…………」
言いたいこと、たくさんあったのになあ。
ラーメンばかり食べるんじゃないぞとか、寝る時は布団をきちんと被るようにとか。
それなのに、結局出てきたのは別れの言葉ですらなくて――
《またな》
全部終わったらまたナルトに会えるだろうか。うちはスバルとして、堂々とこの子の前に立てる日が来たら……。
シスイほどの実力者の穴を埋められる忍は、うちはにはいなかった。
みるみるうちに失速していくクーデター計画に「もしかしたら」と淡い期待を抱いたりもした。だが、現実は甘くない。
――あれから、一年以上の時が流れていた。
今日は、クーデター決行の前日。イタチが全てを終わらせる日だった。
「いよいよですね」
根の屋敷。隣に立ったユノに頷く。
「聞くまでも無い気もしますけど、いいんですか? 弟くん二人を除く一族全員が死ぬんですよ」
『構わない』
「はは、やっぱり隊長はとんでもないな」
今から他人の身代わりとなって殺される人間とは思えない陽気な笑いだった。
時と場合と相手によっては不快に思っていたかもしれない発言でも、ユノ相手だと腹を立てることすら無意味に思えてくる。
表情や言葉こそ豊かではあるが、彼は感情というものが全くと言っていいほど理解できない……典型的な根の忍だった。
『そろそろ日が暮れる……俺たちも集落へ向かうぞ』
集落の至る所で悲鳴が上がり、夜が濃くなっていく。充満した血の匂いに酔いそうになりながら、昨日ぶりの我が家の前に立つ。
『…………』
昨日は、ユノに適当な言い訳をして一日だけ“うちはスバル”としてこの家に帰った。
久しぶりに食べた母さんの手料理は美味しいし、父さんの仏頂面は相変わらずだった。俺の表情筋が死んでるのは父さんのせいに違いない。
帰ってすぐおんぶしたサスケは弾けそうな笑顔を向けてくれて……こんなにも幸せなのに、胸が痛い。
遅く帰ってきたイタチとは会わないように、自室で眠ったように見せかけてやり過ごした。
『…………』
やっぱり俺は自分のことばかりだな。でも、それでもいいや。
ありとあらゆる人を不幸にしようとも、俺の世界の中心は今も昔もイタチとサスケだけ。死なないでほしい。俺のために――生きてほしい。
最悪だ。最悪だけど、俺にはもうこれしか残ってないんだよ。
中に入らないのかと、ユノが視線だけで問いかけてくる。
扉の前にはすでに気配が二つあって、それが俺に扉を開けることを躊躇わせた原因だった。ゆっくりと玄関の扉を開ける。二人の人間と目が合った。
「……何者だ」
『うちはフガクと、うちはミコトだな』
いつものように額に静電気のような痛みが走る。お面越しの聞き覚えのない声に、父さんと母さんが警戒心を強めた。
俺は背中の忍刀を手に取り、構える。
「火影の……いや、根の暗部。外の騒ぎはお前達の仕業だったのか」
「あなた」
「下がっていろ」
父さんの瞳が完全に赤に染まる前に視線を逸らす。写輪眼だ。
母さんを庇うように一歩前に出た父さん。心臓の音が煩い。集中しろ、そうでなければ勝てない相手だ。
ユノは父さん達に見えない位置に身を隠している。ここからは俺一人だけの仕事。
俺の振りかぶった刀は軽々とクナイで受け止められ、クナイの切っ先が傷をつけるような不快な音が響く。
「なぜ一族を襲う。答えろ」
『…………』
そんなの、俺が教えてほしいくらいだよ……父さん。
これは一族が……父さん達が始めたことじゃないか。俺にはずっとこの
「ミコト、こっちへ来るんだ!」
父さんが母さんの肩を掴んで、家の奥へと走っていく。
ぼんやりとしてきた頭で、父さんが母さんを名前で呼ぶところなんて初めて聞いたな、なんて思う。
思考とは裏腹に身体はすぐに二人を追いかけようと動いた。
廊下を慌ただしい音が三つ駆けた。
二人の背中めがけて投げたクナイは、写輪眼になっている父さんに弾かれていったが、そのうちの一つが母さんの足首を掠めたらしい。小さな悲鳴が上がった。
「ミコト!」
『木ノ葉の未来の為に、貴方達にはここで死んでもらう』
「どこで我らの企みを知ったのだ!」
『…………』
念願の長男として生まれてきた俺が話せないと知った父さんの落胆ぶりから分かっていた。
俺が寝静まってから、いつも母さんと二人で「これでは一族の悲願はどうなる」と頭を抱えていたことも……。
お面の内側でくしゃりと顔が歪む。
俺はなぜ生まれてきたのかを知った日に、なぜ生まれてきてはいけなかったのかを知った。
望まれて生まれてきたはずが、俺という存在は両親にとって重荷にしかならないのだと。
二人からの愛は、見返りがあってはじめて歪さの上に成り立つのだと……気づいてしまった。
深く絶望した――イタチという希望が生まれる、その日まで。
上手く走れない母さんを庇いながら逃げ続けることはできないと判断したのか、立ち止まった父さんが一番近い部屋に母さんを押し込む……俺の部屋だった。
「……ダメよ、危ないわ!」
母さんが目に涙を溜めながら部屋から出てこようとする。その細い腕を振り払って、父さんが俺に向き直った。
父さんの瞳はいつの間にか万華鏡写輪眼へと変貌を遂げていた。
それは、咄嗟の防衛反応に近い。降り注いでくるであろう幻術から身を守ろうとした俺の瞳にも熱が集まり、視界が真っ赤に染まった。
茫然自失。父さんが呟く。
「写輪眼だと……お前は一体」
『…………』
持っていた忍刀をするりと手から離す。刀が床に落ちる音と同時に駆け出して、父さんに拳を振り上げる。
動揺のせいか反応が鈍い。モロに食らった父さんが吹っ飛んだ。父さんがすぐに体勢を整えようとする。
でも遅い。俺はもう木ノ葉旋風を繰り出す準備ができて――
「――もうやめて、スバルッ!」
ビクッと身体が震えて、俺の蹴りは父さんに当たる寸前で止まった。
父さんは床に手をついたまま、放心状態だ。
「ミコト…………何を言ってる」
振り返った先では、障子に手をかけた母さんが涙でぐちゃぐちゃになった顔で必死にこちらに腕を伸ばしていた。
「スバル……スバル……! 貴方なんでしょう……?」
『…………』
…………どうして。
足を下ろして、その場で立ち尽くす。否定の言葉は出てこなかった……頭が真っ白で何も考えられない。
腰が抜けているのか、足首の傷がそれほど深かったのか、母さんが両手を床につきながら俺のところまで這ってくる。
――動けなかった。
母さんの手のひらが俺の肩に触れる。その温かさに驚いたと同時に強く抱きしめられた。
「昔も今も……私は母親失格ね。こうなるまで、貴方の心に気づきもしなかった」
『…………母さん』
最後に母さんに抱きしめられたのはいつだろう。こんなにも……温かいものだっただろうか。
「本当にスバルなのか……? なぜお前がオレ達を裏切る……」
「スバルは裏切ったんじゃない。“選んだ”のよ」
母さんは涙を流しながらも毅然としていた。
「スバル……私を貴方の部屋まで運んでくれる?」
『…………分かった』
母さんの腕が首に回ってくる。そのまま抱き上げて、俺の部屋に向かう。後ろから困惑気味の父さんがついてきていた。
部屋の中央に母さんを下ろす。その隣に父さんが座った。その顔にはすでに困惑の色は消えている。
「……お前は里側についたのか」
『…………』
両親の正面に座って、俯く。ここが俺の部屋であることを除けば、二人に里や暗部でのことを報告する時と同じ光景が広がっていた。
「……顔を見せてくれ。確認がしたい」
懇願するような響きだった。俺は両手をお面に当てて、外す。
何の障害もなく目が合った両親が息を呑む。母さんは口元を手のひらで覆って、また涙を流していた。
外していたお面をもう一度被る。
『俺はお面がないとこのように話せない』
「…………そうか」
ぎゅうっと膝の上で拳を握った父さん。悲痛な表情だった。
「お前はどこまでも木ノ葉の忍だったということか……」
『それは違うよ』
これで最後だ。最後に、二人に真実を告げることになったのは、むしろ良かったのかもしれない。
ユノはいつイタチが来ても良いように玄関の前で待っているはずだ。ここには俺と両親しかいない。
『俺はうちは一族のスバルだ。そうありたいと願って生きてきた』
「スバル…………」
母さんの声が震えている。
『俺がうちはであるという事実が、俺をイタチとサスケの兄にしてくれた』
これ以上の贈り物があるだろうか?
ダンゾウは俺が両親や一族を憎んでいると思っていた。彼が両親の始末を命じたのもそのせいだった。俺の覚悟が本物なのか確かめる為に。
俺の中にあるのは彼らへの感謝のみだった。
『俺はこれからもうちはの名を背負って生きていく』
一生消えることのない、たくさんの罪と一緒に。
泣き崩れた母さんの肩に父さんが腕を回して、自分の胸に引き寄せた。
「一族の未来の為にと始めたことが、結果としてお前やイタチを苦しめてしまった……」
『…………』
「刀を持ちなさい」
父さんの目が障子の向こう――廊下に転がっている忍刀を捉える。
俺は無言で立ち上がって廊下に出た。まだ誰の血も吸っていない刀を持ち上げる。
「イタチとサスケは無事なんだな?」
『…………うん』
父さんが笑った。相変わらず、不器用な笑い方だ。
「――スバル。お前の望むようにやればいい」
『…………俺の望み、』
「お前はオレの子だ。オレは一度たりとも自分の中のお前への愛を疑ったことはない」
『…………』
胸の奥に鈍い痛みが走った。
「貴方はいつだって私たちの誇りよ……スバル」
廊下から部屋に入る。両親の正面ではなく、後ろに立った。
まるで優しい呪いにでもかけられたように、そこから動けない。
手入れの行き届いた刀だけが小刻みに揺れている。……震えているのは、俺の方だ。
お面越しに見える両親の背中がゆっくりとぼやけて、不鮮明になっていく。
「スバル」
どこまでも穏やかな父さんの声に顔を上げる。
見えないはずの父さんの表情がはっきりと分かる。
頬を伝っていった温かい水滴がポタポタと床に落ちた。
「後は頼む」
『…………』
ぐっと心を内側へ内側へと逃していく。部屋の隅に置かれた時計の針は、この時間の終わりを告げていた。
『あ…………』
震える手に温かなものが触れた。母さんがこちらを振り返っていた。柔らかな手のひらが俺の手を覆っている。
……震えが止まった。これでもう、俺は役目を果たさなくてはいけなくなる。
母さんが寂しげに微笑んだ。
「私たちの分まで、イタチとサスケをお願いね――お母さんの、最期のお願いよ」
思考が完全に止まったせいかお面は沈黙を保っている。次第には周りの音さえも消え去って、目の前で起きている現実だけが俺の前に取り残されていた。
ゆっくりと、刀を握っている右手を振り上げる。
現実と共に動き出した俺の思考に反応したお面が言葉を紡いだ。
『俺は、父さんと母さんのことを…………愛していた』
全ては過去となりいつまでも消えない膿となる。
息を呑むような音が二つ聞こえたと思った時には、俺の右腕は突き立てられた後だった。
父さんの身体が糸が切れた操り人形のようにぐらりと傾いて倒れる。引き抜いた刀は血を吸っているせいでひどく重たく感じられた。
こちらに背を向けたままだった父さんとは違い、母さんはしっかりと俺を見ていた。
その両眼が真っ赤に染まり、眩い光を放つ。
『…………その眼は』
以前父さんに見せてもらった万華鏡写輪眼。それとは形状が異なるものの、明らかに通常の写輪眼とは違う。
その瞳の模様は手裏剣のようだと思ったが、十字架のようにも見える。
――そうか、四芒星だ。
既視感の正体はすぐに分かった。
「私が死んだら、すぐにこの両眼を抉り取りなさい」
『母さん、それは』
「私が写輪眼を有していたことは夫であるフガクしか知らない。さらに、たった今万華鏡写輪眼を発現したことを知るのは、ここにいる私と貴方だけ」
母さんが涙を流しながらにこりと微笑んだ。
「私もよ、スバル。私たちも、貴方たちを心の底から愛している……」
母さんが目を閉じて背中を向ける。俺は両眼の奥でひりつくような熱と痛みを感じていた。
長い夜だ。そのうち朝がやってくるのが信じられないくらいに。
ああ、そうだ。もう一つ言っておかなくてはならないことがあった。父さんには伝えそこねてしまったけれど。
『…………ありがとう』
指から力が抜けて、するりと握っていた刀が床に落ちる。
俺の足元では二つの動かない塊が折り重なるようにして倒れている。これでもう、全てが終わった。
ぽつりぽつりと止まない雨が降り注ぐ。真っ赤な血の海にぼんやりと浮かび上がる俺の瞳もまた、小さな星の輝きを放っていた。