第二十六話 歩きはじめること
「先生! うちはサスケくんが…………!」
ぼんやりと浮上した意識。忙しなく遠ざかっていく足音に後押しされて目を開いた。
真っ白な天井に、消毒液の匂いが鼻につく。
微かに動いた指はシーツの感触を確かめるように握りしめた。
ここは……木ノ葉病院? どうしてオレが?
ゆっくりと身体を起こす。たったそれだけのことで全身に走った鈍い痛みに顔が歪む。
やがて、先ほど慌てて病室を出て行った看護師が医師を伴って戻ってきた。
「目が覚めて良かった。キミは三日間も眠りっぱなしだったんだよ」
「三日…………?」
怪訝そうにするオレに、医師と看護師が顔を見合わせる。
「キミ……火影様を」
「は、はい!」
再び出て行った看護師の後ろ姿が見えなくなるまで目で追いかけていると、残った医師が言い辛そうに咳払いをした。
「あの夜のことをどこまで覚えているかね?」
「あの夜…………」
ズキッと頭に鋭い痛みがあった。
あの夜……夜……そうだ、オレはあの男に。
「あ……あああ…………」
両手がカタカタと震える。そのまま自分自身を抱きしめるように掴んだ。
「父さん、母さん……スバル、にいさん……!!」
悪い夢の中にいるのだと思った。あの男……イタチに両親の死を記憶として刻みつけられた時のことが、あの苦しみが、鮮明に蘇ってくる。
それでもこの目で見て、触れて……。
スバルにいさんの身体の冷たさは、夢ではなかったと訴えてくる。
口端には血が滲み、優しげにこちらを見つめてくれていたあの目が開くことは二度とない。あれは紛れもなく――死だった。
「どうして…………?」
どうして父さんや母さんが殺されなくちゃいけなかったんだ?
どうしてスバルにいさんが死ななくちゃいけなかったんだ?
どうしてあの男はオレから何もかもを奪った?
「ううっ…………」
「無理をしてはいけないよ。横になりなさい」
「離せ! あの男は、イタチはどこにいるっ!」
全部偽りだった。オレが幸せだと感じていた現実は全て嘘で塗り固められ、存在すらしない夢物語だったんだ。
ぽろっと涙がこぼれる。
オレの肩を掴んだ医師の悲しげな目も、満足に動かせない身体も、何もかもが腹立たしい。
こうなることが決まっていたなら、どうしてオレに優しくしたんだ。
どうしてあの時、オレと同じようにスバルにいさんが好きだと、あんな表情で…………。
「オレは…………お前を絶対にゆるさない」
瞳に焼けるような痛みが生じたが、すぐに元に戻る。後からやってきた三代目火影にオレとイタチを除く一族全員が滅んだことを聞かされ、その日から復讐者として生きることを決意した。
「動機なんて些細なことだ。生きようともがいた強い意思がキミを救ったんだよ。今日で通院は最後だけど、何かあったらいつでも来なさい」
「…………ありがとうございました」
優しく微笑んだ担当医に顔を背ける。誰かの言葉が自分の心に住まおうとするのが許せなかった。それでもかけられた言葉の温かさを完全に拒絶することの方が難しくて、小さく頭を下げる。
――あれから一年。
心のケアという名目で最近は一週間に一度病院に通うことが義務付けられていたが、それも今日でようやく終わった。
夜になるとあの日のことがフラッシュバックして眠れなかったのが嘘のように、今では日常生活に何の支障もきたしていない。
胸のどこかで燻る憎しみの炎が消えたわけじゃない。ただ、意図的に見えなくすることができるようになっただけだ。
病院を出て、まっすぐ道なりに進む。何度も何度も通った道。通院日には必ず足を向けていた場所に辿り着いた。
「ただいま。父さん、母さん――スバル兄さん」
唇を噛み締める。
うちは一族の集落にある南賀ノ神社。その隣に並ぶ無数の墓石たちには《うちはフガク》《うちはミコト》《うちはスバル》の名が刻まれている。
スバル兄さんの墓石の前には小さな花束がぽつんと置かれていた。詳しくはないが、薄ピンク色の花弁にどこか儚さを感じさせる花だった。
この花束を置いた人間も花の名前や花言葉などきっと知らないだろう。
オレはその人物をよく知っていた。花という存在が到底似合わないことも。
ザクッと背後で土を踏みしめる音がした。瞬時に振り返る。
「…………ごめんね。邪魔するつもりじゃなかったんだけど」
女が立っていた。女にしては短すぎる髪が穏やかな風に吹かれて揺れている。オレの視線に気づいた女が少し照れくさそうに笑った。
「はは、短いよね? 自分でやったら思ったより切りすぎちゃって」
「…………別に」
女は腕に抱えていた薄紫色の花束を両親とスバル兄さんの墓の前に供えた。
釣鐘のような特徴的な花の形には見覚えがある――リンドウだ。
「……知り合いなのか?」
目を閉じて両手を合わせていた女がゆっくりと目を開ける。
「好きだったの」
ぽつりと呟かれた言葉に瞠目する。まさか父さんのことではないだろう。そうして、スバル兄さんのことだと気づく。
「スバルとはアカデミー時代からの付き合いでね。他人の心に唯一触れられる私なら、あの人の孤独に寄り添えると思ってた」
「…………孤独」
記憶の中にいるスバル兄さんはいつも寂しげな目をしていた。その理由を、オレは最後まで知ることができなかった。
「あなたは少しだけスバルに似てる気がする」
全てを見透かすような瞳が優しげに細まる。
「自分のためだけに生きてくれないところが」
痛々しい笑顔だった。なぜか胸が熱くなって、力なく俯く。
墓石の前でしゃがんでいた女が立ち上がる。
「今日は花を添えにきただけだからもう行くね」
「アンタの名前は?」
顔を上げる。そこにはもう痛々しい笑みは存在していなかった。
「
翌日。
「な、なな、なんの言いがかりだってばよ!?」
「コソコソと早朝に花を置きにくるなって言ってんだ、ウスラトンカチ」
目に見えるほど動揺しまくってるナルトが、「なんのことか分かんねーよ!」と叫ぶ。
腕を組んで強がっているが、だらだらと額から流れる汗は隠せていない。
「チッ……。お前がスバル兄さんと仲が良かったことは知ってるからな。堂々と花を供えに来い」
「…………サスケ」
「勘違いすんじゃねぇぞ。その方がスバル兄さんも喜ぶと思っただけだ」
ぷいっと顔を逸らす。ちらりと目だけでナルトの顔を確認すれば、スバル兄さんが死んでからオレと同じくらい、いやオレ以上に沈んだ表情が多かった顔にじわじわと喜色が滲んでいた。
「今日アカデミーが終わった後って空いてる?」
「…………空いてるが」
ナルトがぱぁっと破顔する。
「ならさ、ならさ! 一緒にスバル兄ちゃんのとこ行くってばよ」
「なんでオレがお前なんかと」
「オレってばスバル兄ちゃんの大好物だった特製チャーハン用意していくからさ! サスケも兄ちゃんが好きだったもの持っていけば、もっと喜んでくれるに違いないってばよ!」
へへ、と笑うナルトの顔が眩しい。頭に見たこともない兄さんの満面の笑顔が浮かび、消えることなく存在し続けている。ふんっと鼻を鳴らした。
「スバル兄さんの大好物はオレが作った明太子のおむすびだ」
「オレの作ったチャーハン食べた時、兄ちゃん、こんなに美味しいのは初めて食べたって言ったもんねーだ!」
「兄さんは礼儀正しい人なんだ。不味いもんを素直に不味いって言うわけないだろうが」
「ああ? そこまで言うならお前にも食べさせてやるから覚悟しとけってばよ!」
「望むところだ。一口で不味いって言ってやる!」
売り言葉に買い言葉、ついには肩で息をしながら至近距離でメンチを切っていたオレ達の頭に鋭い拳が降ってきた。
「いっ!!」
「…………!!」
頭を抱えながら悶絶する。一体誰だとイライラしながら顔を上げたオレ達はすぐに固まった。
「お前たちぃ……組手をしろって言ったのに聞いてなかったのか?」
「い、イルカ先生ェ…………?」
般若を背負った、いや般若そのものになっているイルカ先生がオレ達の前に立ちはだかっていた。
その恐ろしい顔は、今にも口から火遁を噴き出しそうなくらいだった。
イルカ先生の肩がふるふると震えている。
「罰としてアカデミーを十周だ! 今すぐに!」
「えー!?」
「元はといえばナルトが先に……!」
「言い訳禁止!」
くすくすとクラスメイト達が笑っている。……屈辱だ。オレは頬を赤らめながら、未だにブーブーと文句を垂れているナルトを放置して走り出す。
「あっ、置いてくなよサスケェ!」
「ついてくんな、ウスラトンカチ!」
「あんだとぉ!?」
「まだケンカするつもりなら倍に増やすからな!」
黙々と走り続けるオレの真後ろをぴたりとナルトが着いてくる。
「…………」
「…………」
ナルトがオレの隣に並んだ瞬間に走る速度を速めると、ナルトもついてきた。
「…………!!」
「…………!!」
どちらかが前に出れば、次はもう片方が前に出る。何度もそれを繰り返したオレ達は、最終的に同時にゴールした。そしてまったく同じタイミングで崩れ落ちる。
「も、もう走れないってば……よ…………」
「…………」
「……お前たち二人は一体何と戦ってるんだ?」
呆れたようなイルカ先生の声が降ってきたが、そんなのはオレが知りたいくらいだった。
アカデミーが終わって、オレは前方にいるナルトとは十分に距離を保ったまま歩いていた。クラスメイトに仲良く一緒に帰ってるなどと勘違いされては堪らないからだ。ナルトがある場所で立ち止まって、こちらを振り返る。オレがついてきていることを確認してから階段を上っていく。
「ここがオレの家!」
ナルトがニッと笑う。促されるまま、開かれた扉の先に進んだ。
「掃除くらいしろよ」
真っ先にそんな言葉が出てきてしまうくらい酷い有様だった。
ナルトは心外だという顔をして「これでも昨日整理整頓したとこだってばよ」なんて言う。
一体どこを整理したんだと小一時間くらい問い詰めたくなった。
「今から作るから座ってて!」
「ああ…………」
やけに張り切っているナルト。椅子に腰かけて、さりげなく周りを見渡す。
ナルトが戸棚を開けると、そこには大量のカップラーメンが並んでいて絶句した。
「お前、それ」
「あっ……見なかったことにしてくれってばよ!」
「無理に決まってんだろ」
毎食カップラーメンかと疑うほどの量だった。
「スバル兄ちゃんには黙ってて! このとーり!」
「……兄さんも知ってたのか?」
「身体に悪いからって叱られたことが…………」
そりゃそうだろうなという感想しか浮かばない。あとで墓石の前で報告しとくかと思いながら、ため息をつく。
ナルトが引き攣り笑いを浮かべながら戸棚を閉める。その際に戸棚の内側に貼られた真っ白なシールが見えて、ガタッと立ち上がる。
「それ…………」
「ん?」
ナルトの隣に立ってもう一度戸棚を開ける。貼られていたシールには丁寧な字で《食べすぎないように》と書かれてあった。
ナルトが懐かしそうに目を細める。
「スバル兄ちゃんが書いてくれたんだ。おかげでちょっと……いや、かなりカップラーメン率が下がったってばよ」
羨ましいような、妬ましいような、複雑な感情が湧き上がってくる。それと同じくらい、懐かしさで胸が締め付けられていた。
「……そこの引き出しに、スバル兄ちゃんが置いてった本がある」
フライパンを用意しながら、ナルトが空いてる方の手で引き出しを指差す。
「小難しい忍の心得みたいなやつでオレには読めないし、待ってる間に読んでていいぞ」
言われた通りに引き出しを開けると、それなりに読み込まれてると分かる分厚い本が出てきた。
ここでナルトと過ごしている間、兄さんはこの本を読んでいた。今のオレと同じように。
パラパラと紙を捲ると、ひらりと何かが床に落ちた。本に挟まっていたらしい。
膝を曲げて手を伸ばす。カサッと音を立てて掴み取ったそれは、どうやら写真のようだった。くるっとひっくり返して、息を呑む。
オレとスバル兄さんと、あの男……イタチの三人が映った写真。溢れんばかりの笑みを浮かべるオレを抱っこしたスバル兄さんが、どこか照れくさそうな顔をしたイタチの肩に手を置いている。
「…………ッ」
夢のような日常。もう二度と手の届くことのない、幸せな世界。
イタチの顔を見ても今だけは憎しみは湧いてこない。ただただ、あの日の感情を思い出して胸が苦しくなるだけだった。
ぐいっと腕で目元を拭う。
「……この本、貰っていいか?」
パタンと閉じた本の隙間に写真を挟む。
遠慮がちにこちらを振り返ったナルトが不器用に笑った。
「仕方ないから、譲ってやるってばよ」
しばらくして完成したチャーハンは、文句のつけようがないくらい美味しかった。