監督である片岡に背中を押され、マウンドへ向かうエース。
ゆっくりと甲子園の地面を踏みしめ、視線に入った小山に上る。
女房役から投げられた白球を掴み、右肩を一回転。
そして、帽子の側頭部を抑えて帽子の具合を直す。
いつも通りの感覚に戻り、その胸に手を当てて目を瞑る。
(ここまで、かな。)
恐らくだが、自分はこの回を最後に交代するのであろう。
監督はきっとそれを勘づかれないように隠していたが、大野は何となく察していた。
欲を言えば、まだ本郷と投げ合いたい。
彼の闘志に引っ張られて、自分も普段よりもいい投球が出来ているから。
まあ実際のところ立場は逆。
大野の闘魂に、本郷が引っ張られている形だ。
互いに意識し合い、限界を限界でなくす。
ミックスアップ。
大野夏輝という投手だけが持つ、異質な特性。
それによって、本郷の底力が発揮されているのだ。
無論、大野自身がそれを知る由もない。
そして知ったところで、どうにもならない。
今はやるべき事をやると、迷いを振り払う。
深呼吸をして。
ゆっくりと、目を開ける。
「行けるか、夏輝」
「あぁ。」
幾度も続けた、このやり取り。
互いにいつも通り答え、頷く。
「まず3つな。」
「分かってる。しっかり繋ぐさ。」
すると御幸は、驚いたと言うように少し目を見開いた。
「気づいていたのか。」
「何となくな。俺も普段より疲れが出ているのも嘘では無いし、沢村と降谷も調子が良い。ある種見切りをつけるとは、思っていた。」
完投にこだわりがないわけではない。
というか寧ろ、かなりこだわりがある。
しかしその理由というのは、継投で打たれることを恐れているから。
特に彼が入学して間も無くは、大野以外の投手は基本ノーコン乱調の炎上系投手たち。
その印象が強かったからか、負けないために投げ切るというのが、彼にとって完投にこだわる要因なのだ。
が、今は沢村と降谷のように、甲子園でも先発を任せられるレベルの投手が後ろにいる。
彼たちになら託せると、大野もまた感じていたのだ。
「まずはアウト3つ取るぞ。話はそれからだ。」
「OK。」
そうして離れていく御幸の背を見て、白球を手のひらで転がす。
すると御幸が振り返り、また言った。
「甲子園はまだ途中だからな。」
「わかってら。」
そうして、互いに笑う。
試合終盤とはいえ、大会を通してまだここは通過点。
勝てばまだ、あと2試合ある。
(俺が疲れているのであれば、本郷もそこそこスタミナにきてるはずだ。)
それは肉体的にも、精神的にも。
ここで完璧に抑えることは、単にイニングを無失点で切り抜けること以外にも意味を持つ。
できるだけ、圧倒的に。
そして、完璧に。
抑えることが、エースの使命なのだ。
まずはこの回先頭の本郷。
彼に対しては、3球勝負。
外角低めのストレート2球で追い込み、最後に外のカットボールで空振り三振。
高めから高速で真横に変化するこのボールで、本郷をねじ伏せた。
(実際球威は落ちてきてる。コントロールも少しズレが出てるし。)
大野の球を受けながら、御幸は見立てがあっていたことに若干安心する。
今はチーム内でもトップクラスのスタミナを誇るこの大野。
尚且つ球数の少ない彼は、イニングイーターとしてはかなり優秀であり、実際のスタミナ以上に長いイニングを投げることができる。
しかし今日に関しては、力の制御が少しうまく行っていないというのあり、スタミナ消費が激しい。
その弊害がすでに、若干ながら出ていた。
とはいえ、あくまで若干である。
並の投手、というかコントロールがそこそこいい投手と相変わらずの制球力はある。
球のキレは健在であり、多少球威が落ちているくらい。
(気にする必要がないほどとは言え、不安要素がないわけじゃない。)
フォーム変更して、初の大会。
怪我をした肘の負担はほぼなくなっているとはいえ、それでも怖さはある。
1試合投げているとはいえ、超高校級のエース投手と投げ合うのは夏振り。
実際にかかっている負担は、かなりあると思う。
それに、自分から疲れたことを口にすることはない。
おそらく本人の自覚以上に疲労はきている。
集中状態により疲労を感じにくくなっているというか、楽しんでいる分この疲れが顔を出していないというか。
ふとした時に、一気に疲れが噴き出す可能性がある。
何より、大会を通して勝ち上がるには、大野を限界まで投げさせるわけにはいかないのだ。
沢村と降谷の調子がいい以上、彼らに託すのも手ではある。
(下位打線とはいえ、ここをリズムよく抑えるかでかなり変わってくる。)
(わかった。テンポ良くいこう。)
7番の羽生。
強く振ってくるというよりは、この試合では軽打で当てようとする姿が見える。
厳しいコースでもバットに当ててくる可能性は、ある。
まずは初球。
インコースを抉る外から入るカットボールで1ストライク。
2球目も、同じボール。
厳しいところに決まり、バットを振らせることなく追い込む。
この変化球で追い込めるのが、大野の強み。
そして3球勝負でも厳しいコースを攻められる。
(ツーシームで決めよう。外のボールゾーンに逃げるやつ。)
(OK。)
しかしここで、大野のツーシームが真ん中にいってしまう。
変化こそ大きく動いたためゴロになったが、ストライクゾーンからストライクゾーンでの変化。
失投とまではいかないが、やはりコントロールがブレては来ていた。
(悪い。)
(気にすんな。変化は問題なかったし、失投とまではいかない。)
最後のバッターは、江藤。
彼に対しては、低めのストレートを徹底。
初球は外角低め、比較的甘いコース。
しかしこれが前に飛ばず、ファール。
2球目は、外角少し外れているボール。
しかしこれに手が出てしまい、当ててファール。
また同じようなボールで今度は見逃し、1ボール。
カウント1ボール2ストライク。
(久しぶりの配球だな。)
(いやか?)
(いや、俺は嫌いじゃない。)
最後のサインを出す御幸。
しかし、ここまで長い間ともにやってきた。
出されなくても、最後のボールは何かわかっている。
原点投球。
大野の生命線であり、最も得意とするコース。
そして、彼という投手を構築する、象徴的なボールの一つ。
最後は外角低め、128キロのフォーシーム。
打者は全く反応できず、見逃し三振。
マウンドのエースは、再び吼えた。
「っしゃあオラア!」
グラブを叩き、右腕でガッツポーズを作る。
鼓舞されるように、内外野から声が上がる。
それはベンチにも伝達し、そこからさらに観客席のも伝染する。
盛り上がり、湧き上がる青炎。
青道サイドの反撃の狼煙が、上がる。
本人は、あくまで個人として。
大野夏輝という一投手として今日は戦い、そして出たこの咆哮。
しかしその姿は。
紛れもなく、エースを象徴するものであった。
8回裏。
エース大野の鼓舞により迎える攻撃は、奇しくも女房役である御幸が打席に入った。
「いけー御幸!」
「とにかく出ろー!」
ベンチからの声もヒートアップする中、渦中の御幸は極限まで集中力を高めていた。
ここ最近は得点圏にランナーがいない状態でも安定感のある打撃を見せていた御幸。
それでも、チャンスになると彼の打撃が一味変わるのは事実である。
しかし今日の、特にこの打席に関しては、その時以上の集中力を誇っていた。
チャンス以外での打席でここまで集中するのは、彼にとっても中々ないことである。
それほどまでに大野の投球に感化されていたのだ。
彼の球を受けている御幸本人は、尚更。
外部の音がシャットアウトされ、彼の視界に変化が起こる。
若干モヤがかかるような周囲に、それでいて投手だけは鮮明に色づく。
視野がいい意味で狭くなっている、御幸にとってかなり集中力が高まっている状態であることを証明するものだった。
狙い澄ましたのは、決め球。
3球目のスプリットを上手く拾い、右中間を破るツーベースヒット。
遂に出たランナーに、更に初の長打。
この大終盤。
チャンスの場面で、主将に打席が回った。
(今のボール、少し高かったか。)
先ほどの御幸の打席を見て、白州はそう思った。
ここまでの打席は完璧に制球ができているイメージだったのだが、ここにきてスタミナが切れたのか。
それとも、何か他の要因があったのか。
答えは、前者であった。
ここまで全開で投球をしたこと、そして投げ合っている大野に呼応して普段よりもギアを上げていたこと。
それにより、普段以上に疲労感が出ている感覚はあった。
さらに拍車をかけたのは、8回の表。
回を追うごとにギアが上がっていく相手エース。
そしてその咆哮は、終わりなき戦いを意味しているのか。
特に最後までコントロールの乱れない姿は、いつまでも投げてやるという闘気すら感じ、それに対して本郷は初めて恐怖すら感じた。
これがエース。
これが大野夏輝。
成宮鳴と肩を並べた、男。
この男といつまで投げ合わなければいけないのか。
終わりなき戦い。
それは本郷の疲労の引き金を引くには、十分であった。
『初球狙ったー!』
刹那、白州のバットから快音が鳴り響く。
威力はあるが、コースは甘い。
しかしそれを仕留められないほど、白州は詰めが甘い打者ではない。
その速いボールを完璧に捉えた。
弾き返した打球は左中間へ。
御幸は一気にホームへ帰り、遂に一点先制。
刹那の速攻で、止まっていた試合を動かしたのは、青道高校であった。