(行くな…超えるな…。)
精一杯腕を伸ばす。
たとえ、届かないとわかっていても。
一塁上で拳を突き上げている勝利投手を見つめ、その跡を追うようにホームベースに目を向ける。
ほんの一ミリの希望を込めて見つめた先には、生還したカルロスと項垂れる一也。
俺の視界から、光が消えた。
再び光が差し込んだ時、両目の上に置かれていた右手の甲をスッと上げる。
その手には、何滴かの水滴だけが落ちていた。
届かなかったな。
再び目尻に浮かんだ雫を中指の腹で拭い、空虚を握りしめた。
「起きたか、大野。」
ボソリと呟かれた同室の先輩の声に意識を取り戻し、起き上がった。
「おはようございます、クリス先輩。」
「あまり無理はするなよ。」
「ありがとうございます、ですがもう大丈夫です。ご心配おかけしました。」
「そう、か。」
本当に、心配をかけた。
チームのみんなにも、監督たちにも。
そして、最後の試合になってしまった3年生にも。
俺が打たれたから、負けた。
その事実は、どう足掻いても変わらない。
「確かにお前が打たれたから負けた。が、打者が打てなかったから勝てなかったというのが正解だ。」
それは、わかっている。
だけど、それを認めたら。
それを認めたら終わりな気がする。
野球選手としてでなく、投手として。
マウンドに上がったからには、エースだろうがなかろうがチームを勝たせるために投げなければいけなかった。
だから、それ以上言わないでほしい。
「だから、あまり気にしすぎるな。お前が全力で投げ続けたことは、皆がわかっている。」
「けど…」
俺のせいで負けたんだ。
そう言いかけて、やめた。
怪我で戦列を離れざるを得なかったこの人の前では、言ってはいけない気がした。
言い澱んでる俺を見て、クリス先輩は笑顔で肩を叩いてくれた。
「みんな待っているぞ。」
本当、卑怯な人だよな。
こうやって、うまく丸め込んでくる。
無言で頷き、俺は申し訳程度に部屋のドアを開いた。
久しぶりの外、今日も日差しが眩しい。
けど。
新たなスタートラインだって考えればちょうどいい。
「よし、いくぞ。」
そして、少し開けていたドアを勢いよく全開した。
のはいいのだが。
ゴン。
と、鈍い音。
少し嫌な予感がしながら、俺は足元に目を向けた。
「あ。」
「ってえぇ…。」
額を抑えて跪き悶えるのは、我が妻君。
申し訳ない気持ちはあるのだが、そのコメディ調な流れと反応を見て笑ってしまった。
というか、吹き出してしまった。
「お前さあ…。」
「ごめん一也、ちょっと面白かった。」
赤くなった額を左手で撫でる一也。
結構勢いよく行ったからな、流石に痛かったか。
けど、笑える。
「あれ、大野じゃん。一週間も出てねえもんだから不治の病にでもかかったのかと思ったぜ。」
俺を見つけるや否や、颯爽と走ってくるのは同い年の倉持。
中々、テンションは高い。
夏の大会では代走と守備固めで9回から出場していた。
こう見えて、人のことをよく見ている。
現に、俺の様子を見てから判断したからな。
最初は心配そうな顔をしていたってのに、すぐに冗談に変換したからな。
「悪かったな、心配かけて。」
「さっさと練習行こうぜ。その馬鹿は置いていってさ。」
「おいおい。」
幼馴染ながら、不憫である。
はあっと溜め息をつきつつも、俺はグラウンドに向かおうと倉持の横へ駆けていった。
「お、大野じゃねえか。」
「あ、純さん。ご無沙汰しております。」
「たった一週間だろうが。てか、もう出てきていいのかよ。」
「それこそ大袈裟ですよ。むしろ、サボってすいませんでした。」
この人は、一つ上の伊佐敷さん。
見た目は厳ついが、見ての通り優しい人だ。
その後ろから出てきた小柄な人は、小湊亮介さん。
色んな意味で怖いが、いい人だ。
「で、こんなとこで油売ってていいの?一週間もサボってたんだから、監督ブチギレてるかもよ。」
こんな風に助言してくれるくらいには、優しい。
優しい、よね。
亮さんのありがたい助言のもと、俺は急いでプレハブ小屋へ。
小さなこの部屋にいらっしゃるのは、チャーミングなグラサンを煌めかせた我が青道高校を牛耳るヤのつくところの裏ボス…
というのは嘘で、監督の片岡さん。
とか冗談言ってるけど、正直少し怖い。
別に、怒られるのが怖いとかじゃないのだが。
起用に応えられなかったから。
信用してくれた監督の期待に、応えられなかったから。
それなのに、試合後に心配までかけた。
とても、顔向けできない。
(んなこと言ってられないよな。)
深呼吸をしてドアに中指を少し当てて、また息を吐いた。
この後に及んで、まだ躊躇っているのか。
深呼吸、この数秒の間に3回の深呼吸である。
漸くプレハブ小屋のドアに手を当てた時、背後に気配を…というか、声をかけられた。
「何をしている。」
あーっと。
まさかの監督登場。
というか、なんで今日に限ってくるのちょっと遅いんだよ。
「おはようございます、監督。昨日まで練習をサボってすいませんでした。また練習に参加させて頂きたいと思うのですが」
「もう大丈夫なのか?なら、早く準備をしろ。新チームはもう動き出しているからな。」
あれ、意外とあっさりなんだな。
「…いいんですか。」
「お前の気持ちも、わからないではないからな。」
監督は、元々ピッチャーだった。
それも、同じ青道高校で一年生の時からマウンドを託され、敗戦も経験した。
きっとこの人も、同じような思いをしてきたんだろうな
だから、お咎めもなかったんだろう。
「ありがとうございます、これからもご指導お願いいたします。」
頭を下げ、そそくさとグラウンドへ向かう。
とりあえずは、挨拶回りはOKかな。
緊張の糸が解けたように大きな溜め息をつく。
そして数秒、俺はあることを思い出す。
(そういえば、大事な人に言ってなかったわ。)
思い立ち、俺は急いでベンチへ向かう。
そこでバットを握り締めているのは。
「待っていたぞ、夏輝。これからもよろしく頼むぞ。」
「お待たせしました、哲さん。いえ、キャプテン。」
「間違ってはいないぞ、哲で。」
「そういうことじゃないです。」
天然である。
が、間違いなく。
今一番チームで頼りになる人だ。
「改めてよろしくお願いします、キャプテン。俺もエースとして、頑張ります。」
「ああ。よろしく。丹波とのエース争い、な」
笑顔で哲さんがバットを肩に担ぎ、彼はそのまま素振りへと向かった。
そういや、丹波さんのとこ行ってねえや。