静寂が続いていた試合が遂に動き出した、6回。
歓喜に包まれるベンチの中で、市大三高の監督である田原は額に手を当てて呟いた。
「オーマイガー。クレイジーすぎるぞ天久ボーイ。なんて事をしてくれる。」
エースである天久のヘッドスライディング。
確かにチームを鼓舞するには、十分すぎる。
しかし、チームを代表するエースとしてはあまりに危険で、無謀すぎるプレーであった。
(だが、その気概はボーイたちに勇気を与えてくれる。あんな無茶だけはして欲しくなかったがな。)
とはいえ、勝ち越し。
欲しかった追加点に、田原も心の中でガッツポーズをしていたことに変わりはなかった。
「ーーっ。」
腰に手を当て、思わず顔を歪める御幸。
やりたくなかった、失点。
この大きな1点、勝ち越しの1点は重すぎる。
ストレートで攻めても良かったか。
それとも、チェンジアップで完全にタイミングを外しても良かったか。
何れにせよ、択を間違えた。
パワーがある打者であり、引っ張り方向に警戒をしていた金丸を攻めることもできない。
切り替えてマウンドへ視線を移すと、違和感。
両膝に手を付く沢村。
その姿を見て、御幸は1年前の同じ時期のことがフラッシュバックした。
(限界か…!)
タイムを取り、慌ててマウンドへと駆け寄る。
肩を上下させ、息を荒らげる沢村。
そんな彼の肩を担ぐようにして、御幸は身体を預けるように促した。
「大丈夫か。」
「すみません、抑え、きれませんでした。」
流れ出る汗が、地面に零れる。
夏とはいえ、あまりに多い。
それほどまでの疲労と、そして重圧だったのだろう。
がっくりと項垂れた沢村の肩を、御幸はそっと抱き寄せた。
「いや、よく投げた。悪かったな、お前を最後の最後に生かしきれなかった。」
「応えきれなくて、すいませんでした。」
帽子の鍔を摘み、少し目元を隠すように深く被る。
マウンドに置かれた白球を、沢村は両手で覆うように最後は握り締めた。
忙しなく動くベンチ。
そしてブルペンから、もう1人の投手が駆けてくる。
沢村に対して、左手に嵌められたグローブを出す。
対して沢村とまた、握り締められたボールを相手のグローブへと収めた。
「込めといた。」
「うん。あとは、任せて。」
ただ、一言。
そんな会話を交わし、沢村はマウンドを降りる。
悔しい。
自分で作ったピンチを、この難しい場面を任せてしまうことを。
何より、任せてくれた監督やコーチ、大野を裏切るような結果になってしまったと。
歯を食いしばり、俯き加減でマウンドから離れようとする。
しかし刹那、降谷は声を上げた。
「繋ぐから、大野先輩に。栄純が、そうしようとしたように。」
耳に入った言葉に、沢村は思わず振り返る。
降谷は、敢えて沢村の方を見ない。
真っ直ぐと、盛り上がる市大三高のベンチを見据えている。
その背中は、大きい。
単純な上背もそうだが、やはり大きな背中に沢村はどこか頼もしさを感じる。
一瞬間を空け、沢村は口を開いて降谷に背を向けた。
「あとは、頼む。」
背番号18の降谷が、マウンドへ。
前の試合では打ち込まれた彼が、満を持してリベンジの舞台へと舞い降りた。
2アウトながら、ランナー一二塁。
勝ち越しを許してなお、ランナーは2人。
依然ピンチには、変わりない。
打席には、9番の宮本が入っていた。
追加点は、渡せない。
だからこそ、バッテリーは自身の一番の持ち味である力押しで攻めた。
試合序盤から準備していた降谷はエンジン全開。
初球から150km/hオーバーを叩き出し、全球ストレート勝負。
最後は外。
153km/hのストレートを振らせて空振り三振。
見事に火消しをして、以降の攻撃へと繋いだ。
しかし、6回の裏。
遂に勝ち越しに成功した市大三高のエースが、本領発揮。
自分のバットにより生まれたリードを守るように、8番の麻生から三者凡退で斬り捨てる。
得点が動いた裏の攻撃。
比較的得点が動きやすいとされているこのシチュエーションを、完璧に抑え込まれた。
何となく、嫌な空気が流れる青道ベンチに旋風を吹かせたのは、降谷の一言であった。
「大丈夫です。僕は…僕達は、信じてます。」
逆転を。
そこまで言わなかったが、チームメイトが理解するのに時間はかからなかった。
ベンチからゆっくりと歩き出し、マウンドへ。
荒れたマウンドを軽く足で慣らしながら、空を見上げた。
青い空。
疎らに散らばる白い雲は眩しすぎる太陽を隠すことは出来ない。
マウンドに停滞する熱気を受け、降谷は打席を見下ろした。
(まだ、終われない。終わらせない。)
御幸を真っ直ぐに見据えて、降谷はロージンバックを放るようにして落とす。
打席には、一番の千丸。
ここまでの打撃成績は、1安打。
いい打者だ。
ミート力もあるし、何より反射神経がいい。
(春のことは忘れたか?なら、思い出させてやる。)
春の都大会では、5失点と滅多打ち。
更に前の試合でも登板した為、少なからず疲れも残っているはず。
そう思い、千丸はバットを掲げた。
(狙う。)
甘く入れば、そのストレートを狙う。
ワインドアップから、全身を縦回転。
リズミカルなフォームから、純粋な縦振りで白球は放たれた。
(狙…)
最速156km/h。
それにタイミングを合わせた千丸と相反して、球は来ない。
ふわりと一度浮かんでから独特の軌道を描くスローカーブ。
生き物のように唸りを上げるストレートとは対象的なボールに、千丸は空振った。
110km/hのスローカーブ。
ここまで沢村も投げなかった緩いボールに、タイミングを外される。
(器用だな、思ってたよりも。)
続けて、今度はストレート。
低めにしっかりと決められた豪速球は、またも御幸のミットを鳴らした。
球速差は、約40km/h。
何よりここまで投げていた沢村とは左右の違いもあれば、球の質も大きく異なる。
手元でピッと伸びるような快速球の沢村に対して、唸りをあげる豪速球の降谷。
最後も152km/hのストレートを高めに投げきり、千丸を空振り三振に斬り捨てる。
3日前の登板から少し休んで調整。
そのお陰か、余計な力が抜けている。
それでいて、リリーフ登板ということで念入りに準備していたからこそ、しっかりと試合に入り込めている。
(今日は、”当たり”だな。)
内心そう呟きながら、御幸はそっと胸を撫で下ろす。
ここまでの沢村の好投で力が入る可能性も大いにあったし、そこからの四死球コンボも無いとは言えない。
最近は安定感があったとはいえ、元来調子極端。
更に前回対戦時は、5失点と打ち込まれている。
不安要素があっただけに、この千丸をカーブとストレートを使って抑えられたのはかなり大きかった。
続けて打席に入るのは、2番の森。
彼に対してもストレートをゾーン内に集める。
2球目の真ん中低め。
このボールを弾き返されるも、ライトの白州は定位置。
彼の正面に打球は飛び、早くも2アウトまで漕ぎ着けた。
(ここまでは上手く行ってる。でも、気をつけなきゃいけないのはここから。)
ここからクリーンナップ。
3番の宮川はまだ当たりこそないが、今大会既に2本の本塁打を放っている。
何より、出塁率が高い。
ヒットを生み出すシャープなスイングもそうだが、積極的にスイングをしながら選球眼が中々いい。
チーム内でも、星田に次いで良い打者であることに間違いは無いだろう。
(出来れば3人で締めたい。出し惜しみは、ナシだ。)
(わかってます。全力でいかなきゃ、抑えられる相手じゃない。)
初球、高めのストレート。
今日最速の154km/hを計測したボールだが、これは僅かに高めに外れておりボールとなる。
2球目は、少し低く。
ゾーン内に来た球に宮川も反応し、スイング。
ストライクゾーンに投げられたボールは、途中で失速してストンと落ちて空振り。
ここで大きな変化球。
沢村とは全く逆の、本格派。
速いストレートに、大きい変化球。
球数は嵩んでしまうが、その分空振りを奪いやすくバットにすら当てない。
3球目もフォーク。
初球の速い球に目が行ってしまう為か、ここも空振り。
やはりストレートを軸にしている、それも強いストレートを投げる投手なだけに真っ直ぐに合わせないと着いて行けない。
しかしストレートに合わせすぎると、フォークやスローカーブに対応し切れない。
調子が悪いと、自爆。
しかし調子がいいと、手が付けられない。
そんな投手が、リリーフで出てくる。
(確かにすげえ投手だよ。でもな…)
追い込まれて、最後のボール。
フォーク2球でタイミングを外された後のストレート。
低め、今日最速の154km/hは、弾き返された。
(うちのエースにゃ、まだ届いてねえんだよ!)
少し詰まった当たりは、ジャンプした倉持を越えてセンター前のヒットとなる。
2アウトから出塁したランナー。
ここで打席には、星田が入る。
第一打席の本塁打以降、まだ当たりはない。
しかし星田は、それでいい。
少ない一打を、大事なところで打つ。
それを、どデカい一発で。
試合を決定付ける一撃を決める、4番。
遂に勝ち越しを決めたこの回。
あとは、トドメを刺すだけ。
大事にバットを抱えながら、星田は打席に入った。
(光聖。)
ベンチ内、泥だらけのエースをチラりと見て、星田は息を吐く。
一度逃げてからまた戻ってきた時は、少なくともいい印象とは言えなかった。
しかしその後の彼の努力も近くで見てきたし、一緒に強くなってきた。
悔しい場面も、同じ思いをしてきた。
そんな中で、エースとしての自覚が芽生えていく姿。
背負っている背番号が徐々に馴染んでいくのも、なんとなく感じていた。
そして、今日。
貪欲に、更に勝利の為にチームを鼓舞する姿に、その大きな背中に描かれた「1」がぴったり馴染んだことを実感した。
投手の柱である天久。
そして、打者の柱である星田。
天才と秀才。
2人の主軸が、勝ちだけを求めた。
(下手なプライドは、要らん…!)
短く持ったバット。
上手く合わせた当たりは、一二塁間を抜けてライト前のヒットとなった。
2アウトながら、ランナーは一二塁。
追加点を奪えば、今日の天久の状態であれば勝ちが約束されていると言っても過言では無い。
この絶好のチャンスの場面。
示し合わせたように、この大事な局面で打席には主将の佐々木が入った。
(やっぱ、降谷のストレートに振り負けてない。分かっていたことだけど、合わせに来られると厄介だな。)
ここに来て、拘って当てに来ている。
長打よりも単打、特に三振でリズムを作っていく降谷をペースに乗せないという工夫。
それが、いい方向に作用してくれている。
勝ちに、貪欲に。
とにかく泥臭く、形はどうあれ勝利をもぎ取る。
まずは、勝つこと。
それが、市大三高としてのプライド。
何より。
言葉にこそあまりして来なかったが、やはり天久を甲子園に連れていきたい。
彼ほどの逸材を、こんな所で終わらせる訳には行かない。
(お前の無茶見てたら、嫌でもわかるよ。俺たちだって、同じだからな。)
甲子園へ行きたい。
共に戦ってきた、仲間と一緒に。
エースである天才がどこまで通用するか見てみたい。
そして、多くの苦労をしてきた監督である田原を、甲子園に連れていきたい。
(絶対連れてってやるから。行こう、甲子園。)
強いチームの主将としての、誇り。
そして、チームの想いを背負い。
佐々木は、じっと降谷を見つめた。
初球、フォーク。
低めに外れているこのボールを見送られ、まずは1ボール。
更に2球目のフォークも、見送られてボール先行のカウント。
(手を出さないか。)
しかしこれが見送られるのであれば。
御幸は、降谷にストレートを要求。
変化球に視線を向けさせて、力強いストレートを詰まらせる。
ストライクゾーンに来た、ストレート。
少し甘いコースだったが低めの球をミートしきれず、ファールとなった。
スピードは、153km/h。
しっかりと腕は振れているし、コントロールも出来ている。
脱力している為か球もキレているため、簡単には打たれない。
佐々木も実際に降谷のストレートに振り遅れていたものの。
彼は、落ち着いていた。
(大丈夫、大丈夫。見えてる。)
一度息を吐き、呼吸を整える。
確かにストレートは、速い。
だけど、それに対応できるように練習してきた。
ストレートを狙う。
フォークは我慢。
カーブは、無視。
まだカウントは、打者有利。
一度、監督である田原に視線を向けた。
(判断は任せる。自身のスイングで決めなさい、キャプテン。)
人差し指で、こちらを指す。
それは、こちらに委ねるという合図。
しかしそれでいて、決めてこいというサイン。
ヘルメットの鍔に手を当てて、佐々木は深呼吸をした。
(主砲とエースがプライド捨ててでも、勝ちたいと言っているんだ。)
クイックモーションから、オーバースローで投げ込まれる。
降谷のクイックはさほど速くはないが、決して遅くは無い。
何より脱力できている分、スピードも維持しながらコントロールも良くなってくれる。
放たれたボール。
速い、が。
ストレートほどの威力はない。
低めのボールは、ストライクゾーン内。
バットを振り始めるが、脳裏に過ぎる球種。
一球前のストレートよりも、体感僅かに遅い。
バットは止められない。
しかし、粘ることは出来る。
これまで練習で培ってきた対応力と、鍛えてきた身体。
主将として。
先頭に立って、努力してきた。
その結晶を、ここで。
(お前たちのプライドも、持っていく…!)
バット軌道を強引に変え、合わせる。
彼の中で感じたスピード感は案の定、手元で失速するようにして落ちる。
掬い上げるようにして当てた打球は、センター方向へ。
強い当たりは定位置にいた大野の頭を越えた。
宮川が三塁を回り、ホームへ。
さらにスタートをしていた星田も、センターを越えたことを確認して三塁を回る。
ホームへ。
4点目を奪おうとホームへ到達しかけた、その刹那。
低い弾道で星田を射抜いたのは、怒りにも似た鋭い返球であった。
(それ以上、好き勝手はさせん。)
あまり見せてこなかった、ストライク送球。
ここ一番で、失点を抑える抑止力として。
エースは、刃を抜いた。
「アウト!」
大野のストライク送球により、ホームはアウト。
マウンドの降谷を助けるエースの守備で、3つ目のアウトを奪い取った。
「ナイス大野!」
「っしゃあ、ここから行くぞ!」
マウンド外では珍しくガッツポーズを浮かべて吼える大野。
残りは、3回。
相手にリードされているとはいえ、2点差。
相手が天久と考えると大きな2点だが、そんなこと言っていられない。
まだ、諦めるには早すぎる。
何より、そんなことは許されない。
負かしてきた相手がいる。
託されてきた、夢がある。
終われない。
しかし、下位打線から始まるこの攻撃。
遂に十分の援護を手に入れた天久は、トドメを刺さんと。
その豪腕を、遺憾無く振るった。
「ここまでしてもらえば負けやしねー。」
希望も、期待も。
全てを、消し去る。
最後の打者である代打の結城を空振り三振で切ってとり、勝利を確信した天久は右手を握り締めて突き上げた。
「もう負けねー。てめーが出てこなかったことを後悔するんだな、大野夏輝。」
圧巻の奪三振ショー。
青道を絶望へとたたき落とす、三者連続三振で捩じ伏せた。
徐々に焦りが見られる青道ベンチ。
しかし、虎視眈々と見つめるエースは、マウンドへ向かう降谷の肩に手を置いた。