(始まる、ここから。)
じわりと額に溜まった汗を、アンダーシャツで覆われた前腕で拭う。
何もしていなくても、汗が出る。
今日は特に、暑い。
バックを守る選手たちがそれぞれの定位置へと駆けていく中、大野はゆっくりとマウンドへと向かった。
1年前と同じマウンド。
その小さな丘を眼前にし、一瞬立ち止まる。
ここに上がれば、もう逃げ場はない。
生半可な覚悟では。
容易く、呑み込まれてしまう。
2度、負けた。
同じ場所で、同じ相手に。
幾度となく繰り返してきた深呼吸をもう一度行い、覚悟を決める。
そして一歩一歩。
踏み締めるように、マウンドへと上がった。
(あっつー。)
右手で胸元を掴み、パタパタと風を送るような仕草。
気温は既に、35℃。
今年何度目かの、猛暑日を計測している。
相棒である御幸から白球を受け取り、両手の掌底で側頭部を軽く抑える。
そして、ボールを投げ始めた。
3球。
最後の確認を行い、準備は万端。
御幸からの返球をグローブに収め、大野は打席に背を向ける。
(行けるだろ。今更焦るな。)
高鳴る鼓動を抑え込むように、深呼吸をする。
早まる心音。
血液が沸騰するような感覚が、身体に襲い掛かる。
重圧、責任、高揚。
多くの感情が大野の血を滾らせ、体温を上げる。
(大丈夫。行ける。)
右手を胸元に当て、目を瞑る。
いつもと同じように、深呼吸を繰り返す。
勝つ為に。
心も感覚も研ぎ澄ます。
全ての準備が整った時。
大野はゆっくりと、煌めく青い瞳を開いた。
(準備は?)
(待たせたな。準備は出来ている。)
マウンド上。
真夏の熱風が吹くと共に、周囲には異様な空気が漂った。
「ここで会うのは一年ぶりだな。」
打席から掛けられた声に、御幸は視線を移す。
まずは、先頭打者のカルロス。
チーム内で最も塁に出したくない選手であり、初回先頭打者のカルロスはこのチームの中でも特に注意しなければならない打者でもある。
「去年の戦績忘れたのか。」
「言っておくが、去年の俺たちとは違うぜ?あんまり見下してると、いつかは足元掬われちまうぞ?」
口元は笑っているが、目は笑っていない。
そんなカルロスの姿を横目で見ながらも、御幸は何も言わなかった。
「悪いが俺たちゃ、お前らが想像している以上に強くなってるからな。今年も俺らが打って、甲子園にいく。」
カルロスの言葉に返すことなく、御幸はマスクに手をかけた。
場内鳴り響く、歓声とブラスバンドの合奏。
この大会最高潮の熱気が漂う中、球審は試合開始の合図を送った。
「…プレイ!」
コールと共に、カルロスに襲い掛かるプレッシャー。
それがマウンドから放たれているものだと確信するのに、時間は掛からなかった。
(このビリビリと肌を劈くやべえ空気…来るか、いきなり全力…!)
口角こそ僅かに上がっているものの、じわりと汗が滲むのを感じる。
それが暑さによるものだけではないというのは、カルロスも自覚していた。
マウンド上に目を向ける。
凛とした立ち姿は、昨年と変わらない。
少しばかり、身体は大きくなったか。
特に背中周りや太腿。
大まかなシルエット自体が、若干大きくなっているように見える。
すっと左脚を引いたのは、マウンドの大野。
右脚を軸にしながら、身体を3塁側へと向ける。
過剰な程に全身を捻り、打者に背を向けた辺りで静止。
(…来る。)
弓のように込められた力を、全身を縦回転させて解放する。
外角低め、ストレート。
彼を象徴するボールであり、打者から見て最も長打を放ちにくいと言われているコース。
131km/hの直球が、ピンポイントに決まった。
「ットライーク!」
主審のコールと共に、黄色いランプが一つ灯る。
やはり、遠い。
外角低めという、打者目線から見れば最も遠いコース。
それを初球から、決めてきた。
(だが、手に負えないスピードじゃねえ。そこは、前回の方がやばく見えた。)
そんなことを思いながら、カルロスはバットを構えた。
2球目、同様のコース。
今度はカルロスも、振りに来た。
130km/hのフォーシーム。
コンタクトするも、打球は三塁線切れてファールとなる。
(合わせてきたか。)
(想定内だ。”これくらい”なら、幾分かは合わせてくるだろ。そこまで舐めちゃいない。)
カウント0-2。
バッテリーが追い込んだ形で勝負する、3球目。
一度、縦に割れるカーブを放った。
弧を描き、加速するようにして落ちる。
落差こそさほど大きくはないが、ストレートとのギャップのあるこのボールもまた、高い奪三振率を誇る。
しかしカルロスは、これを見送った。
(OK、そのカーブなら見切れる。)
少しばかり反応を見せたが、やはりカルロスも好打者。
縦に割れるカーブを見送り、カウントは1-2となる。
しかし、依然バッテリーが有利のカウントである。
(カーブは見るか。)
(まあ、センバツでも結構見逃されたからな。あっちでも、序盤は意外と対応されてる。)
ストレートに目線が行く後半はかなり効いてくるのだが、タイプによっては序盤カーブを見送られることはある程度仕方がない。
そもそも、このボールも布石。
最後の決め球を生かすための、プロセスの一つである。
(まあ、いい。肘の負担を考えるとツーシームカットはまだ温存したい。少し、ギア入れられるか?)
(長期戦になる以上、仕方ない。ここは”入れ時”だ。)
御幸のサインにこくりと頷くと、大野は投球姿勢に入った。
(カーブの後のストレート。さっきの感じなら、対応し切れる。)
息を吐くカルロス。
構える大野。
緊迫したグラウンドで、両者の視線は交錯した。
(来いよ、ストレート。)
勝負の4球目。
身構えたカルロスの視界に、閃光が走った。
外角低め。
先の2球とは比べ物にならない威力のストレート。
突き抜けるような真っ直ぐは、カルロスの反応速度を超えてミットに収まった。
「言っておくが、お前たちの想像以上に夏輝は化けてるからな。後ろの奴らにも覚悟しとけって伝えとけよ。」
ポトリと落ちた青い帽子。
それを拾い上げ、土の着いた部分を軽く右手で払う。
そんなマウンドの先では、先程のカルロスのセリフを返すように、御幸はボソリと煽る。
あまり苛立ちを見せないカルロスですら、御幸からの言葉に思わず表情を歪めた。
(三味線張ってたってことか、前の2球は。)
恐らくは、最後の1球すらも全力ではないだろう。
球速表示は、137km/h。
彼の自己最速は、薬師との試合で轟に投じた、142km/h。
はっきり言って、視認することすら難しかった。
バットを左手に携え、カルロスは次の打者である白河に耳打ちした。
「去年と違うのは確かだな。実力もそうだが、完全に見下ろしてきてんぜ。」
口角こそ無理に上げてはいるが、明らかに苛立ちを見せているカルロス。
無言で彼の言葉に頷くと、白河は打席へと向かった。
(見下ろしてる、か。いつからそんなに偉くなったんだ。)
打席で歯を食いしばる白河を、文字通り見下ろす大野。
雄々しく、凛として。
右手で白球を操るエースは、マウンドという絶対領域に佇んだ。
(ストレートが速いのは、分かっている。そのボールを軸にしているのも。)
ならば、狙わない手はない。
特に、この初回。
あのバッテリーの性格上、試合を掌握する為に捩じ伏せに来る。
となれば、あのストレートを確実に軸にしてくるだろう。
モーションに入る大野。
その大きなトルネードを見ながら、白河もバットを引く。
狙うは、その快速球。
しかし白河の視界に映ったのは、対照的に緩く鈍い遅球であった。
(…っ!チェンジアップ。)
外角低め。
成宮の伝家の宝刀であり、高い奪三振能力を誇る変化球。
彼のそれと比べれば、変化もしなければ凄まじいブレーキもある訳では無い。
遅いストレートと、言うべきか。
所謂、チェンジオブペースというもの。
ストレート狙いに対してタイミングを外すには十分すぎるのだ。
思い切り空振った初球。
しかし、迷う訳には行かない。
特に大野の真骨頂は、ストレートを含めた3つの速いボール。
遅い球も続けることはなく、どちらかと言うと快速球を軸にしていく。
だからこそ遅い球ではなく、速いボールに狙いを定めなければ本末転倒なのだ。
2球目。
白河の見立てでは、チェンジアップでタイミングを崩してからの、ストレート。
そんな彼の思考を読んでか、対して御幸が要求したのは。
再び、チェンジアップであった。
(そう何度も。)
しかし、白河も簡単にやられない。
都内でも有数の巧打者である彼は、そのチェンジアップをミートした。
打球は、三塁線切れてファール。
追い込んだとはいえ、いい打球を返された。
(合わせてきたか。)
(問題ない。それに白河はいい打者だ、これくらいは想定内だろ。)
表情を変えず、真っ直ぐ御幸を見つめる大野。
共に意思疎通を済ませると、御幸はすっと右手でサインを出した。
(捩じ伏せるぞ。コースは間違えるなよ。お前の個性、見せつけてやれ。)
(今更。俺は俺らしく、だろ。)
腰を捻り、投げ込む。
選択したのは、やはりストレート。
先程の外のチェンジアップに対して。
今度は、内角高め。
打者から見て最も遠いコースへの遅いボール。
そこから、今度は最も近いコースへの快速球。
一歩間違えれば、危険なコース。
しかしそれを間違える、投手ではない。
この試合2球目。
唸りをあげるストレートが、白河の胸元を抉った。
今大会出塁率6割の白河を、たった3球。
138km/hのストレートで、空振り三振で斬って取った。
(くそ。)
分かっていても、打てない。
しかしそれ以上に、明らかにこちらを見下ろした配球に完全に、白河は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
無論、バッテリーからすればそんなことを思っていない。
寧ろ白河は、この稲実の中でも警戒していた1人。
だからこそ、その白河を圧倒することで力を見せつける。
相手打線に重圧と焦りを植え付ける為に、だ。
「珍しいですね、白河さんが三球三振なんて。」
「…実際見てみればわかる。あいつのストレートは、全国で見てきたどんなボールよりも速い。」
「そんなにですか。」
「あまり、選択肢を広げすぎるなよ。何もできなくなる。」
すれ違いざま、耳打ちをされる。
赤いランプが、2つ灯る。
順当に、打者を2人斬り捨てた証。
ツーアウトから打席に入るのは、大野と初対面の早乙女である。
(白河さんがあそこまで言うとは。でも、球速は140にも満たない。実際どうなんだ、どんな軌道なんだ?)
今大会の打率は、5割越え。
チームでも高い打率を誇っている、打者の1人。
バットコントロールには、自信がある。
速球に負けない対応力も、ある。
(ツーシームとカットもあるんだよな。)
マウンドの大野を見据えながら、バットを掲げる。
帽子の鍔に隠れた瞳。
深く被られた帽子の影で若干隠れた表情が、何となく不気味に感じる。
重圧というよりは、熱気。
まるで大きくない体格のはずなのに感じる大きさは、彼のエースとしての力を誇示しているものなのだろう。
まずは、様子を。
そう思った矢先、ストライクとボールゾーンの丁度境目の部分に、その快速球は決まった。
(勝手に警戒してくれれば、楽だな。)
1つ目のストライクを取り、受け取った白球を捏ねるようにして触れる。
初回にツーシームとカットを使うつもりは、更々ない。
長期戦になる以上、抑えるべきところは抑えたいからだ。
肘は完治したとはいえ、不安要素がないとは言えない。
特に一般的なそれに比べると捻りの要素が強い2つのボールは、大野の肘に負担をかける。
それに、大野の真骨頂は高い制球力を生かした圧倒的な投球。
だけではなく、3種の速いボールを巧みに操って打者を幻惑する、打者に誤認させる投球である。
2球目。
今度は僅かに内に入れたボール。
コントロールを誤った訳では無い。
普段ツーシームを投げ込む支点に投げることで、的を絞らせないため。
初見では捉えられないと理解した上での、餌まきである。
(くそ、速い。)
案の定、振り遅れてファール。
球速にして、132km/h。
しかしそのキレの良さとホップするような軌道に、中々初見では捉えきれない。
(最後はなんだ?ツーシームか、カットか、それとも抜いてくるか。)
早乙女の頭に浮かぶ、選択肢。
しかしその迷いが。
その一瞬の思考が、彼の反応を鈍らせる。
「うぉ!」
最後は胸元を抉る直球、134km/h。
高めに投げ込まれたことによってホップした直球。
完全に振り遅れ、更にはボールの下を完全に振ってしまい空振り三振となった。
灯ったランプが、消える。
それは、相手の攻撃を終えた証。
野手が掴んでのアウトは、なし。
つまりは、3人の打者全てを三振で斬って落として見せた。
悠然と、マウンドを歩いて降りる。
帽子の鍔に右手を当てながら、大野は天を仰ぐ。
「いい感じだな。」
「あぁ、感覚も悪くない。調整させてもらったからには、それだけの働きはする。」
御幸の言葉に、返す。
実際身体の調子はいい。
これも、準決勝を温存してくれたチームメイトのおかげだ。
特に、沢村と降谷には頭が上がらない。
今こうして成宮との投げ合いに集中できるのは、間違いなく彼らの力投のおかげだからだ。
「いい立ち上がりですね。」
「ナイスピッチです夏輝さん!」
そんな頭の上がらない2人の手厚いドリンクサービスに苦笑を浮かべながら、大野は紙コップを受け取った。
「悪いな。」
「いえいえ、グイッとやっちゃって下さい!」
渡された紙コップに口をつけ、補給する。
甘い。
だがそれ以上に、染みる。
この炎天下。
水分補給を怠れば、確実にコンディションは崩れる。
適度にエネルギーを補給して、その背もたれに体重を預けた。
ベンチから、こちらの4番を三振に切ってとる成宮を見つめる。
そして直ぐに、その天を見上げる。
空は青空。
雲ひとつないその晴天は、2人の好投に呼応するように輝いた。