いつだっただろうか。
幼少期から頭が良く、行儀がいい。
かと言って決して根暗な訳ではなく、むしろ普段から明るく元気。
人のことをよく見ており、幼稚園児とは思えないほどメリハリのついた少年。
いい子だと持て囃され、賢い子だとよく言われていた。
とある休日のことだった。
きっかけは、珍しいものでは無い。
父が野球好きで、夕飯時にはよくプロ野球の中継が流れていたし、時期になれば甲子園などの中継がずっと流れていた。
まだ幼稚園児だった大野は、何がすごくて何が良いのかまだ分かっていなかったのだが、ある時だった。
とある年の甲子園。
自身が住んでいる西東京地区を代表して出場していた、青いユニフォームのチーム。
父はよく、この強い青道が見たかったんだよと言っていたことから、そのチームが青道という名前だと言うのは記憶していた。
齢16歳とは思えない厳つい顔…幼心には、はっきり言って怖いと思ってしまったマウンドの男。
失点を許さず、三振を取れば吼え、チームを鼓舞する。
2年生ながらも強豪を引っ張るそのエースの投げっぷりに、大野はすぐに虜になったのだ。
自分よりも年上の相手に、真っ向から攻めていく様。
会場の熱気を全て味方につけて立ち向かう姿は、正に無双。
まだ技術的なことも、そもそも野球のルールすらあまりよく分かっていない。
しかしそんな少年の目から見たマウンドの男…炎のエース、片岡鉄心はとてつもなくカッコよく見えた。
まだ野球という競技すら認識をあまりしていなかった彼だが、背に書かれた「1」は、幼き大野の記憶に確かに刻み込まれていた。
小学校へと上がった彼は、幼き頃に見たエースの姿に憧れ、すぐに同地区のリトルリーグのチームへと所属する。
勿論、希望はピッチャー。
3年生までは基礎体力や基本的な練習が多く、投手以外にも色々なポジションを守りながら経験を積んでいた。
彼が4年生に上がり、公式戦の出場機会も出てきた頃。
「もっかい言ってみろよ御幸ィ!」
彼が守備練習を終えてブルペンに移動した直後のこと。
ブルペン内で響く、上級生の怒鳴り声に大野も思わず振り返る。
大柄の6年生、名前を言うほどではないが、彼が御幸と呼ばれた少年の胸元を掴んでいる最中であった。
「何度でも言ってやるよ、ストライクゾーンに投げてくれなきゃリードのしようがないんだから、もう少し要求通りに投げてくれ。俺たちキャッチャーは何も、あんたたちの便利なキャッチマシンじゃないんだよ。」
「だから、何様だって言ってんだよ!4年生の癖に。」
その言葉にカチンと来た御幸は、返す刀ですぐさま怒鳴り返した。
チーム内にキャッチャーが少なかった為、御幸は4年生ながら高学年の投手のボールを取るためにブルペンに入ることが多い。
捕手として、投手が成長するためにいつも最善を尽くしてきた。
その為には、自身が悪者になろうが指摘できることは指摘してきた。
それを学年という括りで一蹴するというのなら、御幸とてどうしようもなかった。
「グラウンドで4年も6年もないだろ!だったらもっと敬われるようにしやがれ!」
御幸が言い切ると、掴んでいた張本人が彼を投げつけるように胸ぐらの手を離す。
まだ小柄で軽い御幸は軽く飛ばされてしまい、ブルペンの壁に激突して座り込んだ。
「もういい!お前には投げねえからな!」
そう言いながら、ブルペンを後にする6年生を尻目に、御幸はふぅっと息を吐く。
そこから先は、中々であった。
この一件から御幸は6年生だけでなく5年生投手からもバッテリーを断られるようになり、ブルペン内での居場所が無くなってしまったのだ。
子供というのは、時に残酷だ。
強い仲間意識は、共通の敵というものにひどく強く結ばれ、迫害してしまう。
共通の敵というのが、反旗を翻した御幸だった。
そんな時。
チーム内で投手が多いだけに中々キャッチに付き合ってくれる相手がいない低い学年のピッチャー。
そう、大野が御幸と初めてバッテリーを組んだのであった。
「いいのかよ。」
「何が。」
「お前みたいな奴が、俺と組んで。夏輝だって分かってるだろ、俺が上級生になんて思われてるか。」
軽くキャッチボールをしながら、御幸が自嘲気味にそう言う。
すると大野は、表情一つ変えないままその問に返した。
「何もしないくらいなら、こっちの方が練習になるだろ。俺はキャッチャーに受けてもらえて、お前はピッチャーの球を受けられる。それに俺は、一也みたいに正しいことを正しいって言い切れる奴は、すごいと思う。」
少し驚いた表情を浮かべた直後、軽く微笑む御幸。
何球か続けていくうちに、徐々に力を入れていく大野もテンポが良くなっていくのを感じていた。
「俺は、勝ちたい。だから、チームを代表して投げる人は勝ちに拘ってもらいたい。」
あの、俺が憧れたエースのように。
そう付け加えて言った大野の言葉に、御幸は少し驚いた。
この男は、自分が思っている以上に勝ちに貪欲で純粋だ。
確かに真面目で練習熱心だとは思っていたが。
自分と考え方は若干違えど、目指している先は同じなのだ。
テンポが上がり、増していく球速。
それでも尚、自身の構えているミットが全く動かないことに、期待が大きくなっていく。
「お前、コントロール良いよな。」
「コントロール”だけは”な。器用なのが取り柄だし。球速は出ないから先輩たちに割ってレギュラーにはなれないけど。」
「何言ってんだよ。小学生でこんだけコントロールがつくの、中々いねーよ。」
話してて思っていたが、やはり自己肯定感が低い。
これに関しては自身を俯瞰して見すぎているが故に、自分の能力をどうしても低く見積ってしまう大野の性格的なものも関係している。
座ってもなお、ひたすら構えたコースに質が高いボールが収まる。
小学生に限らず、コントロールを良くしようと投げるとどうしても置きに行ってしまう投手は少なからずいる。
しかし大野のそれは、どのコースに構えても同様に質の高いボールが収まることから、彼自身ある程度の力を込めてもなお高い制球力を維持できるというのがわかる。
御幸の期待は、確信に変わった。
豪速球がなんだ。
甘く入ってしまえば痛打されるし、そもそもストライクに入らなければ勝負にすらならない。
高い制球力。
球速は、身体が大きくなれば次第に速くなってくる。
ましてや大野の性格であれば、きっと大きく飛躍する。
そしてこの球速が出ない投手を輝かせることができるのは、優れた捕手だということも。
気がつけば、大野に駆け寄っていた。
「なあ、夏輝。お前、一番になりたくねーか。」
そう言われた大野は、少し目を見開く。
はっきり言って今は球速も出なければ、自分がその立場にあるのかどうかすら疑問だった。
だが、秘めたる思いはある。
あの憧れたエースのように凛として。
そして、チームを勝たせる勝利の星に。
「なれるのか、俺が。」
「お前1人じゃ、無理だ。だけど俺とお前なら、なれる。脳筋ゴリラ野郎からレギュラー奪って、俺たちがチームを勝たせるんだ。」
そう言って笑う御幸。
大野はうーんと少し考える素振りをみせると、試すようにして御幸に問いかけた。
「俺は、日本一の投手になりたい。俺が憧れたエースみたいに、どんな相手にでも立ち向かう、カッコイイピッチャーになる。そこまで付き合ってくれるのか。」
大野がそう聞くと、御幸はカッカと笑う。
その後に彼が返した答えは、大野が満足するのには十分すぎる決意表明だった。
「お前が日本一の投手になった時、俺は日本一の捕手でありバッターになってる。日本一のバッテリーになるまで一緒に挑戦し続けよう。一緒に頂点見るまで、止まらねえからな。」
言い切って、御幸が右手を差し出す。
この返答に大野は、迷わず右手を取った。
「まだ止まれない。俺は、俺たちはまだ走り続けなきゃ行けないんだよ。」
そうマウンドで呟き、大野は帽子の鍔に手を当てる。
青く輝く空を見上げながらふっと息を吐き切ると、過去に誓いを立てた相棒へと視線を戻す。
(そうだろ、一也。)
打席に入ったのは、6番の矢部。
カルロスや白河、山岡同様、成宮に誘われてこの稲実の戸を叩いた選手。
小山の大将ではなく、厳しく強いチームを選んだ。
彼もまた、勝利を求めて成宮に着いて行った。
しかし大野は、先程の多田野と同じく、完全に捩じ伏せに行く。
バックドアのツーシームを続け、最後はインハイのストレート。
テンポよく、正に手も足も出さずに見逃し三振を取る。
最後は、7番の神宮寺をツーシームで三振に取りスリーアウト。
稲実のイケイケムードを完全に断ち切る、圧巻の投球は会場の熱気を更に掻き立てる。
そしてこのピッチングは確実に青道に勝利の風を巻き起こそうとしていた。
負けていても、絶望的な状況でも。
それでも尚、チームを鼓舞して闘い続ける。
まだ終わらない。
まだ止まらない。
日本一を目指す最強の投手は、敢えてその空に咆哮を上げた。
勝つために。
ただ一心に投げ続ける大野の背中に、会場からは大きな拍手。
ゆっくりとマウンドから降り、ベンチへと歩みを続ける。
9回表。
得点が奪えなければ、敗戦が決まる最後の攻撃。
そんな中でも、大野はすぐにスポーツドリンクを口へと運び、次の回に備えて身体を少しでも休める。
まだ負けちゃいない。
だからこそ、万全の状態で待つ。
身体の疲労感は、8割くらいか。
流れてきた汗を軽く拭い、大野はベンチへと深く腰をかける。
金丸に言いたいことは、さっき言った。
だからこそ、委ねている。
攻撃に関しては、みんなを信じている。
大野は来ると信じている守りに向けて、ゆっくりとその身体を休めた。
(落ち着け、落ち着け。こんなとこで身震いしてるようじゃ、話になんねぇ。)
先頭バッターの金丸が、何度も深呼吸をする。
9回表。
1-0、ここで得点が奪えなければ、敗ける。
ここまで投げ続けている大野は、自責点0
失点は自身の、金丸のエラーから始まったものだ。
ミスを取り戻さなければ。
そう思えば思うほど、筋肉が硬直してしまうことがわかる。
(分かってはいるけどよ。)
目を瞑り、雑念を捨てようとする。
しかし、どうしても悪いイメージが先走ってしまう。
マウンドへと向かう成宮には、拍手が鳴り響く。
ここまでの熱投を称えられ、息の詰まるような投手戦を自身の手で終わらせにきた成宮の姿に、この試合の主人公を見てしまった気がしたのだ。
負けるのか、ここで。
どんなにかき消そうとしても悪い結果が、頭を過ぎる。
そんな後ろ向きな自分に、金丸は悔しくも歯を食いしばる。
昨年の悪夢が過ぎる中。
金丸をこの場に戻したのは、監督である片岡の呼び声だった。
「緊張しているか。」
片岡の質問に、金丸は正直に頷く。
「お前はある意味、大野の背中を一番近くで見てきたかもしれないからな。あいつがどんな風に試合に臨んでいたのも、よく見てきただろう。」
同じ部屋で過ごしてきたチームメイトであり、初めて挨拶をした先輩。
ポジションこそ違えどその背中に引っ張られるようにして、金丸自身も大きく成長出来た。
気さくで、後輩には優しいがどこか意地悪で取っ付きやすい。
頼りになるのは言うまでもないが、出来ないことでも力になろうと努力してくれた。
そして何より。
試合に入る時は誰よりも真剣で、はっきり言って金丸は恐さすら感じていた。
勝ちに貪欲で、その為には自己犠牲も厭わない。
壊れるほどまでチームの為に闘い、今もまだ闘い続けている。
彼との日々を思い出せば思い出すほど。
自然と金丸の震えは、小さくなっていた。
「エラーは気にするな。だが、敢えて言わせてもらうぞ。」
片岡がその大きな身体を屈め、金丸の目線に合わせて耳打ちした。
「お前のバットには、決してお前一人の責任が乗っている訳では無い。今ギャラリーで一緒に闘ってくれている奴らの思いも、ここまで投げ続けている大野の誇りも。みんなの思いも全て背負ってぶつけて来い。」
そこまで言われると、金丸は汗が滲んできたのがわかった。
先程までの冷や汗ではない。
沸騰するような、熱気が吹き抜けてきたような感覚を感じる。
まるでそう、マウンドに上がった大野のように。
ゴクリと、生唾を飲み込んだ。
「プレッシャーか?」
「そりゃあ、はい。」
「だが、お前にならそれも力に変えられるはずだ。」
片岡は、金丸の背中に右手を当てる。
そして少しばかり力を加え、背中を押した。
「チームを背負う男になるんだろう?なら、ここで流れを変えてこい。大野の背中を見てきたお前なりの答えを、俺に見せてくれ。」
「はい!」
「行ってこい!」
パンと背中を強めに叩かれ、金丸はベンチを駆け出す。
気づけば、震えは止まっていた。
代わりに彼の鼓動は、どんどん早まっていく。
緊張や弱気などではない。
あの片岡監督が自分に期待して、任せてくれたのだ。
これを高揚せずに、何とするか。
血潮が熱を帯び、体温が上がる。
ふうっと雑念を捨てるが如く息を吐き出すと、金丸は声を張上げる。
「っしゃあ!」
集中力は限界まで研ぎ澄まされ、良い意味で視界が狭まる。
ただ、一点。
マウンドにいる絶対的な王、成宮鳴だけを見上げる。
ここまで圧巻のピッチングを見せる成宮だが、この金丸は何とかヒットを放っている。
しかしそれは、ある種成宮の力配分による影響がある。
元々成宮が警戒している打者に対して、具体的に上げるのであれば勝負を決めることが多い御幸と白州、打率の高い小湊などに向けてはギアを上げていた。
もしくは、ランナーを貯めたピンチの場面など、試合を動かすような失点を負いそうな場面になると一気にギアを上げる。
ここまで金丸がヒットを放っているのは、ランナーを置いていない場面。
成宮からすれば、力をセーブした状態である。
(最終回とはいえ、やることは変わりません。)
(…あぁ。)
多田野のサインに、成宮は小さく頷いて自身の胸に触れる。
積み重ねてきたアウトは、残り3つ。
あと少しで、甲子園。
早まる鼓動を抑えつつ、成宮は深呼吸をした。
初球、外中段にカーブ。
少し浮いているが、終盤とはいえ高いキレを誇るボールを、金丸は見送った。
(見送り方的に、完全に余裕を持っていた。さっきの打席もヒットにされたとはいえ、スライダーに崩れていたし、やっぱりストレート狙いか。)
2球目は、ストレート。
外角高めの少し危険なコースだが、僅かにボール。
これに若干金丸も反応したものの、見送り。
1ボール1ストライク。
球の状態は、決して悪くない。
しかし、やはりというべきか。
終盤ということもあり、全体的に球が浮いているように感じる。
(でも、高くなる分には構いません。パンチ力はあるけど、決して一発のある打者じゃない。ここは力で。)
追い込めば、いくらでも抑えようはある。
変化球が浮くよりは、力のある真っ直ぐで押し切りたい。
高いが、流石に一発でアジャストされることはないだろう。
力をセーブする必要は、ない。
この1回を締め切れば、試合が終わる。
今日の成宮のストレートであれば、金丸に長打を打たれることもないだろう。
ここまでタイミングは合っていない。
ファールでカウントを整えて、チェンジアップの緩急で打ち取る。
金丸を抑えるビジョンを描き、多田野がサインを出す。
それに対して成宮も迷わず頷くと、すっと投球姿勢に入った。
(…来るか。)
バットを掲げた金丸が、息を吐く。
集中力からか瞳孔は開き、汗が一筋流れる。
モノクロに染まった世界に一つ、色付いた大輪。
早まる鼓動を押さえ込むことなく、全てをエネルギーに変える。
思えば、学ぶことは多かった。
ポジションこそ違えど、今まで見たきたどの選手よりも責任感が強く、それに相応の実力もあるエースであった大野と同じ屋根の下で過ごすというのは、金丸にとって大きな経験になった。
普段は冗談を言うこともあるが、練習になれば淡々と自身を磨き続け。
そして、試合となれば自身を犠牲にしてでもチームの勝利を優先した。
(全てを背負って、それでも勝てなくて。どんな時でもあの人は、チームの柱として戦ってくれたんだ。)
成宮がワインドアップを始めると同時に、金丸はタイミングを取り始める。
観客席の声が遠のきながらも、ガサガサとスパイクが土を掘る音だけが耳に刺さる。
(なら、皆で支えればいい。御幸先輩も白州先輩も、そう言っていた。俺だって。)
要求は、外角低め。
今回は先程と異なり、カウントを取るには最適な低めに決まる真っ直ぐ。
球速もしっかりと出てるキレのあるストレート。
金丸は、迷わず振り抜いた。
(漢なら、チームの為に戦う。少しでも抱えられねえ奴が、4番になんかなれっかよ!)
快音。
打球は飛翔し、会場は静寂に包まれた。