野球という競技に於いて、9回というのが一種のゴールとされている。
しかし、同点の場合。
得点による決着がつかなかった場合、満15回まで延長をすることができる。
疲労が溜まる炎天下。
過酷な環境下、終わりの見えない戦い。
その幕開けとも言える10回の攻防は。
『空振りの三振!最後は縦に大きく割れるカーブを振らせました!』
「インコースで見逃し三振!低めで伸びる快速球をストライクゾーン一杯にズバッと決めて3アウト!」
互いに疲労を感じさせない、ド派手な奪三振で会場を湧かせた。
「悪くないぞ。球数に関しても許容範囲だし、下手に出力を抑えた挙句に球数が嵩むくらいなら、今くらいで構わん。」
ベンチへ引き上げた大野に、ベンチ奥で自身の顎髭に触れていた落合がそう声をかける。
そもそも中盤戦まではできるだけ出力を抑えて投げられていたのだが、成宮がギアを上げたタイミングでそれに呼応するように、強引に出力を引き上げられた。
これを今から落とすのは、まあ無理であろう。
出来たとしても、そこから失点に繋がってしまえば元も子もない。
何より、余力を残した上で負けた時、彼はきっと大きな後悔を残すだろう。
せめて、燃え尽きるまで。
きっと受けている御幸も、指揮をしている片岡もそう思っているはずだ。
(なんて、こんなことを考えるくらい俺も情に流されやすくなったか。)
自身の考え方の変化に、落合は複雑な気持ちになりながら帽子を被り直す。
投手コーチとして、このチームが勝てるように今まで動いてきた。
勝つためだけに、甲子園に行くチームを作るためにコーチをしてきた。
そんな自分が、悔いを残さないで欲しいというのが先に来てしまうほどに、情深くなってしまったと。
内心落合は苦笑しながらも、悪くない気分ではあった。
(全く、不思議な選手だな。大野夏輝というのは。)
汗を拭いながらベンチに手をかけた大野を見つめた。
そして直ぐに、防具を外した御幸に視線を移し、声をかけた。
「どうだ、お前の目から見て。」
「えぇ、本人も覚悟していたからか全然力も落ちてません。寧ろ失点してから出力も上がってます。」
「上がるのもまた、心配だがな。保つのか?」
「…分かりません。でも、信じるかないでしょう。」
御幸の回答に、落合は唸る。
延長戦というサドンデスである以上、迂闊に出力を落とせない。
増してやこちらは、先攻。
後攻の稲実が勝ち越した時点でサヨナラとなり、敗退が決まる。
しかし、延びれば最大15回。
既に10回を投げて疲労が溜まっている中で、残り5回を投げきらなければならない。
できるだけ余力は残したいが。
そう、上手くいかない事は、昨年の夏を見ていれば明白であった。
11回。
再びマウンドに上がる成宮だが、ここも完璧に青道打線をシャットアウト。
ここまで確実に三振を取りに来ていた配球から、スライダーとツーシームを多く織り交ぜてゴロを打たせて、球数を減らしてきている。
この回8球で、三者凡退に抑えてみせた。
続く大野も、負けていない。
ツーシームとカットボールの比率を抑えた代わりに、キレの増したカーブとストレートとギャップあるチェンジアップを低めに集める。
そして、決め球として高めの勢いのあるストレート。
もしくは、ここぞという場面で使う必殺のカットボール。
三振を2つ奪った上に10球で11回の裏を抑えた。
「っしゃあ!」
ガッツポーズを作りながら、吼える。
何度も繰り返しているのは、自身の中に宿る闘志を絶えさせない為に。
気を抜けば、疲労が吹き出る。
分かっているからこそ、自分を鼓舞する為に。
そして、共に闘っている仲間に、自身の闘う姿勢を見せる為に。
昨年の夏、力尽きた11回。
全ての不安要素を振り払うような快投で、一つの山場を乗り越えた。
「ナイスピッチだぜ大野。大丈夫か?」
マウンドからゆっくり降りる大野に、倉持が背中を軽く叩いて問う。
既に延長。
疲れが出ているのは当然なのだが、倉持の目から見ても依然疲れを出さない大野の姿。
それを見ながら、倉持は昨年の夏のことを思い出していた。
昨年は、自分も。
そして、受けている御幸ですら大野の異変に気がつくことが出来なかった。
同じことは、二度と繰り返さない。
(言いたかねえが、はっきり言って今年は大野のチームだ。あいつがいたからここまで強くなったんだ。これで甲子園に行けねえなんて報われねえ話はないぜ。)
だから、打たねばならない。
出来ることなら、大野がマウンドに上がっている内に。
「あぁ、大丈夫だ。心配してくれてありがとう。」
「らしくねえこと言うなよ。悪ぃな、そろそろ点取ってやるから。」
根拠はない。
しかし、そう言うしかない。
「2年も待たせてんだ。ここで負けちまえば、俺は死んでも死にきれん。肩も肘も、吹っ飛ぶまで投げ続ける。」
そう言った大野に、倉持はいつも通り彼の尻を蹴った。
「不吉なこと言うなバカ。ちゃんと点取るから、それまでマウンド立っとけよ。」
「その前に出てくれ、2割2分。」
「通算3割乗ったつーの!」
いつも通りの軽口の返答に、倉持は普段と変わりないことを判断してベンチへと駆けていく。
倉持が離れたことを確認すると、御幸も大野へと近づいて話しかけた。
「いい感じだぜ。カットは1球、ストレートもまだ走ってる。」
「あぁ。」
「疲労感は?」
「まあ、疲れた。流石にここまで投げればな。」
冗談めかしく返す大野に、御幸は少し表情を歪める。
汗が多い。
それ以外に判断できる材料がないことが、悔しい。
汗の量で言っても夏場に投げていればこれくらい出ることもある。
まだ、大丈夫だとは思う。
そう思いながらも、御幸はここからも長く続く戦いに向けて大野に言った。
「肘は?」
「問題ない。今のところは痛みも違和感もない。」
「なら、良い。ストレートの球威も上がってるし、向こうはカットもツーシームも対応できてない。上位打線に行けば必然的に2つの比率を上げなきゃならないけど、中盤ほどは使わないからな。」
無言で頷き、大野はベンチの中へと入る。
「アンダーの替えはまだあるか。」
「ここで替えて、あと1枚。」
「最悪俺の余りもある。サイズ同じだから、言えよ。」
「心配しすぎだ。あと4回なら、もつ。」
苦笑しながらドリンクに口をつける大野。
心配しすぎだと、言われてもいい。
ただこいつが、去年みたいに志半ばで力尽きるくらいなら。
過保護なほどに心配を口にする御幸に軽口で返答しながらも、大野は内心嬉しかった。
実際疲れはあるものの、まだ問題はない。
しかしこうして心配してくれているだけでも、自身の中にある重荷が少し軽くなるような感覚があった。
(あと、4回か。)
アンダーシャツを替えてから、ベンチの端に座り、深く腰掛ける。
疲れはあるが、今のところ不安材料である肘も全く違和感はない。
スタミナも十分残っているし、まだ投げられる。
「どうぞ、夏輝さん!」
「あぁ、ありがとう。」
ブルペンから一時的に戻ってきていた沢村に紙コップを手渡され、受け取る。
スポーツドリンクに反射した自身の顔。
大丈夫、まだ顔にも出ていない。
そうして、一口喉を通す。
「すごいっすね、成宮さんも夏輝さんも。」
「…まあ、この時の為に練習してきたからな。尤も、失点した上にここまでもつれこんじまってはいるが。」
自嘲気味に大野がそう言う。
失点とは言え、自責点は0。
エラー絡み且つ、ランナーであるカルロスの奇襲によるホームスチールによる失点であり、とても大野ではどうしようもない失点である。
それでも自身で背負うというのは、やはりエースという自覚からか。
大野夏輝というピッチャーの強さであり、エースとしての質の高さだろう。
「天久さんと投げ合っているとき、俺は2人の見ている景色を見た気がしました。でも俺は、5回しかもちませんでした。」
俯きながら、沢村はそう言う。
「まあ、回で言えばそうだな。」
6回途中で、2失点。
しかし内容で言えば、今年のドラフト候補である天久と互角以上に渡り合ったほどの集中力での投球だった。
「今言うことじゃないと思うんすけど、やっぱまだ遠いなって。今日の試合を見て、改めて思いました。」
複雑な、しかしそれでも清々しい表情をした沢村。
そんな彼に、大野は笑顔を向けた後に、今度は大野が沢村に問うた。
「なあ、沢村。俺と成宮は、どちらの方がいい投手だと思う。」
「…わかりません。」
「あぁ。それは結果が出て、初めて分かる事だ。そして前の試合、降谷と2人でかもしれないが、お前は天久に投げ勝ったんだ。その観点で言えば、お前たちは既に俺たちと同じ場所に立っていることになる。一年の猶予を残した状態でな。」
そう言って、大野は沢村の頭に右手をポンと置いた。
「お前はもっといいピッチャーになれる。身近なライバルもいるしな。」
「そう、ですかね。」
迷わず、大野は頷く。
「だがな、俺たちはこれが最後だ。」
大野が、ベンチからグラウンドを見つめる。
そしてすぐ、自身の右手の平に視線を移す。
「この試合が終わった時、皆が胸を張って大野は日本一の投手だと言えるように投げる。お前が迷わず、成宮よりいいピッチャーだと言えるように、な。」
開いていた手をぐっと握りしめ、笑う。
笑ってはいるが、どこか鬼気迫る表情に沢村は思わず身震いした。
やはり、敵わない。
実力でも立ち振る舞いでも、この人は確実に日本一だ。
それでも未だ、驕りどころかまだ足りないと力を追求する。
届きそうになれば、離れていく。
近づいても、未だ圧倒的な存在。
改めて、沢村はそう痛感した。
「夏輝先輩は最強のエースです。誰がなんと言おうと、俺は…俺たちは信じてます。」
「ありがとう。せめてその想いに恥じないよう、努力はする。」
そうして、大野は帽子を手に取り立ち上がる。
この試合何度目かの三者凡退を見送り、続く守りへと向かう。
「ドリンクありがとう。行ってくる。」
自身が使った紙コップを沢村へ手渡す。
持ち替えるように、自身の横に置かれた朱色のグローブを手に取り、ベンチから出ようと階段を上る。
この12回裏。
昨年決着の着いたこの回での大野は、正に圧巻だった。
8番の江崎には、外角低めにストレートを3つ。
一球ずつ僅かにコースをずらし、最終的にはアウトロー目一杯に渾身のストレートを決める。
初球は、ストライクゾーンギリギリに138km/h。
慎重な打者なだけに、初球からこの厳しいコースは振らない。
さらに2球目。
敢えて僅かに甘く入れたボールだが、初球より若干スピードの上がった142km/hのストレートに振り遅れてファールとなる。
最後は初球同様、ストライクゾーン一杯。
2球目で目線をズラし、ストライクゾーンを間違った認識をさせる。
先程より遠く、ボールゾーンだと判断してしまうが、そこはコース一杯。
完全に江崎のバットは出ることがなく、指定されたゾーン一杯に決まったボールに、審判も手を上げる。
「ストライク、バッターアウト!」
完璧な投球。
完璧な場面掌握。
大野の高い制球力と、御幸の高い捕球技術を生かした、このバッテリーのお家芸とも言えるこの外角低めの出し入れに、敵将である國友も思わず舌を巻いた。
(頭の中では厳しいコースも打ちに行く意識はあるはず。やはりあのストレートを完璧に出し入れされると、それだけでも反射的にバットが止まってしまうか。)
ましてや、大野の決め球はストレートと同速で変化するボール。
ストレートに合わせれば、確実に空振りしてしまう。
速度差のあるカーブやチェンジアップもある為、どうしても思い切りいけない。
江崎をストレート3つで完璧に仕留めたバッテリーが続けて相対するのは、エースである成宮。
9番とはいえ、普段はクリーンナップを打つバッター。
特にこの2人は、終盤の成宮の怖さをよく分かっている。
(悪いな、ここはツーシームもカットも使う覚悟でいてくれ、夏輝。)
(ここはセーブする必要ない。この場面の鳴は、何やらかすか分からねえ。はっきり言って
2年前、彼の一打で試合に負けた。
ここぞという場面。
試合に集中しきった選手は、こういう所で何かを起こしかねない。
準決勝もそうだ。
勝ち越しを許したのは、天久のタイムリー内野安打。
この夏の大会というのは、本当に何があるか分からないのだ。
だからこそ、大野は全力で捩じ伏せに行った。
『最後は伝家の宝刀であるツーシーム、138km/hの速い変化球を落とせば忽ち強打者のバットは回ります!はっきり言って高校生のボールではありません!』
ストレートとカーブでタイミングをずらしつつ、最後はストレートのコースからガクンと落とすツーシーム。
外に逃げるようにして落ちるこのボールは、特に左バッターに強い。
思い切って投げ切れば、はっきり言って打てるようなボールではなかった。
最後のカルロスはインハイのストレートを完全に詰まらせてショートフライ。
闘志溢れるピッチングでここも三者凡退。
流れる汗を拭いながら、マウンドを降りていく。
12回裏を終えて、依然1-1の同点のまま。
終わりの見えない戦いは残り3回。
互いの意地と意地のぶつかり合い。
13回の表。
踏み荒らされたマウンドを足で軽く慣らしつつ、ホームベース付近に置かれた白球を拾い上げる。
重くなった左腕をゆっくりと持ち上げ、グローブへボールを収める。
(世代最強右腕か。気づけば、そんなところまで来ていやがったんだな。)
打席に入ったのは、エースの大野。
ここまで打席ではからっきし、ノーヒット且つ4つの三振を献上している。
高いバットコントロールから高打率を誇っており、普段の試合では2番を打つことが多いこの大野だが、この試合では打席に集中する為に9番という打順に座っている。
元々選球眼は優れている方では無いが、多少のボール球でもヒットにする技術がある故に、案外三振は多くない。
それにしてもこの三振の数というのは、間違いなく成宮がこの大野に対して明らかにギアを上げているという何よりの証拠であった。
(最も強いと書いて最強。それはお前だって、分かっているんだろ?)
癖のない美しいワインドアップから、右脚を高く振り上げる。
嘗て優勝請負人と呼ばれたエースに似た豪快なフォームから投げ込まれたのは、正に豪速球。
150km/hを越えるストレートを立て続けに高めに投げ込み、大野を完璧に捩じ伏せる。
たった3つ。
最後は154km/h、力の籠ったボールを内角高めに投げ込んでみせる。
打者である大野は完全に振り遅れて、空振り三振。
バランスを崩し跪いた大野に、成宮は見下ろす。
この日の晴天で輝く青空のような蒼で煌めく瞳が、大野の碧い瞳と交錯する。
「っ…。」
「最強は2人といらねぇ。どちらが最強か、白黒つけてやる。」
マウンドの傾斜からか、試合を掌握しているからか。
笑みを浮かべながら打者を見下ろす形で、成宮は大野へと呟いた。
「頂点取って甲子園に行くのは、俺だよ。」
一人の最強の言葉は、熱気を孕んだ真夏の神宮球場に消えていった。