(とりあえず、終わったか。)
ベンチへと引き上げながら、投げ続けた自身の右手へと視線を落とす。
グーパーと開いたり閉じたりを繰り返し、握り締める。
不思議と肘の痛みはなく、違和感もない。
恐らく、これまでにないほどしっかりと調整させてもらったからだろう。
そんなことを思いつつ、大野は帽子を外して頭を振った。
「ご苦労。よく投げてくれたな。身体はどうだ。」
片岡から労いの言葉を受け、続けられた質問に微笑みながら大野は答えた。
「ありがとうございます。とりあえず、疲れました。」
「当然だ。短い時間とはいえ、束の間の休息になる。ケアをしてゆっくり休め。」
小さく頷き、重くなった身体を引き摺りながら自身の腰掛けていたベンチの前に行く。
一通りの荷物をバッグに収め切り、着替えのシャツを手に取って言った。
「瀬戸、悪いが荷物だけ頼む。」
「はい。」
自身の荷物を後輩に託し、大野はその手にチームシャツを握ったままベンチ裏へと下がっていく。
疲れた。
試合時間も長かった上に、この気温。
現に、試合終盤には36℃と猛暑日を記録していた。
僅かに歪む視界。
そして、ふらつく足取り。
ベンチ裏、人目が無くなったその時。
(あ、まずいか。)
ひと時とは言え、長きに渡る試合の中断。
張り詰めていた糸が僅かに緩んだ大野は、身体の力が抜ける感覚と共にその場で倒れかけた。
「ったく、目え離せねーなてめぇ。」
その瞬間、バランスを崩した身体を支える、衝撃。
転倒することによる大野の身体を走るであろう痛みは感じず、代わりに両肩を抱きかかえられるような形で抑えられた。
「すまん、倉持か。」
「ベンチ入った瞬間から足取りがおかしかったからな。大丈夫か?」
「あぁ、悪いな。少しふらついただけだ。」
そう返して姿勢を戻すと、大野は壁に手を付きながら更衣室に入る。。
「お前、こんな状態でよく投げ切ったな。」
正に満身創痍の大野に、倉持はそう零す。
少なくとも、自身の目で見た試合中の大野に大きな違和感もなければ、普段との大差はなかった。
それこそ多少の疲労感は見て取れても、これほど疲弊してるとは。
この疲労感を隠していた大野に、倉持は思わず冷や汗が流れた。
「投げ切るさ、勝つまではな。明日も、明後日でも。」
「っ!お前、明日も投げるつもりかよ。」
ピタリと大野の歩みが止まり、ゆっくりと倉持の方へと首だけ向ける。
汗と土で汚れた顔。
試合中は碧く光り輝いていた瞳は鈍く色褪せ、僅かに輝きを放つだけ。
それでも静かに燃える闘志を瞳の奥に宿しつつ、大野は表情を崩さずに返した。
「当たり前だ。これは俺の闘いでもある。」
「お前、そんな状態で何言ってんだ。明日になれば沢村も降谷も、ノリだっている。」
「それでも、だ。俺はエースだ。チームに勝ちを齎す投手だ。どこまで続こうが、俺がぶっ壊れようが、最後にチームが勝てばいい。俺は…」
「だからって、てめえが投げ続けなきゃいけねえ理由にゃならねえだろ!」
思わず、倉持が声を荒らげる。
どう見ても、今の大野は普通ではない。
スタミナがあり、我慢強いこのエースが、グラウンドの外とはいえ倒れかけているのだ。
そんな男を、言わば地獄のような炎天下のグラウンドに行かせるなど、倉持は考えられなかった。
反響する、倉持の声。
しばらく静寂が続いた後に、倉持は続けて自身の胸の内を語った。
「俺は、お前がいたからこのチームはここまで強くなったって思ってる。お前が無茶してきたことも、お前がチームを背負ってきたことも分かってるつもりだ。けど、だからって、お前だけが重荷を抱えすぎることはねえよ…。」
珍しく汐らしく、それでいてどこか悔しそうに唇を噛む倉持に、大野は一息ついて返す。
「だが、俺が投げなきゃいけないんだ。鳴の、あいつの瞳を見ればわかる。ここで逃げたら、負けるってな。だから俺は逃げないし、最後の決着が着くまで…勝つまで、俺は勝負を投げ出すことはしない。」
「一人で闘うつもりか。」
「一人じゃない。俺には、みんながいる。一也も、白州も、ゾノも。それに倉持、お前も。みんなが後ろにいてくれるから、俺はここで闘える。」
あまりにも純粋すぎる大野のその表情。
互いに視線を交わし、根負けしたように倉持は自身の頭を掻き毟った。
「だーもう、勝手にしろ!」
「悪いな。エースらしからぬ、我儘を許してくれ。」
「るせえ!もうそれ以上言うな!てめえがそうしたいって言うんなら、俺たちはマウンドのエースを支えるしかねえんだ。だからてめえは胸張って、それを全うしやがれ!」
「キレてんのか。」
「キレてねえ!」
その倉持の返しに、思わず大野は笑みを浮かべる。
汗で重くなったアンダーシャツからTシャツに着替え、胸に書かれた校名を掴んだ。
チームの為に、自身が最後まで投げる。
そしてそれが結果的に、青道高校というチームのエースとして勝ちたいという大野の望みにもなっている。
しかし、一人では勝てないのはわかっている。
だからこそ、心配してくれて且つここまで自分を見てくれている仲間に、大野は確かに安堵していた。
「ほら、肩ぐらい貸してやるよ。」
そうして左腕を持ち上げて自身の肩にかける倉持。
「ありがとう。」
「にしても無茶だぜ、こんな状態で投げんのなんて。」
「大袈裟だ。1日休めばどうにでもなる。」
連投経験は何度もある上、球数も15回投げ切ったにしては少なめ。
恐らく疲れは残るだろうが、それでも明日投げるには問題ない。
無論、今日ほどの出力は出ないだろうが。
そんなことを考えながら、大野は若干倉持に身体を預けた。
「で、随分手厚い持て成しだな。」
倉持の肩を借りながらバスの前まで漕ぎ着けた大野だったが、そこに立ちはだかるは、沢村と降谷。
互いにボトルやら何やら、わらわらと集めて待ち構えていた。
「いえいえ!お疲れ様です夏輝さん!」
「どうぞ。」
その手に握られていたのは、ゼリー飲料やアミノ酸の粉末など、多種多様。
正に後輩からの手厚い持て成しに、大野は溜め息混じりに笑って答えた。
「ありがとう。だが、流石に大袈裟すぎだ。何もそこまで待遇する必要はない。」
倉持に礼を言ってその肩から身体を離す。
やはり、重い。
しかし、どうにでもなる。
降谷と沢村からの荷物を受け取り、バスに乗り込もうとした矢先。
明らかにこちらを呼ぶような咳払いが聞こえ、その主へと視線を向けた。
「あー、大野。お前は、こっちだ。」
コーチである落合へと向き直ると、そこには何やらタクシーが。
バスに片足まで乗りかけたタイミング。
大野は眉間に皺を寄せ、最低限の返答で聞いた。
「えーっと、なぜ。」
「お前は病院に直行だ。」
「なぜ!?」
わざとらしく驚いた大野に、落合は頭を掻きながらため息混じりに答える。
「なぜって、ケアの為に決まってんだろ。明日も投げるんだろ、お前。」
「えっ、あ、はい。」
思っていた返答と違った大野は思わず素っ頓狂に返事をしてしまう。
まさか、コーチからそう言ってくれるとは。
そんなことを思いつつ、大野は頭に1つの疑問が浮かんでいた。
アイシングやケアだけなら、別に寮に戻ってからでもできる。
別に、バスで一緒に帰っても問題ないだろう。
「病院に直行する。ぜひケアに協力させてくれと、俺に申し出があってな。お前も信頼出来る相手だ。」
タクシーに揺られて数十分。
辿り着いたのは、半年前まで通い詰めた大学病院。
そこで出迎えてくれた男は、もちろん大野の見知った人物であった。
「先生。わざわざありがとうございます。」
「いやいや、寧ろ僕から打診した事だからね。明日の試合でも全開で投げられるように、努力するよ。」
肘の故障の際に、面倒を見てくれた。
或いは、共に歩いてくれた先生。
大野自身は勿論だが、投手コーチである落合もまた、彼に全幅の信頼を置いていた。
「肘の張りは、どうかな。」
「多少疲れはありますけど、気になる程じゃないです。」
ベットに横たわりながら、先生からの問いに答える。
やはりフォーム改造から時間が経って身体に馴染んだのか、昨年秋からの悩みだった肘痛はもはや不安要素から除いても良いと思うほどに改善されている。
「背中はやっぱり張ってる感じがします。」
「まあ、肘にくる分が分散してるからね。それ自体は悪くない傾向だよ。」
大野自身、高すぎる出力に肩肘、特に肘が耐えきれずに大きな怪我につながってしまった。
故にフォーム改造を行い、その肘に掛かる負担を大胸筋や広背筋など大きな筋肉を使うような投球フォームへと変化させたのだ。
全身のマッサージを行いながら、身体の状態を確認していく。
肘は、現状問題ない。
あとは、出力が問題なく出せるかどうか。
下半身の疲労は、やはり大きい。
しかし、思っていたほどではなく、しっかりとマッサージとケア、栄養補給さえすれば明日も問題なく戦えるだろう。
背中はまあ、少し疲れが出ている。
一番の懸念であった肘の部分の疲労が思ったほどなかったのは、何よりのプラス材料だった。
「下半身は特に入念にやっておくよ。君の場合器用さもそうだけど、この脚の強さがコントロールの良さに直結してるだろうからね。」
「ありがとうございます。」
最終的な状態は、明日になってみないとわからない。
しかし現状、決して最高とは言えないが悪くない状態で明日の試合に向かって行ける。
その事実だけで、とりあえず大野は安心した。
「しかし、一応リミットは設定しておくよ。」
「リミット、ですか。」
「当然だ。俺たちも指導者である以上、お前が怪我をしないように投げさせるのも仕事の一つだからな。だからこうして専門家にも協力を頼んでいる。」
「頼まれてないですけどね…。」
ジト目になりつつ、切り替えるように咳払いをした先生は幾つかの条件を提示した。
・どんなに長くてもリミットは9回。
・球数は110球まで。
・基本は七割くらいの出力、ギアチェンジしても100%まではできる限り引き上げない。
・ツーシーム、カットの比率はできるだけ下げること。
「まあ、本当はもっと厳しくしたいところだけど。明日は僕も会場にいく。何かあればすぐに駆けつけられるから。」
「何から何までありがとうございます。」
「いいさ、その代わり勝って甲子園に行ってくれよ。僕は見たいんだよ、大野夏輝が甲子園のマウンドで輝く所を。」
好きなんだ、君のマウンドでの立ち振る舞い見るの。
そう言って笑う先生に大野は笑顔を返して、答えた。
「ありがとうございます。良い報告が出来るように、頑張ります。」
思った以上に軽くなった身体に大野も思わず感嘆しつつ、軽く跳ねる。
これなら、明日も戦える。
全開とは言えないかもしれないが、それでも。
拳をぐっと握り締め、日暮れた夏空を大野はただ見上げた。