6回の表を三者凡退に切られた青道だったが、迎えた裏の守り。
前回に本塁打を打たれて逆転を許した大野だったが、コーチや監督の激励に背中を押されてマウンドへと向かう。
「聞いたか、コーチに。」
マウンドへ向かいながらのところ、御幸に声を掛けられてグローブで口元を覆う。
「カーブとツーシームの件か。どちらにせよ、お前にリードは任せている。その辺は上手いことやってくれ。」
「把握してくれてるなら良い。打たせていくから、低めに頼むぜ。」
御幸の指示に軽く頷き、大野はマウンドへ。
踏み荒らされたその小山を足で軽く慣らしつつ、右手に握られた白球を軽く転がす。
真っ直ぐを2球。
チェンジアップを1球。
守りの前の投球練習で投げ込み、その身体の状態を確かめる。
投球練習を終え、御幸が構えようとしたところ。
視線の先で、大野が軽く彼に向けて手招きをした。
「どうした。」
「流れを変えるには、お前の強気なリードが必要だ。」
口元をグローブで覆いつつ、大野は真剣な眼差しでそう言う。
現状の疲労を考えれば、御幸の普段のリードでは力負けする可能性が高い。
それを分かっているからこそ、御幸は彼の言葉に言い返した。
「無茶言うな。いつもほどの出力が出ないのは、お前だってここまで投げて分かってんだろ。それに…」
「出せる。それに、肘の心配はいらん。どちらにせよ、流れを変えられずに負ければここで俺の野球人生は終わりだ。」
「だからって。」
そう御幸が言いかけて、止まる。
それはその瞳に宿る光を、またしても魅せられたから。
この試合初めて、大野が集中力を高めた時に起こす兆候が見える。
澄み切った紺碧瞳が御幸の視線を吸い込むように、輝き始める。
その瞳を見せられてしまえば、御幸はもう頷かざるを得なかった。
「点は取ってくれるんだろ。なら、俺は俺のやれる事をやる。チームに勝利を運ぶのが、エースの仕事だ。」
大野に言われた御幸は、腕を組んで考える素振りをして表情を歪める。
そしてすぐ後、ため息を吐きながら、観念したように頬をかいた。
「分かったよ。言ったからには俺のリードに応えろよ。」
「あぁ、任せろ。」
いつものように差し出されたグローブに、御幸は軽くミットを当てる。
心を合わせ、目線を合わせ。
互いの思考を、リンクさせる。
合わせたミットを離し、数歩下がる。
マウンド上でバッターボックスに一度背を向けた大野に、御幸は指を指して言った。
「俺はお前を最大限生かすリードをする。だからお前も…」
「俺はお前の正しさを証明する。お前という捕手の組み立てが正しく、俺たちの生み出したものが、奴を凌駕することを証明する。」
振り向いた大野も、笑顔でそう応える。
そして、互いに笑い合う。
「まず、1人な。」
「あぁ。一つずつ、斬る。」
連投のせいか身体は重く、不安要素の肘も違和感。
絶対的武器であった剣の内ひとつは欠け、使えない。
球速は若干落ち込み、無双と言うには些か力が足りていない。
相手は都内の帝王、稲実。
2年連続で甲子園の夢を絶たれた、因縁の相手。
手負いでぶつからなければならず、1点ビハインドで追いかける場面。
しかし、2人なら。
どんな逆境でも、光を見出すことができる。
捕手は、マウンドにいる主役を最大限輝かせる為に。
投手は、その捕手の正しさを証明する為に。
鈍くなった身体に鞭を打ち、エースはその瞳に光を灯す。
(俺は一也を…一緒に闘ってくれる皆を信じる。そして、皆が俺に託してくれたように、俺も俺自身を信じる。)
帽子の鍔に触れ、打席に入る矢部へと視線を向ける。
ここまで当たりはなし。
しかし、山岡と同じように一発の期待できる3年生。
前の回のことがあるだけに、油断は出来ない。
深呼吸をして、御幸のミットへと目線を戻した。
出されたサインは、インコースのストレート。
インコース胸元、僅かにボールゾーンへの要求。
恐らく、ファーストストライクから狙ってくる。
特に長打を狙うタイプのバッターだけに、多少厳しくとも外よりは内側の方を打ちに行きたくなる。
(分かりやすいな。)
(応えてくれるんだろ?なら、投げきれよ。)
初球。
全身を捻転させた豪快なフォームから放たれる快速球が、矢部の胸元を抉る。
インコース、僅かにボール球。
しかしここは、御幸の見立て通り矢部はスイング。
バットに当てたものの、三塁線切れてファールとなる。
(やはり、当てられるか。)
(いい、いい。あのコースは打ったってファールにしかならねえ。)
さらに2球目。
続けざま、同じコースに構える。
再び、インコース。
ここもファールでカウントを取り、早くも追い込む。
3球目。
今日の状態で勝負球にするのであれば、外角低め。
インコースを十分見せた為、あとは外で厳しく攻めれば打ち取ることは容易である。
しかし御幸は、同一のコースに再び構えた。
(本気か。)
(大丈夫だ。自分自身を、俺を信じて投げ込んでこい。)
信じろと、胸を叩く御幸。
それに大野は思わず口角を上げて、小さく頷いた。
沸き立つ歓声。
マウンド上で凛と立つエースの周囲を、風が覆う。
先程までとは異なる空気感に、バッターボックスの矢部も身構えた。
内に2球。
もし勝負に来るのであれば、外のボールの可能性が高い。
特に大野の生命線とも言える外角低めの直球か、若しくは緩い変化球で崩しに来るはず。
確実に言えるのは、低め。
疲労が溜まり状態の落ちた大野は、事故の少ない低めで来る。
構えた矢部の視線の先。
ニヤリと笑う大野に、若干不気味さを感じる。
ノーワインドアップから、身体を半回転してゆったりと腰を捻り込む。
通常の投球フォームよりも更に後ろ。
背中に描かれたエースナンバーが見えるほど大きく腰を回し、最高地点で静止。
周囲の風を纏うが如く、歓声や周囲の視線の全てを巻き込んだ竜巻が、マウンドで巻き起こる。
反転させた全身を、勢い目一杯に振り戻していく。
限界まで蓄えられたエネルギーを解放すべく、全身を縦回転。
地面からのエネルギーと、大野夏輝の莫大な出力。
それに加えて、縦回転による重力の力も使い。
彼の繊細な感覚を経て、解き放つ。
「っん!」
振り絞ったような声と共に放たれた直球は、加速しながら突き進む。
コースはインコース高め一杯。
甘く入れば一発でスタンドインまで運ばれる可能性のあるこの際どいコース。
ここで、大野夏輝の今日一番が出た。
『ストレート3球で空振り三振!最後は遂に出ました140km/h!ここは全球インコース勝負でした!』
帽子がこぼれ落ちた頭に、白銀の髪がふわりと浮く。
その姿をベンチ内で見ていた国友は、思わず眉間に皺を寄せた。
(蘇ったのか、また。)
昨日も通してこの決勝戦、幾度と大野の疲労が見えた所があった。
しかしその度に、次の回には疲労を感じさせない投球を見せてくる。
何とか、追加点が欲しい。
成宮もスタミナがあるとはいえ、連投で且つかなり出力を引き上げて投げている分、終盤に打ち込まれる可能性も大いにある。
終盤になれば向こうも疲労で多少甘いコースも増えるだろうと目測していたものの、それが何時まで経っても来ない。
リードしているとは言え、たったの1点。
全国でも有数の強力打線である青道から逃げ切るには、はっきり言って物足りない。
続く神宮寺が何とかフォアボールをもぎ取り、1アウトのランナーを出す。
打席に入るのは、8番の江崎。
何とかここでチャンスを広げたいところだが。
3球目の、カーブ。
真ん中低めに決まるこのボールを、江崎が捉えた。
鋭い当たりは、センター方向。
大野の横を駆け抜ける強い打球だったが、彼はグローブを出さずに声を張り上げた。
「ショート!」
大野の声と共に鳴ったのは、乾いた捕球音。
ヒット性の当たりだったが、ここで魅せるは青道の鉄壁の二遊間。
鋭い当たりであったが、俊足の倉持が追いつき、二塁ベース手前で捕球。
そこからグラブトスで白球を放った先には、予め小湊が走り込んでいる。
ボールを受け取った小湊が軽快に二塁で捌き、一塁へ。
正に、刹那。
青道の鉄壁の二遊間を象徴する、アグレッシブ且つ鮮やかなダブルプレーで一気に3アウトを奪って見せた。
敵ながら天晴れなこのゲッツーに、国友は思わず後ろで組んでいた手に力が入ってしまう。
自分の思惑通りにいかないことは、この高校野球においては寧ろ当たり前のこと。
しかし、ここまで攻めあぐめるとは。
大野夏輝という好投手を打ち崩す術を考えきれなかった自身の未熟に、少なからず焦りを感じていた。
「何、珍しく心配そうな顔してんじゃん。」
聞こえた軽口に、国友は表情を変えずに視線を向ける。
「大丈夫だって。ちゃんと、守り切るから。」
帽子の鍔に手を当てて、ゆっくりとベンチを出るエース。
疲労と緊迫で押しつぶされそうであろうに、彼は精一杯の強がりを見せる。
そんなエースの姿に、彼は一言。
「すまん、頼む。」
そう言われた成宮は、一瞬固まったものの、直ぐに微笑んで小さく頷いた。
「流石。助けられた。」
マウンドから戻る大野は、後ろから追いついてきた倉持にグローブを向けて差し出す。
それに倉持も軽くグローブを当て、いつも通り声をかけた。
「最初っから取る気なかったなおめえ。まあ、変に軌道変わるよりやりやすいけどな。」
「お前たちを信じていたからな。2人なら、何とかしてくれると思って、任せた。」
そう言って微笑んだ大野に倉持は面食らい、思わずたじろぐ。
そして直ぐに、照れ隠しのように大野の尻に軽く蹴りを入れた。
「ちゃんと俺たちが逆転してやるからよ。お前はさっさと三振して戻って休んでろ!」
「ああ、俺じゃあ攻撃の力にはなれない。頼む。」
攻撃は、9番の大野から。
ここまでは投球に専念していることもあり、当たりは無し。
大会打率こそ三割越えだが、この試合の打席では殆ど三振を奪われている。
7回の表。
試合の終盤に入るこの回、大野が打席に向かう前に、片岡はナインをベンチ前に集結させた。
「お前たち、目を瞑れ。」
円陣を組み、その指示通り全員が目を瞑る。
「去年の夏、あと一歩というところで敗れた夏の時、お前たちはどう思った。」
「…二度と、負けたくないと思いました。」
片岡の問い。
それに対し、示し合わせた訳でもなく白州が真っ先に答える。
「俺も同じだ。どんなに頑張っても、あいつらの夏は帰ってこないし、俺たちには悔やむことしかできない。だからこそ、ここまで勝ち続けてきた。」
あいつらというのは、昨年の3年生たち。
結城率いる彼らは、新チーム結成時からスター選手がいないと周囲から言われていたものの、最終的には高い完成度を誇るチームとなった代。
そして、当時甲子園準優勝である稲実を寸前のところまで追い詰めた、確かに強い青道であった。
片岡にとっても、当時2年であった大野や御幸、白州や倉持たちにとっても特に思い入れの深いメンバーだった。
「負けないことは、難しいことだ。全ての野球人が、俺たちと同じように負けたくない、勝ちたいと思っているのだから。そんな中で、お前たちはここまで勝ち続けてきた。」
それは一重に、あの夏の記憶がまだ鮮明に残っているから。
悔しさ、やるせなさ。
そして、二度と負けたくないという、強い思い。
ただ只管に練習をし、考え、野球に没頭してきた。
息を吐き、片岡は全員に目を開けるように伝えた。
「負ける悔しさ。勝ち続ける強さ。お前たちは、その両方を持つ唯一のチームだ。稲実も、市大三高も、薬師も、どこも経験したことのない唯一の経験値だ。」
あと一歩で届かなかった、夏。
二度と負けないと誓いを立て、全員で勝ち続けてきたここまで。
その結果、センバツを制した。
「自分を、仲間を信じろ。大丈夫だ、俺たちは強い。」
そう言って、片岡は自身の胸に。
「青道」の字が描かれたその胸に、拳を当てた。
「ここまで球数も投げさせ、だいぶ浮き球も増えてきた。甘い球が来たら、確実に仕留める。こちらから狙い球を絞るとはしない。自分が仕留め切れると思ったボールを、狙っていけ。」
昨日から換算すれば、22イニング目。
元々コントロールは良い方ではあるが、コマンド力はそこまで。
疲労が溜まってくれば甘いボールも増えるし、変化球も浮いてくる。
各々が得意なボールを、確実に仕留める。
地力がついてきたからこそ、片岡は敢えてシンプルな策を講じた。
「行くぞ、甲子園。全員で勝つぞ!」
「「「はい!!」」」
各選手が口々に覇気を言葉にし、応援にも熱が入る。
そんな最中、打席に向かう大野に、片岡は肩を叩いて呼び止めた。
「お前は無理をするな。投げ切りたいと思うのなら、それを見越してプレーして構わん。」
「バッターボックスはちゃんと距離取れよ。」
片岡と落合の言葉に軽く頷き、大野は二度ほどスイング。
普段は上位を打つ打者なだけに、シャープなスイングが打席付近で一閃される。
そんな大野の姿を横目で見ながら、多田野は自身のマスクに手をかけた。
(打つ気が無いのは、わかる。抜けるところは抜きましょう。)
(…どうかね。)
どこか含みを持った成宮の表情に、多田野は違和感を感じる。
ここまでの連投。
成宮もそうだが、少しでもスタミナを温存する為に、正直あまり打ち気はない。
普通に考えれば、この打席。
ランナーもいないこの場面で、打ちに来ることはないだろう。
その証拠に、大野はバッターボックスの中でも普段より若干外寄りに立っていた。
(速いボールに着いていけてないのは、依然変わりません。そこまで力を入れる必要はありません。ここは。)
まず、多田野が要求したのは、外のストレート。
それに対し頷いた成宮は、ここも相変わらずワインドアップのモーションに入った。
初球、外のストレート。
高めに吹き上がるようなこのボールに、多田野の予想に反して大野は踏み込んできた。
甲高い音と共に、三塁線へと切れる打球。
悪くない当たりではあったが、ここは振り遅れてファールとなった。
(だろ。シナリオ通りにいかねーんだよ、こいつ。カッコつけで、毅然としたエースの癖に、こういうとこは泥臭い。エゴを見せるようになったと思ったら、チームのために最善を尽くしてきやがる。)
本当に、勝利に貪欲。
そんな所に呆れるし、正直尊敬もする。
だが、今は関係ない。
寧ろその想いごと一緒に、叩き潰す。
(抑えるぞ。お前にとっての最善の選択で。)
(…!はい!)
球審から返された白球を受け取った成宮が帽子を被り直すと、大野は併せてバットを振り直す。
(んー。多田野が油断してる初球がチャンスだったんだけど。)
内心そんなこと思いつつ、チラリとベンチの方へと視線を向ける。
ベンチでは、目元を手のひらで覆うコーチの落合と、明らかに顔が強ばっている監督の片岡。
2人の首脳陣の明らかな不服な表情たちに、当然のように気まずくなった大野は直ぐに視線を戻した。
(許してくれよ、監督にコーチ。俺もみんな為に何とかしたいんだよ。)
苦笑しながらも、ヘルメットの鍔に触れた途端大野は真剣な表情へと戻る。
(ヒットなんて烏滸がましいことは言わない。せめて、少しでも。)
その瞬間、大野の視線に入った成宮。
力配分が分かりやすいと言われていた彼だったが、明らかに先程までと空気が違う。
こちらに対してビリビリと伝えてきているのだ。
確実に、全力を。
2球目は、スライダー。
左対左に於いて、この逃げるボールというのはかなり有効的。
ただでさえ角度のあるコースからさらに逃げるように変化する為、外寄りに立っている大野からすればより遠く感じる。
しかしこのボール。
大野はある程度予測していたか、バットを出さずに見送った。
カウント、1-1。
3球目は、初球同様外のストレート。
これも見送ったものの、ゾーン内高めに決まった148km/hで早くも追い込まれる。
4球目のストレート。
これも外、低めのボールだったがバットに当てる。
ここまで、全てのボールは外。
大野が外に立っている分、内側に行くとそれこそ甘めに行ってしまうため思い切って行きにくい。
9番とはいえ、普段上位を打つこの男を先頭では出したくない。
それこそ、こういう試合では案外、ピッチャーが何かを起こすことは大いに有り得るのだ。
5球目。
多田野の要求に対して、成宮はこの試合初めて首を横に振る。
ワインドアップで投げ込まれたボールは、この試合では殆ど投げていない、所謂温存していた必殺のボール。
最後は外のチェンジアップを打たされ、サードゴロに倒れた。
一塁ベースを踏みしめ、大野は天を仰いでベンチへと向かう。
何とかしたかったが、打開すらできない。
自身の失点だっただけに、せめて球数くらいは投げさせたかった。
「すまん、倉持。3球三振とは行かなかった。」
「監督がすげえ顔してたぜ。覚悟して戻った方が良さそうだ。」
ヒャハっと笑い、倉持が大野の背中を叩く。
「まあ、でもよ。お前の気持ちは伝わったから。攻撃は、俺たちに任せろよ。」
不相応ながら、頑張った甲斐はあったか。
そう思いながら、大野は打席に向かう倉持と、ベンチで待ち構える”日本一のチームメイト”へと視線を向けた。
史上最強、青道打線の反撃が始まる。